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第四部 春霞(はるがすみ)

第15話

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 クローゼットの中に閉じ込められている間、なぜかわたしは去年か一昨年おにーちゃんといっしょにやったDSのゲームを思い出していた。
 いっしょにやったといっても、わたしは隣で見ていただけだけれど。


 身寄りのない勇者を、魔王や魔物たちからその存在を隠しながら育てる山奥の隠れ里に、ある日魔物が攻めこんでくる。

 隠れ里に住むみんなは、世界を救える力を持つ勇者だけは絶対に生き残らせようとして、里の地下の隠し扉の奥に閉じ込め、魔物たちと必死に戦い、全員が命を散らす。

 主人公の旅はそんな風にして始まる悲しいゲームだった。


 勇者はわたしじゃないのに。おにーちゃんなのに。

 わたしはそんなことを考えていた。



「みかな、もう終わったよ。出ておいで」

 クローゼットを開けたおにーちゃんは、優しくわたしに声をかけた。

 おにーちゃんは無事だった。怪我ひとつしていなかった。

 山汐紡も内藤美嘉も、夏目メイもパソコンの画面に戻っていた。

 だけどそこに山汐芽衣はいなかった。


 おにーちゃんは、紡とふたりで、わたしの携帯電話に、小久保晴美を閉じ込めたそうだった。
 携帯電話は、電源が入ったままだったけれど、機内モードになっていた。


 山汐凛も怪我ひとつなかった。

 けれど、山汐芽衣になっていた。

 芽衣はお気に入りのくまのぬいぐるみのリュックを抱きしめていた。

「継(つぐ)」という名前らしいその子は、手足がちぎれていた。

 おにーちゃんの身体で思う存分暴れていいと言われた夏目メイは、凛の身体に怪我を負わせないように、スタンガン一撃で小久保晴美の動きを止めたそうだ。

 スタンガンや拳銃、銃声を消すためのサイレンサー、そういったものを、継の手足にあらかじめ仕込んでいたらしかった。


 凛が捨てたつもりだった携帯電話も、メイは継の中に仕込んでいた。

 彼女が捨てたのは、加藤学が壊したスペアと同様に新しいスペアだった。

 メイは、自分が犯してしまった過ちのせいで、凛はいつか必ずそうするだろうと予測して、自分のためではなく凛のためにそうしたらしい。

 自分がしてきたことの罪は自分のものでしかなく、凛にはまったく罪はない。

 けれど凛は、必ずそれを、自分の罪だと思い込むだろう。
 死ぬことや消えることで償わなくてもいい罪を償おうとするだろう。

 凛には生きて欲しかった、と夏目メイは言った。


 小久保晴美がいなくなっても、凛は閉じ込められた天岩戸(あまのいわと)の中から出てくることはなく、そのまま閉じ籠ってしまったらしかった。

 天岩戸は、日本神話における神の国である高天原(たかまがはら)の最高神、天照(あまてらす)が自ら閉じ籠ったとされる場所だった。

 凛が天岩戸に閉じ籠ってしまった以上、別人格の誰かが凛の身体に入らなければ、加藤学と同じで脳死状態になってしまうらしかった。

 そこで紡や美嘉やメイは、凛の身体に移る人格に、まだ幼い芽衣を選んだそうだ。

 凛がいつ天岩戸から出てくるかはわからないけれど、それまでの間だけでもいいから、産まれてくることもできず、長い間姉を守るために小久保晴美の一部を取り込み、夏目メイになってしまっていた芽衣に、人として生きてほしい。

 それが彼らの願いだった。


「こんなはずじゃなかった」

 と言ったおにーちゃんに、

「君はよくやってくれたよ」

 紡はパソコンの中から言った。

「ぼくたちもその存在を知らなかったような、おそろしい人格の存在に気づいて、その対処法まで考えてくれていたんだから」

「凛の身体が相手じゃ、好き放題暴れられなかったけどね。
 あと、あんたの身体、筋肉なさすぎ。少しは鍛えなさい」

「君がいてくれなければ、いずれ凛やぼくたちは全員、必ずあの小久保晴美に消されていた」

「あの小久保晴美とかいう女は、たぶん10年前のように、テロを起こそうとしたに違いないわ。
 あんたはそれを、また未然に防いだの。
 凛は生きてる。
 芽衣にも人として生きる時間を与えてあげられる。
 結果オーライよ」

 紡とメイは、落ち込んでいるおにーちゃんをたくさん誉め讃えてくれた。

 でも、おにーちゃんの表情は変わらなかった。

 わたしにできることは、その手を握ることだけだった。


「今は、みかなちゃんの携帯電話に閉じ込めた、そのテロリストをどうするかだけを考えよう」


「さっき公安の刑事を呼んだ」

 おにーちゃんは言った。

「ぼくがシノバズを名乗り始めたときから、十年間いっしょにいろんな事件を解決してきた人だから、信頼できる人だ」


 真夜中だというのに、その人は東京からすぐに来てくれた。

 いくら東京と横浜がそれほど離れていないとはいえ、おにーちゃんから連絡を受けてから一時間ほどで来てくれるなんて、ふたりは本当に信頼しあう間柄なのだと思った。

 その人は男の人で、たぶん四十歳前後だと思う。

 でも見た目は若く、二十代後半といったところで、おにーちゃんとそんなに年が変わらないように見えた。

 公安と聞いてイメージする怖い印象はまったく感じさせない、優しそうな顔をしていた。

 寝ていたところをおにーちゃんからの電話で叩き起こされたのか、かわいらしいパジャマを着ていた。
 奥さんの趣味なのかな、と思った。


「驚いたな。おまえ、本当に部屋から出られるようになったんだな」

 その人はおにーちゃんに言った。

「天下の警察様ですら解決できないような難事件をいくつも解決してきたシノバズ(不忍)が、いつまでも自分の部屋に忍んでちゃ、妹にかっこつけられないからね」

 おにーちゃんは、皮肉たっぷりにそう言った。
 警察に対してと、自分自身に対して。


「おまえがあの部屋の外に出られることになることが、俺の夢だった。
 10年前、俺がおまえの両親に、お前がどれだけすごいことをしたのか、ちゃんと理解してもらえるように説明をしなかったせいで、お前は部屋にひきこもるようになった。
 ずっと後悔していた」

 その人はそう言った。

 その人は10年前、おにーちゃんを訪ねてきて、警察に連れていった人だった。
 わたしはまだ6歳だったけど、その人の顔はよく覚えていた。

 わたしは、おにーちゃんにとって、たとえ血の繋がりはなくても、その人がお父さんであり、お母さんでいてくれたんだな、と思った。

 おにーちゃんが、自分が今生きていることや産まれてきたことが間違いなんかじゃないと気づけるように、おにーちゃんをずっと導いてきてくれたのだと思った。


「きっと、どれだけわかりやすく、小学生にでもわかる言葉で説明したところで、結果は変わらなかったと思うよ。
 理解する気が最初からないんだ、あの人たちは」

 おにーちゃんは、とても悲しそうにそう言った。

 その人も、そうか、とだけ、悲しそうに答えた。


「でも、その夢がかなうと同時に、まさかあの小久保晴美まで捕まえてくれるとはね」

 その人は、うれしそうにわたしの携帯電話を手に取り、そう言った。

「こいつは、警察が押収させてもらうよ。あとのことは俺にまかせてくれ」


 そして、その人は、わたしを見た。

「悪いね、みかなちゃん。
 みかなちゃんやそのパソコンの中のみんなに、ちゃんと自己紹介したいところだけど、公安の人間は名前を明かせないんだ」

 わたしだけじゃなく、紡や美嘉やメイもちゃんとひとりの人間として見ていた。語りかけていた。


「ぼくは勝手に、一条さんって呼んでる」

 おにーちゃんらしい名前だなって思った。
 一条さんというのは、仮面ライダークウガに出てくる刑事さんの名前だった。


 クウガには、仮面ライダーはクウガひとりしか出てこない。
 だから一条刑事は仮面ライダーにはなれない。
 けれど、クウガに変身する五代雄介が一番信頼する人で、彼の一番の理解者で、彼の身をいつも案じる、優しくて、強い心を持った人の名前だった。


「でも、下の名前はこの人が勝手に決めた。輝(ひかる)。マクロスが好きなんだってさ」

 と、おにーちゃんは笑った。
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