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第二章 ヴァルナ

2-13 青月の夜に

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 ちっ、と舌打ちをしたくなるのをサヴィトリはどうにか寸前で抑える。
 少しイラッとした時に舌打ちをしてしまうのは、養父ゆずりの悪い癖だ。本当に苛立った時は、眉間に皺が寄り、極端に口数が少なくなる。こちらはナーレンダゆずりだ。

 ジェイが食堂を出てから数秒もたっていない。にもかかわらず、サヴィトリはジェイの姿を見失ってしまった。あまりにもジェイの影が薄いため、本当に夜陰に溶けこんでしまったのかもしれない。

(いや、ジェイの影が薄いというか、他が濃すぎるんだな)

 カイラシュとヴィクラムは、それぞれ方向性は違えど類稀な美形。ナーレンダは(現状)金色の喋るカエル。ニルニラは室内屋外を問わず派手な日傘を差し、動きづらそうなピンクのふりふりドレスを身にまとっている。

 サヴィトリはどこにむかうべきかと耳を澄ましてみた。
 だが何も聞こえてこない。悲鳴もジェイの足音も、それ以外の物音も。耳の奥がきーんと痛くなるくらい静まり返っている。ジェイも悲鳴を聞いて出て行ったのだから、気のせいということはないだろう。

 ここ数カ月クベラ王城で過ごしたせいで感覚が麻痺していたが、ヴァルナ村村長の家は村の規模に対して不釣り合いなほど広い。鉱石資源が豊富だということだし、うまく儲けているのかもしれない。

「――こっ、こんな所で何をしているのでございます!?」

 サヴィトリがあてどなく歩いていると、あからさまに焦ったような声が聞こえてきた。こんな時でも日傘を差している。閉じることができない呪いの日傘なのだろうか。

「散歩。ニルニラは? あとジェイ見なかった?」

 サヴィトリは短く簡潔に答え、間髪入れずに聞き返す。

「あ、あんたさんに教える義務はないのでございます!」

 ニルニラは必要以上に声を荒げた。元々声が高めなこともあり、不愉快に鼓膜に突き刺さる。

「確かに。それじゃおやすみ」

 サヴィトリは素直にうなずき、ニルニラにひらりと手を振って横を通りすぎる。
 悲鳴は気になるが、それよりも眠気の方が強くなってきてしまっていた。よほどのことがない限り、ジェイに任せておいても問題はないだろう。

「う~~~! ちょっと待つのでございます! なんか納得がいかないのでございます!」

 ニルニラが腕をつかんで引きとめてきた。意外と構ってほしいタイプらしい。

「えー? ニルニラと違って、私は明日魔物退治に行かなきゃならないんだ。特に用がないならもう寝たい……ふぁあ、あ、ニルニラも明日行く?」

 喋りながらあくびが出てしまった。ホットミルクを飲んだあたりから異常に眠い。

「ガイドの仕事外のことはしたくないのでございます」

 確か夕飯の後に誘った時も、一言一句同じ台詞で断られた気がする。

(でもガイドの仕事もロクにしてないような?)

 サヴィトリは口から出かかった本音をあくびと一緒に飲みこんだ。ここでツッコミを入れると話が長くなる。

「……ジェイは見ていないのでございますが、カエルなら見たのでございます」

 今更ニルニラが質問に答えた。

「カエル……ナーレ?」
「さっき中庭でぴょこぴょこ跳ねていたのでございます。特に気に留めなかったのでございますが、今思えば自力で帰れなくなったのかもしれないのでございます」

 カエルの姿になってから、ナーレンダは移動する時は誰かの肩に乗っているか、荷物の中で寝ているかのどちらかだ。普通のカエルよりも力はあるようだが、跳ねて移動するには限界がある。

(カイと喧嘩でもして置き去りにされたかな?)

 サヴィトリはこっそりとため息をつく。
 カイラシュとナーレンダはあまり仲が良くない。もっとも、カイラシュと仲が良い人物など見たことがないが。また同様に、ナーレンダと仲が良い人物もほとんど見たことがない。

 サヴィトリは仕方なく、中庭の方へと足をむけることにした。万が一にでも、屋外で凍死した姿や、野犬に襲われた姿など見たくはない。

* * * * *

 昼間、空を覆っていた灰色の雲はすっかり消え、薄い雲をお供につけた青白い月が退屈そうに浮かんでいる。

 ナーレが好きそうな月だな、とサヴィトリはぼんやりと思った。
 一緒に住んでいた時、しばしばナーレンダは小屋の屋根に寝そべって月を見上げていた。理由はよくわからない。趣味だったのかもしれない。ナーレンダの機嫌がいいと、サヴィトリを隣に呼んでくれることもあった。

 月と術は親和性が高く、月の光を用いて疑似的に術を行使することが云々、などといううんちくから、煌々と夜を明るく照らすより、うっすらと空にあるくらいが風情があっていい、といった個人的な月の好みまで、色々な話を聞いた。
 本当に、ナーレンダ曰く「余計なこと」ばかり覚えているものだ。

 数時間前まで雨が降っていたせいか、想像以上に外の空気はしっとりと冷えていた。
 サヴィトリは腕あたりをこすり、注意深くあたりを見まわす。明かりになるものを持たずに出てきてしまったためよく見えない。睡魔のせいで判断力も鈍っているようだ。
 サヴィトリは組んだ両手をぐーっと押しあげて伸びをした。気持ち目が覚める。せめて部屋に戻るまではちゃんと意識を保っていないと。

 そう思ったにもかかわらず、サヴィトリの目に奇妙としか言えない光景が映った。
 突然、今夜の月に似た青白い光が地面から発生した。幾筋もの細い光がくるくると螺旋を描いて舞いあがる。

(なんとなく、異世界とかからよからぬモノが召喚されそうな雰囲気だな)

 サヴィトリは指輪にくちづけ、氷の弓を携える。寝ぼけたサヴィトリの意識が作りだした夢や幻でないなら、用心するに越したことはない。

 サヴィトリが静かに見守る中、青銀の光は複雑に絡み合い、一つの形を編みあげていく。
 形が明確になるにつれて、サヴィトリの警戒は薄れ、代わりに懐かしさがこみ上げてきた。氷の弓はサヴィトリの手から離れ、地面に落ちると青い光となって指輪の石へと戻る。

「……ナーレ!」

 サヴィトリは駆ける。

 以前にも同じようなことがあった。
 ようやくナーレンダに会うことができて、嬉しさのあまりサヴィトリは駆け寄った。だがそれを阻むように視界が深緑一色で埋めつくされ、全身が棘で締めつけられる。
 悪夢にうなされるほどの出来事だった。

 それでも、サヴィトリは駆けていた。
 月の銀糸で編みあげられたナーレンダにむかって。

「ナーレ!」

 サヴィトリは子供の時にしたように、ナーレンダに飛びつく。

「……サヴィトリ!?」

 サヴィトリの姿に気付いたナーレンダは、驚愕の色をした瞳をむける。
 これも、あの時と同じだった。

(また、あの棘が出るのかな。痛いのは嫌だなぁ)

 今になって、サヴィトリに諦めが襲ってきた。
 しかし、サヴィトリの視界が深緑で覆われることも、全身が棘で締めつけられることもなかった。と同時に、ナーレンダの身体に触れた感触もなかった。
 代わりにサヴィトリが感じたのは、土と青臭い草の匂い。それから少し遅れて、頬をこすったひりひりとする痛み。
 サヴィトリはナーレンダの身体をすり抜け、顔から地面に滑りこんだ。

「痛い……」

 サヴィトリは服や顔に付いた土を払い、ゆっくりと立ちあがる。

「っ、馬鹿! 何をやっているんだ君は!」

 サヴィトリを怒鳴りつけたのは、金色のカエルではなく、空色の髪に金色の目をした少年――ナーレンダだった。

(……ナーレってもう三十くらいじゃなかったっけ)

 サヴィトリは首をかしげる。
 ナーレンダがハリの森を出た時、確か二十歳前後だった。どちらかといえばナーレンダは童顔だったが、あまりにも当時と顔が変わっていない。

(というか、ナーレがいるのに、なんで棘が出てこないんだ?)

 サヴィトリは左手中指のターコイズの指輪をじっと見つめる。そこからは何も出てきていなかった。だが、指輪をはずそうと引っぱってみてもまったく動かない。

 サヴィトリの頭の中が疑問符でいっぱいになる。
 助けを求めるようにサヴィトリが見つめると、ナーレンダは面倒くさそうにため息をついた。

「これは、幻術の一種」

 ナーレンダはサヴィトリの頭にむかって手を伸ばした。手は頭を貫通し、後頭部から指の先が現れる。サヴィトリに、触られているという感触はまったくない。

「触れることも触れられることも一切できない。そこに像が映し出されているというだけ」

 サヴィトリもナーレンダに手を伸ばしてみる。確かに目の前にナーレンダは存在しているのに、なんの感触もない。

「術、封じられているんじゃなかったっけ?」
「ああ。君がおかしな呪いにかかったせいでね」

 見下すように言われ、サヴィトリはナーレンダに拳を振りおろしたが、ただ空を切っただけだった。よりいっそうイライラがつのる。

「君って昔から手が早いよね。子供のパンチならまだ可愛げがあるけど、君のはもう立派な凶器だろう。あーあ、どうしてこんなのに育っちゃったやら」
「三十路のくせに、まだひねくれてるナーレに言われたくない」
「まだ三十路じゃないし、僕のどこがひねくれてるっていうんだ!」
「全部」
「喧嘩を売っているのか君は!」
「最初にふっかけてきたのはナーレだろう!」

 サヴィトリとナーレンダは今にも噛みつきそうな顔をし、互いににらみ合う。
 しかし数秒後、どちらからともなく笑みが漏れた。

「――ったく、君とむかい合って喧嘩するためにわざわざ幻術なんて使ったわけじゃないんだけどな」

 ナーレンダはサヴィトリの頭に手を伸ばしかけ、やめた。

「さっきの質問だけど、僕の術はまだ封じられたままだ。この幻は、月の力を借りて作ったものだとでも思えばいい。どうせ君は術の原理なんて興味ないだろう」

 悪意のあるナーレンダの言い方にむっとしたがサヴィトリはおとなしく首を縦に振った。下手に反抗して高度かつ複雑な術式の話をされても困る。

「君の呪いに影響ないか確認してから見せようと思ってたんだけど、まさかいきなり見つかるなんてね」
「だったらもっとこっそりやればよかったのに。結構派手だったじゃないか。それに、確認なんてどうやってするつもりだったんだ?」
「…………でもまぁ、よかったよ。棘が出なくて」

(なんにも考えてなかったな)

 微妙な間とナーレンダの表情からサヴィトリは断ずる。
 詰めが甘いというか、肝心なところが抜けているというか。

「それで、ナーレはどうして幻術なんか使おうと思ったの? なんの役にも立ちそうにないけど」

 接触不可能でナーレンダの姿を現すだけ。それに付け加え、おそらく月の出ている夜限定の術だろう。静止状態だけでなく動く姿にも違和感がないほど幻の再現率は高いが、サヴィトリにはその利用価値が見いだせない。

「……ちゃんと……君……からだよ」

 ナーレンダはうつむきがちに言った。そのせいなのか単純に声自体が小さかったからなのか、さっぱり聞きとれない。

「なんて言ったの、ナーレ?」
「だから……」
「だから?」

「……っ、ちゃんとむき合って、君と話したかったからだよ!」

 今度は鼓膜が破れるのではないかというくらい大声でナーレンダは言った。
 ちゃんと聞きとれはしたが、きーんとひどい耳鳴りがし、内容を理解するどころではない。

「なんかさ、あの姿だと君にないがしろにされているみたいで嫌だったんだ。あと数日の辛抱だってわかっているけど、どうしても我慢できなかった。……ったく、こんな情けないこと言わせないでよ」

 ナーレンダは口元を手で覆い隠し、そっぽをむいた。
 それから数秒たって、ようやくサヴィトリの理解が追いつく。
 サヴィトリは笑顔を浮かべ、ナーレンダの顔をのぞき込んだ。

「な、何さ」
「ありがとう、ナーレ」
「き、君のためにやったわけじゃない!」
「でも、なんか嬉しい。ありがとう」

 サヴィトリはナーレンダに抱きつこうとして思いきりバランスを崩す。というより自ら進んで地面に倒れこんだようなものだ。

「ばーか」

 ナーレンダは悪態をつき、サヴィトリにむかって手を差し伸べた。
 サヴィトリは手とナーレンダの顔とを交互に見る。
 お互いに触れられないのだから、手を差し出してもらってもなんの意味もない。
 遅まきながらサヴィトリの視線の意味を察したナーレンダはばつが悪そうな顔をし、慌てて手を引っこめる。

「ばーか」

 ナーレンダをまねて言ってみたが、サヴィトリにはどうしても、笑顔になってしまうのを抑えられなかった。
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