毒の果実

夢 餡子

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瑠美子

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 私は西新宿のオフィス街にある保険会社に事務のパートとして勤めている。今年で2年目だ。
 自宅からは電車を使って30分ほど。始業時間が10時からと遅めなこともあり、夫よりも家を出るのがゆっくりだ。パート時間の終業も17時と早めで、勤務時間は短い。

 働き始めた理由は、家を買ったから。一戸建ては二人にとって結婚する前からの夢だった。だが都心に近いとなると、小さな建売りとは言え、その価格もとてつもなく高い。長期ローンとは言え、夫の給料だけでは生活が苦しい。だから私も働かざるを得なかった。

 結婚する前は、アパレル会社で企画の仕事をしていた。
 ネット販売のWebサイトを立ち上げる大役を任され、そこにシステムの営業担当としてやってきたのが夫である高橋光司だ。

 システムのことなど疎くて、どうしようかと酷く悩んでいた私に、光司は丁寧に色々教えてくれた。中肉中背で、顔もそこそこ良い。そして何よりも優しくて、どんな時でも笑みを絶やさない。仕事でずっと忙しく彼氏を作る暇などなかった私が、次第に彼へと心が惹かれて行ったのは、当然の成り行きだったのかもしれない。

 Webサイトが無事にローンチしたその日。
 お祝いしましょうと、光司に誘われた。もちろん、断る理由はない。
 青山にある高級イタリアンの店で、光司からいきなり告白された。

「実は優里さんのこと、ずっと気になってました。もし良ければ、お付き合いしてもらえませんか?」

 下の名前で呼ばれたのは、それが初めてだった。
 突然のことにびっくりしたけれども、普段と変わらぬ優しげな笑顔、そして背を正した真面目な言い方に思わず、はい、と答えた。

 1年の交際期間を経て結婚。それから7年。子供はいないけど、周りからは、おしどり夫婦と呼ばれている。
 光司の印象は、ずっと変わらない。真面目で優しくて。些細なケンカはあれど、すぐに光司の方から折れてくれる。
 光司は夫として常に完璧だった。私がずっと心穏やかに結婚生活を送ることができたのも、光司の存在があってこそと言えよう。

 だけど、いきなりこんな感情に取り憑かれるなんて。

 もちろん、光司が浮気している証拠なんかどこにもない。はたから見れば、私の勝手な思い込み、気のせいだと思われるだろう。私だって、そう思い直したい。

 恐ろしい考えを打ち消そうとすればするほど、無数の手が私を底見えぬ沼へと引きずりこむ。顔なき化け物たちは、沼の深い深い底にある真実を見ろと囁く。

 気がつくと、会社に辿り着いていた。
 高層ビルの32階にある、広大なオフィスフロアには多くの社員が既に仕事に取り掛かっている。社員の勤務時間はパートより1時間早い9時からだ。

 私の席はフロアの端にある。そこはパート専用のスペースで、私含めて5人がそこで働いていた。
 社員たちに挨拶をしながら自分の席に腰掛けて仕事の準備をしていると、後ろから声を掛けられた。

「高橋さん、おはよう!」

 振り返ると、パート仲間の立花瑠美子だった。私よりひとつ年上で、ここでのパート歴は私よりも長い。離婚歴があると聞いている。
 36歳という年齢に見合わず、瑠美子は若く見えた。おそらく20代後半と言っても通用するだろう。しかも目が大きくて鼻筋の通った美人で、スタイルも良く何を着ても似合う。今日も膝上丈のスカートからすらりと伸びた綺麗な足を、通りがかった男性社員がちらちらと見つめていた。

「立花さん、おはようございます」
「ねえねえ、ちょっと聞いてよ! 朝から電車ですっごいモノ、見ちゃってさあ」

 瑠美子は私の隣の席に座りながら、いつものように派手な笑顔を惜しげもなく振りまいた。

「どうしたんですか?」
「目の前に立っていた50くらいの女が、いきなり後ろにいた若い男の手を掴んで叫んだの。痴漢よ!ってね。男の方は、なんで、てめえみたいなババアに俺が痴漢するんだって、キレちゃって。それがさあ、結構なイケメンなのよ。私、めっちゃタイプかも」

 壁にかかった時計はパートの始業時間である10時を指したが、瑠美子は気にする様子もない。何事も大雑把で話し好きで、誰にでも人懐っこい性格。それが瑠美子だった。
 
「女の方はと言えば、これがまたブッサイクで。どこか頭のネジが切れちゃったような感じなわけよ。私含めて周囲の誰もが心の中で男の子に同情してたハズ。気の毒になあ、変なのに絡まれてってね。そしたらさあ、いきなりその女が男の子を引っ叩いたの……!」

 始業時間を過ぎても瑠美子の話は止まらない。
 向かいの席に座るパートリーダの、最も古株である関口さんがメガネ越しにじっと瑠美子を鋭い目で睨みつけるが、瑠美子は気にする様子もなかった。
 私は瑠美子の話に僅かに相槌を打ちながら、パソコンの画面を見つめつつキーボードを叩き、新規保険加入者の登録作業を始める。仕事中に無駄話を聞いている気まずさも勿論あったが、それ以上に今朝のことで心がざわざわと落ち着かなかった。

「そしたらさあ、その男の子、あっけに取られてその場に立ちすくんじゃったのよ。たぶん、これまで異性から引っ叩かれた経験なんてなかったんじゃない? 優位に立ったとみた女はさらに強気になっちゃって……」
「立花さん!」

 堪忍袋の尾が切れたのか、関口さんが強い口調で瑠美子に声掛けした。

「もう仕事始まってますから、仕事と関係ない話は慎んでください!」
「はーい、すみませんー」

 瑠美子は反省の色も見せずに愛想良く返事すると、仕方なさそうに自分のパソコンの電源を入れた。
 ちらりと私のほうを見ると、小声で囁く。

「そうそう。その女って、まさに関口さんっぽい感じだわ」
「うん……話は休憩時間にでも聞くから」
「あれえ? 優里ちゃん、なにかあった?」

 その言葉にびくりとした。いつもと変わらないよう、心がけていたつもりなのに。
 どうして瑠美子に悟られたんだろう。マイナスのオーラが出ていたんだろうか。
 
「旦那とケンカでもしたとか?」
「そ、そんなこと……」
「まあ、いいや。話は休憩時間にじっくりと聞いてあげるからねー」

 瑠美子はにやりと笑うと、やる気無さげにようやくパソコンのキーを叩き始めた。

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