毒の果実

夢 餡子

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はめられた入会

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「ちょ、ちょっと待ってよ。私、クラブの話、たった今聞いたんだよ? 入会するなんて言ってないし、そんな気もさらさらない。だいたい、入会するには書類にサインとか必要でしょうが。本人が拒否してサインもしてないのに、そんな勝手なこと、許されるはずがないよ!」

 声を荒げて瑠美子に詰め寄った。頭の中は溢れんばかりの怒りの感情でいっぱいだった。だが瑠美子はそんな私のクレームなど、どこ吹く風だと言わんばかりに至って涼しい顔でこう答えた。

「優里、あなた勘違いしてるわね。クラブへの優里の入会は、もう決定したことなの。確かに推薦はしたけど、決めたのは私じゃない。もっととてつもなく『偉い人』よ。その人が下した決定に、私たちはただ従うしか選択肢はないの。百獣の王である獅子に平伏す哀れな羊のようにね。紙にサイン? 笑わせないで。契約は言葉で決まるんだから」

 瑠美子の話がさっぱり頭に入ってこない。まるでどこか遠い国で、知らない言葉で話しかけられているみたいだ。地下にひっそりと沈んでいく古ぼけたカフェは目に見えぬ水で溢れてゆき、溺れてしまいそうなほど息苦しかった。

「でも、心配しないでいい。入会したと言っても会費は無料だし、優里が自ら行動しない限り、何ひとつ起きないわ。普段通りの生活が送れるの。それは約束する」
「自ら行動するって、どういうこと?」

 すると瑠美子は、ある番号を口にした。それが電話番号だとすぐに気づく。

「覚えた? 番号は紙に書いたり、スマホにメモするのは厳禁。契約書のサインがないように、証拠となるものは一切存在させない。それがクラブのルールなの。優里がクラブに興味を持ったら、ここに電話するだけでいい。そうすればすぐにお相手が紹介される。勿論、会ってみて嫌だったら、黙ってその場を立ち去るだけ。その相手とはそれっきり顔を合わすこともない。だけど気が合って一晩過ごせば……お金が支払われるわ。結構な額のね」
「ま、待って! それって……!」
「いいえ、優里が思っているようなたぐいじゃない。相手も既婚者だから、これは言わば秘密を守るための保証金。それに……さっき女性の条件として、パートナーが浮気していることって言ったわよね。なぜだと思う?」
「それは……わからない」
「関係を持つってことは、意志を持ったパートナーへの復讐よ。そうしてお金も手に入れる。こんなこと、絶対に旦那に告白できないでしょ。だけど優里はきっと密かに満足する。ついでにクラブの秘密も守れるってわけ。どう、うまくできてると思わない?」

 そこで瑠美子はふっと顔を寄せて、声を潜ませ「だけどね」と囁いた。

「もしクラブを危機に晒すような事態が起きたら……その時は、ただじゃすまないから」

 まるで毒リンゴを持った老婆のように、いつしかその声はしわがれていた。

「ど、どうなるの?」
「消えてしまうの」
「消える?」
「そう。社会的に消えてしまう。それがどんな意味を指すのかは、誰も知らないけど」

 震えが止まらなかった。考える暇など一切与えずに、瑠美子はまるでグリムのお伽噺を話すかのように喋り続け、そうしていつしか私は、赤子のようにその悪夢に飲みこまれていた。

「ここ、普通のひとならまず訪れることもないサファイアはね。クラブの社交場なの。見てごらん。あそこにいるカップルたちも会員だよ。ここで秘めやかな会話をして、これから何処かで秘めやかな行為をする」

 まるで歌うように瑠美子はそう言うと、「お話はこれでおしまい」と、まるで本をぱたりと閉じるように言葉を切った。
 頭が真っ白のまま、なにも言い返せない。どうしようもないまま不思議な物語は終わり、続きの物語を自分が書くように仕向けられている。それを決めるのは自分の意志に委ねられていた。気持ちが激しく揺さぶられていたけど、心の底では結論が出ている。そんなこと、私にはできないと。
 だけど、そう口にしようものなら、更なる瑠美子のペースに嵌り、いつしか心を侵食されてしまう。なんとか、話をそらさないと。

「……瑠美子はどうしてクラブに入会できたの? バツイチだって聞いてたけど」

 話題が思いつかず、やっとのことでそう聞くと、瑠美子はすっかりいつもの垢抜けた表情へと移り変わり、あっけらかんと答えた。

「あら、言ってなかったかしら。私、再婚したんだ。とは言っても仮面夫婦だけどね。お互い好き放題やっているから」

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