毒の果実

夢 餡子

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夫の気配

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 一度家に帰り、着替えて会社に行く支度をした。
 本当は休みたかった。酷く疲れていたし、睡眠も取っていない。それに頭の中が混乱したままで、ゆっくり整理する時間が欲しい。
 だけど今日休んでしまったら、さすがに会社での立場が危うくなる。昨日だって関口さんを怒らせたばかりだ。
 所詮パートリーダーとは言え、あることないこと騒ぎ立てて管理部に私の処罰を進言する可能性だってある。篠崎課長が私を擁護してくれるとも限らない。

 今、仕事を失うのはまずい。家のローンのためのお金がどうしても必要だ。ただでさえ、パートの給料だけでは厳しいのに。
 そう考えると、ヘンゼルから保証金を貰いそびれたのは迂闊だった。でも、今更どうしようもないこと。

 お腹が空いていることに気がついた。そういえば昨日の昼から何も食べていない。
 冷蔵庫を開けてみたが、大した食材は入っていなかった。ふと夫が作っていた朝食を思い出す。あの程度ならすぐに作れるだろう。
 フライパンに油を引いてハムを添えた目玉焼きを作った。それにパンと切ったレタス。紅茶が切れていたので代わりにコーヒーも。
 ミニトマトはないが見た目はほぼ、「いつもの」朝食の完成だった。

 目玉焼きをフォークで切って、一口食べる。やっぱり、どこか違う。ふつうに美味しいのだけれど、いったい何が違うんだろう。料理好きの夫は工夫をしていたとは言え、調理にさほどコツなんてない誰でも作れる目玉焼きなのに。

『ぼくがつくりなおしてあげようか』

 突然、夫の声が聞こえた。
 私は持っていたフォークを思わず投げ出すと、飛び上がるように立ち上がってすばやく辺りを見渡した。だが、夫の姿はどこにもない。
 空耳だったんだろうか。そうに違いない。いや、そうでなければ、私はおかしくなってしまう!

 食べかけの皿を乱雑に積み重ねる。キッチンに行き、震える手で全て洗い流した。到底、食べる気分じゃない。
 ふと背後に、夫の気配がする。耳元に夫の吐息を感じる。でも、恐ろしくって振り返ることなんてできない。
 洗っていた皿が手から滑り落ちてシンクに落下し、けたたましい音とともに粉々に割れる。破片で切ったのか、指から血がしたたり落ちていた。

『だいじょうぶ?』

 その声に反応してしまい、今度は思わず振り返った。
 だけどそこに、夫の姿はやはりない。静謐としたダイニングの空間が、ただ時を止めているだけ。

 理性が私に話しかけてくる。夫はいない。気配すらない。聞こえたのはただの空耳。だから落ち着くこと。洗面所に行って絆創膏を取って来なさいと。
 ぜいぜいと息を吐きながら、よろけるように洗面所へ向かおうとしたその時。

 テーブルの上に何かが置かれていることに気がついた。それはさっきまでは無かったものだ。
 引き寄せられるようにテーブルに近づいて見ると、それは1枚の写真だった。テーブルの中央に傾くことなくきちんと配置されている。まるで魔法のように、それは突然出現していた。
 おずおずと手に取ると、写真は指から流れ出る血で滲んでいった。

 それは、夫と私が写った結婚式の写真だった。

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