毒の果実

夢 餡子

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最終話

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 すっかり春を迎えていた。
 あれほど長く感じた極寒の冬は去り、眠っていた新緑は芽生え、今や満開の桜が咲き誇っている。
 
 暖かなその朝。私と光司は玄関の前に立って、すっかり綺麗になった我が家を見上げていた。
 修繕工事がやっと終わり、家が引き渡された昨日の休日は、部屋の片付けをしたり、新しい家具を買いに行ったりと大忙しだったのだ。

「こうして見ると、やっぱり自分の家っていいもんだよなあ」
「あれ? 昨日まではアパート暮らしも悪くないって言ってなかったっけ」
「そんなこと、言ったかな?」
「全く、とぼけちゃって」

 光司の脇腹に軽く肘鉄してやると、大袈裟なまでに痛がった。

「でもなあ。これでまた借金が増えちゃった。僕の軟弱な背中でこんな重荷を背負えるかな。いや、たぶん無理だろうなあ。ねえ、どうしよう、ゆうさーん」
「甘えてないでしっかりしてよね、大黒柱さん。わたしも頑張ってパート続けますから」
「はいはい。それでは気合を入れ直して、これから社畜してきます!」

 光司は背筋をぴしっと伸ばして私に向かって敬礼すると、とたんに砕けて愛想よくばいばいと手を振った。
 その腕には、いつも着けて離さない結納返しの腕時計が輝いていた。

 光司が出かけた後、改めて私は家を見上げた。
 ようやく気がついたことがある。私はこの家に執着してたんじゃない。光司と一緒に過ごすこの家が好きだったことを。

 家の中に戻って、出社の準備を始めた。
 今でも、前と変わらず西新宿の保険会社で働いている。でも、環境はすっかり変わってしまった。

 パートリーダーだった関口さんは、会社の金を遣い込んでいたことがバレてクビになった。契約者に黙って契約内容をこっそり書き変え、増えた分の保険料を懐に入れていたらしい。その総額は数千万円にも及んでニュースにもなり、会社から莫大な損害賠償を請求されていると聞いた。
 今では関口さんの代わりに、リーダーとして社員の女性がその席に座っている。関口さんと違って、とてもいい人だ。

 私の隣の瑠美子が座っていた席。そこは空席のままだ。
 少し前にネットニュースでこんな記事を見た。北関東の山奥で、30代と見られる男女の焼死体が発見された。身元は不明だと言う。それを見たとたん、瑠美子とヘンゼルを想像したが、本当のことはわからない。そう、おそらく永遠に。
 今でも昼休みのチャイムが鳴るたびに、隣から声が聞こえてくるような気がする。『さあ優里、ランチ行くよ』って。

 着替えているとスマホが鳴った。見ると亜矢からだ。

『やっと家に帰れたって聞いてさ。良かったね、優里』
「うん、ありがとう。亜矢にはすっごくお世話になっちゃって」

 火事を知った亜矢は夫の不動産屋を通して、賃料が格安にもかかわらず広くて住みやすい物件をすぐに手配してくれたのだ。おかげで、路頭に迷わずに済んだ。亜矢には感謝してもしきれない。

『結局、旦那ともすっかり仲直りしたんだって?』
「うん、そうだね。そもそも結局のところ、浮気なんかしてなかったし」
『だーかーらー。私、言ったよね。光司さんはそんなことしないって!』
「はいはい、すべて私が悪かったんです。亜矢には迷惑をおかけしました」
『心からそう思ってるなら、今度、たっぷりと奢ってもらうからねー』
「えーだって。亜矢に奢ると私、破産しちゃうよ」
『頭きた。絶対奢らせてやるっ』

 時計を見ると、そろそろ家を出る時間だ。また連絡するねと亜矢に言って、私は電話を切った。
 バッグを持ち、鍵を持って。
 そうして家を出る前に改めて、すっかり綺麗になったリビングに目を向けた。

 心の底から喜びが湧き出してくるのを、しみじみと感じていた。
 ここから、光司と一緒に改めてスタートしよう。そう強く決意する。

 家を出て、駅までの道を歩いていった。
 通り沿いに咲き誇る桜並木は、あたり一面をピンクの花びらで染めている。
 
 その美しい光景に浸っていると、ふたたびスマホが鳴った。
 亜矢は、なにか言い忘れたことでもあったんだろうか。そう思いながらスマホを手に取り画面を見る。

 その瞬間、凍りついた。

 着信音がいつまでも鳴り続けている。私は震える手で、通話ボタンをタップした。

『高橋優里様ですね』

 それは、すっかり忘れていた声だった。

『リクエストが来ております』
「あの……リクエストはお断りします。そうできるって聞きましたから」

 すると、帰って来たのは予期せぬ言葉だった。

『高橋様はリクエストを断ることを、許可されておりません』
「えっ、なぜ……」
『このリクエストは、強制ですので』

 はっとした。突然、あの凍えるような寒い夜の出来事が鮮明に蘇った。
 エムは言った。代償を払うことになるだろうって。代償……代償って……まさか。

 私はスマホを手にしたまま、その場に立ちすくむ。
 強い風にあおられて舞い落ちる桜吹雪は、まるであの夜の雪のようだった。



ー 完結 ー


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