原初の魔女

緑茶 縁

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第一朝、違和感

2日目 02

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 ぱしゃり、と手元のお湯が音を立てる。僕はお湯に沈んでいた。
 ダイニングの隣は、なんと浴場だった。それも、温泉くらいの規模の。
 あれだけ長い廊下が一部屋にまで収まったのだ、ありえない話ではないだろう。ないのだろうが──これでは至れり尽くせりではないか。何のために拐われたのか、まるで理解できない。ほとんど記憶そのままの僕の部屋に、安全そうな食材や調理器具、医務室まで。ここに永住でもしてほしいのかと訊きたくなる。
 だがしかし、何度でも言おう、僕達は誘拐されている身だ。もっと緊張感を持たねばならない。本来なら。
 一つ、問題があった。
 昨日は風呂があるなんてことは知らなかったのだ。僕のわがままのせいで。僕だけなら別にいいが、問題は姉さんである。僕はともかく、姉さんは年頃の娘だ。一晩入れなかっただけでも嫌だろう。勿論、そんなことを表に出さないのが姉さんの長所でもあり、短所でもあるけれど。
 けれど──僕は知っていた。姉さんはお風呂好きなのだ。
 湯船に浸かれるとわかったとき、目に見えて嬉しそうにしていたし。そこは昔から変わらない。
 流石に、これだけ生活用品を揃えておいて、風呂だけは危険ということもないだろう。今のところ、僕達を生かそうとしてくれているみたいだし。
 そんなわけで、ついでに僕も朝風呂を楽しんでいる。朝風呂なんて何年ぶりだ?
 乾いた風呂場で頭からシャワーを浴びると、目が覚めるみたいで心地いい。この感覚になるのは本当に久しかった。
 僕は浴槽に体を預ける。なんとなく天井を見上げると、蒸気で白く染まりつつあった。ふと、今朝の夢を思い出す。
 夢だけあって、もう記憶が薄れ始めている。細部は覚えていないが……そう、ちょうどこの天井みたいな白さだった。完全な真っ白、というよりは蒸気か霧が濃くかかっているときみたいな。お湯から手を持ち上げ、湯気をつかむ。手のひらがしっとりとして、熱気があって……うん。こんな感じだった気もしてきた。ただ、夢だからなのか熱気はなかったけれど。
 それと、……影も見えた。別段特徴がある影だったわけでもない。ない、はずだが──人影達は、それにしては異様に印象に残っていた。いや……印象に残る、ではないか。どちらかといえば、何かが引っかかる感じだ。例えるなら、小骨が喉に刺さっているとき程度の違和感。とても些細な違和感。放っておけばすぐに忘れられるのだが、ふとしたことで思い出す。
 ……僕は、何をこんなにも気にしているのだろうか。
 わからない。こういうとき、毎回僕の頭は役に立たない。わからないのはいつものことだった。
 でも……いつものことなのに、今日だけ躍起になって思い出そうとするのもおかしいよな。僕は諦めて、お湯から上がろうとした。
「……あれ?」
 思わず壁に手をつく。ぐらぐらと視界が揺れている。それに、軽い頭痛。どうやらのぼせてしまったらしい。
 少しの間じっとしていると、揺れは治まった。温泉に似た特別感があったせいか、つい長めに入浴してしまったようだ。
 戸を引いて脱衣所に出る。心做しひんやりとした空気が全身を包んだ。身体から熱が引いていく感じの気持ちよさがある。湯上り特有のこの感じは昔から好きだった。
 さっさと部屋から持ってきた服を着て、畳をぺたぺた鳴らしながら歩く。目的はドライヤーだ。事ある毎に思うが、誘拐先にしては物が充実し過ぎている──不気味なくらいに持て成されている。そりゃあ、あるか無いかだとあったほうがマシだけれども。僕は鏡の前に立った。
 鏡にうつった僕は、やはり姉さんとは何かが違った。
 何かが。
 僕と姉さんの、顔の造形自体は結構似ていると自負している。しかし、僕と姉さんでは、何かが違う。目に見えて違う。たぶん、他人には見えない……うちがわの部分が。
 髪に温風をあてると、鏡の中に居る僕の髪もはためいた。当たり前と言えば当たり前のことだが、今は髪を下ろしているからなのか、不思議な気分になる。なんとなく鏡と目を合わせるのが気まずくなってきて、僕は陶器製っぽい洗面器に視線を移した。
 僕が落とした水滴が、その辺りにだけ散らばっている。
 汚れなんて一つもなかったそこを、僕が最初に穢してしまった罪悪感。これだから、新品を使うのにはまだ抵抗があるのだ。どういうふうに使えば正解なのか、わからなくなる。
 だって、僕は……僕自身が。「代替品なんだから……」
 誰に聞いてほしいわけでもない、くだらない独り言が妙に反響した。……ように感じた。実際は反響どころか、ドライヤーの轟音に掻き消されているはずだ。
 ……やめよう……やめよう。こうやってくだらないことばかり考えているから非常事態に冷静を保てないんだ。
 姉さんと離れていると良いことがない。早く合流しよう。一旦冷風で頭を冷やしてから、ドライヤーの電源を切った。ネガティブな状態で合流するわけにはいかない。切り替えねば。
 僕は背筋を伸ばして、のれんをくぐった。
 あくまでも、人に見られないように、気をつけながら。
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