原初の魔女

緑茶 縁

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第一朝、違和感

3日目 04

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 それは、晩御飯を食べ終わったあとの出来事だった。
 京が作った料理は美味しい。僕も作れるには作れるが、京ほどではない。美味しさを追求した料理を食べた経験が足りないというのもあると思うけれど、料理をする上でどこに重きを置いているのかにもよるのだろう。僕はある程度食べられればそれでよしと思っていたから。
 だが、食事は美味しいほうが楽しい。姉さんのためにも、僕は料理を勉強せねばならないと思わせられた。
 なんだか癪に障る気がしないでもないけれど、ここは大人しく京に教えを乞うしかない。どうせ閉じ込められているんだ、この時間を有効活用するべきである。
 そんなことを考えていた矢先だった。
「凪沙君、こんばんは! 今夜は月が綺麗ね!」
「うわあッ!」
 背後から知らない女性に抱きつかれた。
 ここからは月、見えないが。どこの窓も真っ暗だが。
 気丈にもそういった皮肉で返せれば上出来だった。しかし、例の如く姉さん無しでは何もできない僕に、そのような大逸れた真似ができるはずがないのであった。よって僕は、虎に囲われた憐れな兎のように震えることしかできない。
「あら! 驚かせちゃったかしら。ごめんなさいね……そんなつもりじゃなかったの。陽ちゃんの弟さんを見かけたから、嬉しくなっちゃってついね。本当にごめんなさい」名も知らぬ彼女は、終始テンションが高かった。
 耳元で激しい動悸が鳴り響いているのは、慣れない雰囲気に対する恐怖のせいに違いない。
「陽ちゃんのことなんだけど……あっ、先に離したほうが良さそうね。陽ちゃんも言ってたもの」
 姉さんが何を助言したのかは知らないが、女性はそう言って、やっと僕を解放してくれた。
 かと思うと、そのまま肩を掴まれ、ぐるりと半強制的に彼女のほうを向かされる。不思議と痛くはなかった。流れに沿って回された、そんな感覚。僕は彼女を見上げた。
 のんびりとした、穏やかそうな印象を与える声はさながらソプラノだ。長い金髪はおさげにしており、前髪がピンで左右に分けられているため顔が見やすい。お嬢様風のワンピースに、やたらと育ちの良さを主張する指先。どこをとっても、彼女の明るい性質を示唆しているかのようだった。
「……そうだ! 自己紹介、まだだったわよね。私、聖澤ひじりさわ撫子なでしこって言うのよ! よろしくね」彼女は、実に機嫌が良さそうに微笑んだ。
 名前が上品だと、性格まで上品になるのかもしれない。そんなばかばかしいことを存外本気で考えてしまえる程度には、気立ての良さが滲み出た人だと感じた。そういうところは姉さんに似ている。なるほど確かに、姉さんとはすぐに仲良くなれそうだ。
「よ、よろしくお願いします……」
 対する僕は、姉さんと血を分けているというのにも関わらず、対人関係は上手くやれない人間だった。愛想笑いも得意ではないし、お世辞にも良い態度とは言えなかったはずだ。が、聖澤は、そんな僕に気を悪くした様子もなく続ける。
「あのね、早速なんだけど、陽ちゃんを私に貸してくれないかしら。夜だけでいいの!」
「貸す、とは……?」
「撫子ちゃんに、女子会のお誘いを受けたの。私と䴇ちゃんが」姉さんが、聖澤の陰からひょっこりと顔を出した。「行ってもいいよね」
「それはいいけど……」
 一緒に居るのが聖澤なら、心配はいらないだろう。初対面の人間にいきなり抱きつくのはどうかと思うが、邪気が全然ないせいか、彼女にはある種の信頼を持ち始めていた。
「そこは僕も行っちゃ駄目なのか?」
「駄目だよ、女子会だもん」
「駄目なのか……」
 姉さんと性別を違えているのが悔やまれた。常に片割れとセットで居たいのは双子の性だ。
「じゃあ、行ってくる……って言っても撫子ちゃんの部屋に居るからね。私の部屋の隣。何かあったら入ってきても大丈夫だからね」あたかも僕が幼子であるかのようにそう言い聞かされた。
 僕はそれに、「わかった」と軽く頷いて見送る。
 姉さんが手を振るのに応えて、そうしたら姉さん達は広間へ続く扉に吸い込まれていった。小鳥遊はこれから呼びに行くのであろう。行き場を失った手を静かに下ろした。
 別れた直後だ。なんとなく姉さんとの鉢合わせは避けたくて、どの扉からも近くない中途半端な位置で呆けていた。何をすればいいか見失った喪失感。
 金髪の短いおさげの子と薄いピンクの三つ編みの子から遠巻きに観察されていることに気づいたが、こちらから話かける気にもなれない。ふと彼女達が、最初に蹲っていた二人組だったと思い出したけれど、そんなことはどうでもいい。
 今の僕が考えるべきは、どうすれば鉢合わせをせずに部屋まで辿り着けるかについてだ。もっと具体的に言うなら、今すぐ特攻するか図書室で暇を潰してから特攻するかの二択である。どちらにしろ、姉さんと再会してしまう可能性は僅かなりとも存在する。それなら今すぐ特攻のほうがいいような気がした。僕はもう眠いのだ。
 結論は出た。目の前の扉を必要以上に時間をかけて開いていく。かなり直近の経験からくるデジャヴをひしひしと感じつつ、内部で談笑する人影がないか確認した。
 僕は賭けに勝利した。胸を撫で下ろして、扉を全開にする。はたから見ればただの変な人だったことだろう。事情を説明しても、たかがそれしきで? と理解は得られないに決まっている。僕もそう思う。
 ばかげたことをしている自覚はあるから、つまらない真似はやめて、さっさと部屋に籠ることにした。バタンと若干乱暴にドアを閉め、上下の鍵を閉めた。施錠し終わったそれを眺めて、なんとも厳重なことだ、と思った。被害者の安堵を煽るためなのか──それとも、対策が必要な事柄が起こると想定したためなのか。誘拐先で何も起こらず、そこそこ平穏な日々を送れると錯覚できるほど阿呆ではないけれども、個室が重要な意味を持つとも思えなかった。
 ……初日以降、僕の目に入ってすらいない人は、ずっと個室に閉じ籠っているのだろうか。だったら意味もあるかもしれないが、わざわざこんな状況下で法を犯す人間もいる……のか。こういう状況下だからこそ、というやつも居なくはない、か。
 だが……僕達の中にそんなやつは居ないように感じてしまうのは。僕の考え方が幼稚なだけ……?
 部屋着に着替えて電気を消して、布団に潜り込む。眼鏡は外して定位置に戻す。考えても解らない問題は振り払ってしまって、早く眠りたい。
 でも、あの夢は見たくない。夢を怖がっていると姉さんに知れたら、姉さんは笑うだろうか。いや、逆に笑みは失われるだろう。全力で僕を心配するに違いない。だから、これはバレてはいけない。なら、寝なくては。十分な睡眠が取れていない状態で顔を突き合わせても同じことだ。姉さんを疲れさせる、過剰な心配が待っている。
 ……その前に。薬の飲み忘れを都合よく思い出した。電気を付け直す。煌々と照るライトに感謝さえ芽生える。この調子でいくと、いつかライトに話し掛ける羽目になりそうだ。想像して、ぞっとした。それは色々と危険なサインであるように思えた。
 先程脱いだパーカーのポケットから、小さいケースを取り出す。開けると、思った通り二つの錠剤が寂しく収まっていた。洗面台の横に設置されたコップに水を汲む。人工的な光が反射して、なんだか綺麗に見える。
 息をつく。そして薬を一気に流し込んだ。錠剤は、上手く飲めば味が残らないから好きだ。
 電気を消して、再度布団に潜り込む。まだやることがあるはずだと頑張って考えてみたものの、一向に思いつく気配はなかった。
 明日は何をするのかを想像してみよう。やはり、姉さんと小鳥遊と京と一緒に……変化を見出そうとしないまま一日を終えるのか。諦めた? そんなはずはない。だって、早く帰らないと、生活費が……。ここにいればそんなことは気にしなくてもいい? それは確かに事実だった。でも、帰らないと……。
 ……………あー……。
 ………眠りたくない……。
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