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第一朝、違和感
4日目 02
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暗転した。
真っ暗な中、ぐるん、と視界が回った気がして──天井が見えた。
同時に、絡みつくような空気が霧散する。息苦しかったのも嘘のように消える。
何が起こったのか、寝起きの頭ではいまいち理解できなかった。取り敢えず体を起こしてみる。するとどうやら余計なことをしてしまったみたいで、腹から喉にかけて、何かがせり上ってくる心地がした。
まずい、と思って反射的に口を押さえつけて固まる。部屋には、トイレや洗面台などが完備してあった。つまりそのどちらかへ向かえば良かったのだが、後の祭り。残念ながらそこまで考えられる余裕はなかった。と言うより、身体に力が入らない。
「……んぐっ……ふ、……う……」
頭が回っていない僕は、とにかく一生懸命我慢しようとした。我慢しようとしたけれど、我慢できる筈はない。だんだんと体は丸まっていき、呼吸するたびに痙攣した。
ごぼ、といったような──少なくとも良くはない音が咽頭の辺りからして、頬が膨らむのがわかった。ほとんど反射で飲み込もうとする。そうしたら更に逆流してきて、大量の嘔吐物が口内に溜まるかたちとなってしまう。
となれば当然、異臭が嗅覚を強く刺激するわけで。先程までは理由が不明瞭なまま、ただ口から物が零れないようにしている感覚だった。だが、そのにおいのせいで、胃液がぐるぐると回転しているかのような感覚になり、まるで酔ったときみたいな気持ち悪さが芽生える。そして、今度は明瞭な気持ち悪さからくる吐き気に耐えねばならない。最悪だ。今だけ、感覚のない夢へ戻りたいと思った。
上を向いてみたり、ぎゅうと強く口を抑えつけてみたり工夫してはみたものの、敢え無く耐え切れなかった部分がとうとう鼻から漏れ始め、これをまた反射的に啜ってしまって──遂に咳き込んだ。
びしゃびしゃと布団に落ちていく嘔吐物をぼんやり眺めて……果たして僕は、状況理解がまるで追いつかなかった。
ふと我に返る。どうして僕は吐いているのだろう。吐瀉物には、一晩で消化しきれなかった昨日の夕食が少し混じっていた。とはいえ少しだ。過食などでもないと思われる。口の中が酸っぱい。無意識に目をあちこちに遣ってしまって、景色が回った。
まだ吐き気が治まらない。……水でも飲んでみようか。不快な味が舌にこびりついていた。早くすっきりしたくて、何も考えずに洗面所へ向かう。なんだか地面が硬くない。ふわふわして、例えるなら僕の夢の中のようだった。
ここの洗面所には、ありがたいことにコップも用意されている。用意周到である。台所の水も洗面所の水も水源は同じ筈だから、コップがあれば部屋から出ずとも水分補給くらいはできるのだ。まだ吐き気は胸の辺りで残留している。
吐いた後の処理や処置を調べるにはあまりにも気が急いていた僕は、コップいっぱいに注いだ水を一気に呷った。
「……ぐぶっ……げほ、ぇふっ……ぉえ……」
僕は驚愕した。
洗面台には、胃液がぶちまけられている。流石にもう固形物は見当たらないが。いや、それよりもなぜ僕は、気持ち悪さから逃れるためにと水を飲んで、もう一度嘔吐しているのか。どうやって考えても繋がりが見当たらない。不思議だ。
ここで自らの無知を呪うべきか、はたまた誰も教えてくれなかったことを恨むべきか。僕には判断がつかなかった。
もとより、判断する余裕もなかったけれど。
吐いた直後、奇妙な恐怖が襲ってきたからである。昨日とは比べ物にならないレベルの。
がたがたと全身が震え、カチカチと奥歯が鳴った。思わず洗面台の縁を掴む。指先にざらりとした感触が伝わった。脈拍が耳に直接響く。ぐわんっと視界が揺れ──鉄の様なにおいが鼻をついた。
「………ぁ、……あっ……」なぜかひとりでに出たらしい掠れた音が鼓膜に届いた。「……げほ、けふっ……ぁぇえ……」続けざまに咳が出る。それと同時に、体が勝手に胃の中の物を捻り出す。呼吸は乱れ、液体が陶器を叩く音が部屋中に反響した。
助けを求めたくて、何かに縋りたくて、顔を上げた。
……人影。
人影が見える。五つ、五つの人影が。それに、体が──特に腕が。硬直している。喉の奥の方にわだかまっていた鉄のにおいが一段と強くなる。
あれ…なんだっけ。これは、何のにおいなんだっけ。
思い出せない。
なんだっけ、あの人影はなんだっけ。
思い出せない。
なんだっけ、なんで体がこんなにも動かないんだっけ。
思い出せない。
……あ、そうだ。そうだった。
僕は姉さんを守らないといけないんだった
駄目だ、駄目だ。
何がだめなの?
何かが駄目だ。これ以上は駄目な気がする。
なんでだめなの?
わからない。
わかった。
ばちり、電気が走って、目を左右に動かした。
改めて前を見る。目線の先には、僕。僕しかいない。ただし、普段は感情を映しにくい目は水に濡れていて、髪は汗で張り付いているし、鼻水なのか胃液なのか判別がつかないものでまみれているし……口元なんかはもっと酷い。ひと目見ただけでそれが何か判る程度にはどろっとした液体を端から垂れ流して、服に染みを作っていた。散々だ。少なくともこの鏡は、僕が知っている僕を写していなかった。
ぐっと力を込めて掴み直した洗面台は、やっぱり硬くてつるりとしていた。
真っ暗な中、ぐるん、と視界が回った気がして──天井が見えた。
同時に、絡みつくような空気が霧散する。息苦しかったのも嘘のように消える。
何が起こったのか、寝起きの頭ではいまいち理解できなかった。取り敢えず体を起こしてみる。するとどうやら余計なことをしてしまったみたいで、腹から喉にかけて、何かがせり上ってくる心地がした。
まずい、と思って反射的に口を押さえつけて固まる。部屋には、トイレや洗面台などが完備してあった。つまりそのどちらかへ向かえば良かったのだが、後の祭り。残念ながらそこまで考えられる余裕はなかった。と言うより、身体に力が入らない。
「……んぐっ……ふ、……う……」
頭が回っていない僕は、とにかく一生懸命我慢しようとした。我慢しようとしたけれど、我慢できる筈はない。だんだんと体は丸まっていき、呼吸するたびに痙攣した。
ごぼ、といったような──少なくとも良くはない音が咽頭の辺りからして、頬が膨らむのがわかった。ほとんど反射で飲み込もうとする。そうしたら更に逆流してきて、大量の嘔吐物が口内に溜まるかたちとなってしまう。
となれば当然、異臭が嗅覚を強く刺激するわけで。先程までは理由が不明瞭なまま、ただ口から物が零れないようにしている感覚だった。だが、そのにおいのせいで、胃液がぐるぐると回転しているかのような感覚になり、まるで酔ったときみたいな気持ち悪さが芽生える。そして、今度は明瞭な気持ち悪さからくる吐き気に耐えねばならない。最悪だ。今だけ、感覚のない夢へ戻りたいと思った。
上を向いてみたり、ぎゅうと強く口を抑えつけてみたり工夫してはみたものの、敢え無く耐え切れなかった部分がとうとう鼻から漏れ始め、これをまた反射的に啜ってしまって──遂に咳き込んだ。
びしゃびしゃと布団に落ちていく嘔吐物をぼんやり眺めて……果たして僕は、状況理解がまるで追いつかなかった。
ふと我に返る。どうして僕は吐いているのだろう。吐瀉物には、一晩で消化しきれなかった昨日の夕食が少し混じっていた。とはいえ少しだ。過食などでもないと思われる。口の中が酸っぱい。無意識に目をあちこちに遣ってしまって、景色が回った。
まだ吐き気が治まらない。……水でも飲んでみようか。不快な味が舌にこびりついていた。早くすっきりしたくて、何も考えずに洗面所へ向かう。なんだか地面が硬くない。ふわふわして、例えるなら僕の夢の中のようだった。
ここの洗面所には、ありがたいことにコップも用意されている。用意周到である。台所の水も洗面所の水も水源は同じ筈だから、コップがあれば部屋から出ずとも水分補給くらいはできるのだ。まだ吐き気は胸の辺りで残留している。
吐いた後の処理や処置を調べるにはあまりにも気が急いていた僕は、コップいっぱいに注いだ水を一気に呷った。
「……ぐぶっ……げほ、ぇふっ……ぉえ……」
僕は驚愕した。
洗面台には、胃液がぶちまけられている。流石にもう固形物は見当たらないが。いや、それよりもなぜ僕は、気持ち悪さから逃れるためにと水を飲んで、もう一度嘔吐しているのか。どうやって考えても繋がりが見当たらない。不思議だ。
ここで自らの無知を呪うべきか、はたまた誰も教えてくれなかったことを恨むべきか。僕には判断がつかなかった。
もとより、判断する余裕もなかったけれど。
吐いた直後、奇妙な恐怖が襲ってきたからである。昨日とは比べ物にならないレベルの。
がたがたと全身が震え、カチカチと奥歯が鳴った。思わず洗面台の縁を掴む。指先にざらりとした感触が伝わった。脈拍が耳に直接響く。ぐわんっと視界が揺れ──鉄の様なにおいが鼻をついた。
「………ぁ、……あっ……」なぜかひとりでに出たらしい掠れた音が鼓膜に届いた。「……げほ、けふっ……ぁぇえ……」続けざまに咳が出る。それと同時に、体が勝手に胃の中の物を捻り出す。呼吸は乱れ、液体が陶器を叩く音が部屋中に反響した。
助けを求めたくて、何かに縋りたくて、顔を上げた。
……人影。
人影が見える。五つ、五つの人影が。それに、体が──特に腕が。硬直している。喉の奥の方にわだかまっていた鉄のにおいが一段と強くなる。
あれ…なんだっけ。これは、何のにおいなんだっけ。
思い出せない。
なんだっけ、あの人影はなんだっけ。
思い出せない。
なんだっけ、なんで体がこんなにも動かないんだっけ。
思い出せない。
……あ、そうだ。そうだった。
僕は姉さんを守らないといけないんだった
駄目だ、駄目だ。
何がだめなの?
何かが駄目だ。これ以上は駄目な気がする。
なんでだめなの?
わからない。
わかった。
ばちり、電気が走って、目を左右に動かした。
改めて前を見る。目線の先には、僕。僕しかいない。ただし、普段は感情を映しにくい目は水に濡れていて、髪は汗で張り付いているし、鼻水なのか胃液なのか判別がつかないものでまみれているし……口元なんかはもっと酷い。ひと目見ただけでそれが何か判る程度にはどろっとした液体を端から垂れ流して、服に染みを作っていた。散々だ。少なくともこの鏡は、僕が知っている僕を写していなかった。
ぐっと力を込めて掴み直した洗面台は、やっぱり硬くてつるりとしていた。
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