原初の魔女

緑茶 縁

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第一朝、違和感

4日目 03

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 とにかく、扉を開けた姿勢で固まる彼女は、とても子供とは言い表しにくかった。僕と同じか、寧ろ高いくらいであろう身長に、腰辺りまで伸ばされたばさばさの髪。立ち姿のなんと猫背なことか。大人とも断言できないが、子供ではない。そんな感じ。
 彼女はおずおずと席に着いた──僕から最も遠い位置に。椅子の足がリノリウムの床を擦った音にすら肩を震わせる様子を見るに、彼女はよほどの人見知りであることがうかがえる。かくいう僕もお喋りは得意ではないから、おのずと沈黙が訪れた。沈黙は好きなほうだとはいえ、これは流石に気まずい。どちらかが締め出されそうな雰囲気がいたたまれなかった。
 横目で見た彼女は、じっと俯いているようだ。微かに腕を動かしているけれど、その動きや表情の機微を観察するにはあまりにも暗すぎる。僕は感づかれない程度に体の角度を変えた。しきりに頭を揺らしている……? それとも、何かに頷いているのか。
 ……それはないよな。この部屋には僕と彼女の二人しか居ない。彼女に、僕には見えないナニカが見えているというなら別だろうけれど……ないない。僕は非科学的なものは信じない主義だ。尤も、最近やすやすと瞬間移動をしたりするやつが居るから、根本が揺らぎ始めているけれども。それでもまだ、あいつらのバックに物凄い科学者とかがいる説を諦めたつもりはない。
 そこで、僕は思考を堰き止めた。きっと気のせいだ。勘違いが多い僕のことだから、きっと気のせいなのだ。彼女だって、気まずい雰囲気に耐え兼ねて身動ぎしているだけに決まっている。
 ……あれ?
 …………なんだ? この、空気。
 それは、普段なら気にも留めない違和感。そう、例えば、肌が静電気に触れたときのような。
 ──空気が、変わった。
 微かに──けれども、パキリと音が出そうなほどにはっきりと、明白に。
 僕が追求する前に、今の雰囲気はその違和感を呑み込んでしまった。最早、何に疑問を抱いていたのか思い出せない……。
「…………あっ、あのっ……」
 いつの間にか、彼女は僕の傍に立っていた。反射的に顔を逸らす。扉の装飾を目でなぞった。ずっと横目で見ていたのがバレたのだろうか……?
 ともかく、何事もなかったかのように応じよう。堂々としていれば大抵の波は乗り切れる。
「……僕ですか」この場には、彼女を除くと僕しか居ない。僕はひとつ咳払いをして続けた。「……はい。なんでしょう」
「……あの、……えっと。だ、大丈夫ですか……?」かぼそい声。
 一瞬、どういうことか理解ができなくて、僕は口ごもった。「な、……何がですか?」
「そ、その、体調が……そぐわないと」
「なぜですか」僕と弐番が会話しているとき、彼女はここに居なかったはずだ。
「え?えっと……そう、それです」
 視界のすみで、彼女が指をさしたのがわかった──僕の胸元。しみがあると言っても、この暗がりではそんなに目立たないと思うのだけれど。皆そろいもそろって夜目が利くらしい。
「ああ……これならだい、」痛めた喉で喋り過ぎたのか、声がかすれた。僕はまた咳払いをして言い直す。「これのことなら大丈夫だ。別に心配されることではない、です」
「あ、そ……そうですか」
 その会話を最後に、静まり返った空気が戻ってきてしまった。互いに一言も発さない。
 かと言って、彼女が移動するわけでもなかった。元の場所に戻るなりなんなりすればいいのに。何がしたいのか、理解ができない。
「…………」
「………………」
 しばらくはそのままでいた。どちらも動かず、押し黙ったままで。彼女はときおり、腕や脚を緊張させた。何かに怯えているみたいに。僕は耐えられなくなり、視線だけ彼女に向けた。
 はっとした。冷たい美しさに──そして、そのちぐはぐな表情に。
 魔女のような娘だ。そう感じた。
 手入れが行き届いているのかあやしいほど外にはねた髪は、長くて真っ赤。それでいて艶がある。
 それに、一際完璧な位置に収まったキツいつり目。意地が悪そうな印象を与えるが、今にも泣きそうな下がり方をした眉でだいなしだ。
 それでも彼女には、可愛らしいというより美人という表現があっている。この造形の顔が悪意をもって笑ったら、大層迫力があることだろう。
 どうやったら、いわゆる悪役顔をここまで無害化できるのか。僕は物珍しさに、目を離せなくなった。隅から隅まで見ていたくなるけれど、同時にこの場からすぐにでも立ち去りたくなる。
 彼女の、強さという強さの全てを取り除いたような赤い目がこちらを向く。「……えっと……なにか……?」
「……それは僕の台詞だが」僕はかなり苦労して視線を彼女から引き剥がした。
「……あ、す、すみません……」
 目は、再び伏せられた。
「終わりました」突然、機械的な声がして弐番が現れた。「四十四院つるしいん様ですか。おはようございます」
「……あっ、はい……おはようございます」
 この娘は四十四院というらしかった。弐番は、彼女がおどおどと挨拶をした様子に頷いてから僕に向き直った。
「蕁麻様。……お部屋は少し掃除されたほうがよろしいかと」
「うるさいなあ……」余計なお世話だ。
 そもそも、僕の部屋は言うほど汚くない。定期的に片付けているし、ここに来てからは服を畳んだりもしている。ただ、今回はたまたま一番汚いときに吐き散らかしただけだ。
 とは言え、それを掃除してくれたんだもんな。僕は思い直した。そりゃあ文句の一つも言いたくなる。
「……ありがとうございます、掃除してくれて」ここは素直に感謝しておくべきだ、と思った。
 弐番は、真っ直ぐに僕を眺めたあと、机の表面を眺めて、また僕の目を見た。
「なるほど、これがツンデレですか」
「いいえ、全然違います」
 僕の感謝を返してほしい。そういえば、僕は被害者なのだった。こいつは糾弾して然るべき相手だ。そんな相手に一瞬でも感謝した僕が間違っていた。
 どうやら会話も終了したようだから、僕はこの場を離れたくなった。四十四院はすでに姿を消している。彼女は静かに行動するのが得意だったらしい。
「……そうだ。何か書くものが欲しいんですけど、ありますか」
 寝室には居ないということは姉さんに知らせておかねば。これ以上、姉さんにストレスをかけてはいけない。
「ありますよ」弐番は即答した。
「どこに置いてありますか。今欲しいんです」
「ここに」弐番は右手を肩の辺りまで上げた。
 彼女は目を閉じた。手のひらに、光が集まってくる。やがて、光は凝縮して球体となった。暗い空間にたった一つの光源。それは彼女を照らし、どこか神秘的な雰囲気を醸し出す。光の周りで蝶が舞い、花が咲く。
 そして弐番は、それを僕に差し出した。これまでになく困惑する僕をよそ目に、彼女は左の指を鳴らし──光は呆気なく弾け飛んだ。残ったのは……比較的大きめの付箋と、一本のシャープペンシル。
 これはまさか、魔法でも使ったとでも言うのか……? 僕は歯ぎしりをした。認めない。そんなことがあり得てしまっては、ますます状況が絶望的になる。だから、認めてなどやるものか。やつらが、対処しようもない謎の力を使えるだなんて、そんなこと。
「……ありがとう、ございます」僕は弐番から物を受け取った。「……その……凄いマジックですね」
 僕は、そう声に出して自分を納得させずにはいられなかった。
「はい、そうですね。マジックと表しても、たいした語弊は生まれないでしょう」弐番は淡々とした調子で言った。「今回は少々演出に凝ってみました。こういうものの第一印象は綺麗なほうがよいかなと判断しまして」
「そうですか……」
「出しておいて言うのもアレですが、私が陽様にお伝えしてもよろしいのですよ」
「いえ、ちゃんと自分でできます」
 僕はもう、伝えたい内容のほとんどを書き終えていた。
「では、もうご用はございませんか」
「そうなりますね」僕は手元に集中しながら答えた。
「そうですか。それなら私はこれで失礼します」
 それから少しして、書き終えた付箋を机から剥がし、物音がしないことを確認してから顔を上げた。
 見渡す限り、誰も居ない。当然と言えば当然だった。弐番は去ったし、扉を開けた音は勿論しなかった。辺りはしんと静まり返っている。なんとなく安心して、僕は用事を済ますために振り返った。
「うわっ」
 僕は、長々と叫ばないように努力しなければならなかった。咄嗟に片手を口元に叩きつける。頬や唇の痛みが、じわじわ頭に広がっていく。落ち着け、落ち着け……。
 対する弐番は、無感情に質問した。「どうかなさいましたか。まるで化け物でも見たような反応をしていますが」
「ああ、貴女が気にかけることなどありませんでしたよ。そんなことより、まさに人間そのものって感じの移動でしたね。どうやったんです?」
「動いてなどおりません。私はずっとここに居ました」
 この距離で、呼吸音すら聞こえないほど静かに?
 何の為に?
「せっかくなら言っておこうかと思いまして」心を読んだみたいに正確な答えだった。
「……何を?」
 それはいつも通り、平坦な声だった。
「今日が、平穏な一日の連続の、最後になるかもしれないってこと。」
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