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2.契約は破棄されたものだと思ってた
大好きな彼女の笑顔
最初に感じた違和感は、指輪だった。
俺が、カレンに贈った指輪を、なぜかグレースがつけている。
それを指摘すると、彼女は顔色を悪くした。
そしてしどろもどろ答えた。
「奥様がくださったの。私が見ていたら、『そんな物欲しそうな目で見ないでちょうだい、この貧乏人』って言って……投げつけられて……」
カレンが、そんなことを言うだろうか?
結婚して一ヶ月。
変わらず彼女は穏やかにいつもにこにこと笑っている。
何が楽しいのか、些細なことで笑みを見せるのだ。
長時間かけて仕上げた刺繍を猫がイタズラしてインクまみれになった時だって、「もう、困った子なんだから!」と言うだけだった。
あれには驚いた。
いくらカレンが穏やかな少女を演じていたのだとしても、あれにはさすがに怒って本性を見せるだろうと思ったからだ。
一ヶ月もかけた大作だと聞いている。
それをフイにされて怒るどころか、彼女は困ったように笑って猫を抱き上げたのだ。
「スピカったら、そんなに構って欲しかったの?困った子ね!」
──と、言って。
専属の侍女も口々に彼女を褒めた。
曰く、優しくて明るくて、いつも笑っている、陽だまりのような方だ、と。
重ね重ね、俺の知るカレン・カーターからはかけ離れている。
もしかして、俺はとんでもない思い違いをしているんじゃ……?
そう思った矢先の出来事だ。
婚約中、何かしら贈り物をしろと父にせっつかれて、ほぼ父が決めた指輪を贈ったことがある。
エメラルドの指輪だ。
それを、なぜかグレースが嵌めている。
強烈な違和感。
それに気がつくと、むしろなぜ、今まで気づかなかったのか不思議なほどおかしかった。
エメラルドの指輪を嵌めたグレースの顔色は悪かった。
なぜ、こんなに居心地が悪そうなんだ?
もし、カレンが自主的に彼女に与えたなら、こんな反応はしないだろう。
訝しんだ俺は、カレンの専属侍女を呼び、話を聞いた。
すると、彼女は驚くことを言った。
「それは……!!先日、お嬢様の宝石箱から無くなったものですわ!お嬢様は、気にしなくていいと仰ったけど……。侍女長には報告しております」
なんと、グレースの嵌めていた指輪はカレンの宝石箱から盗んだものだったのだ。
今度は侍女長を呼ぶ。
彼女も同じことを言った。
「旦那様に報告するべきだと申し上げたのですが……『思い入れのある品ではないし、構わない』と……」
ガツンと頭を殴られたような衝撃を受けた。
カレンは、指輪の紛失を知っておきながら、それを問題だと思わなかったのだ。
【思い入れのある品ではない】
その言葉に、思った以上の衝撃と──ショックを受けている自分自身に、驚いた。
カレンとは三年の契約婚だ。
三年が経過したら、彼女は俺と離縁する。
そして──。
明るく気立てのいい、優しい少女だ。
貴族にもかかわらず離縁歴があるという瑕疵を抱えていても、彼女なら誰とでも上手くやっていけるだろう。
自分とは別の男と並んで歩く彼女の姿を想像した時、俺は自分でも困惑するような怒りを覚えた。
自分自身、自分勝手なことを言っている自覚はある。
だけど、俺はいつの間にか、穏やかでひだまりのような彼女に、恋をしてしまっていた。
俺はグレースから指輪を取り上げた。
そして、カレンに指輪を返す。
彼女は困惑した様子で俺を見た。
「これは……」
「これは、俺があなたに贈ったものだ。あなたが、身につけていて欲しい」
「え?ええ……わかりました。仰せの通りにします」
カレンは困った様子だったが、無理にエメラルドの指輪をその細い指に嵌めた。
濃い緑の石は、色素の薄い、夢のように美しい彼女によく似合っていた。
☆
決定的な出来事が起きたのは、それから半年ほど経過した頃だった。
なんと、グレースがカレンに襲いかかったのだ。
許可なく本邸に乗り込んだ彼女は、カレンを責め立てると、掴み掛ったらしい。
その手には短剣が握られていて、間に侍女と侍従が入らなければ、カレンは傷つけられていたかもしれなかった。
グレースを拘束し、尋問した。
なぜ、カレンを殺そうとしたのか厳しく尋ねると彼女は涙ながらに答えた。
『ずっとあなたが好きだったの。たとえ、名ばかりの愛人でもいつか、愛してくれると思った』
『それなのに、あなたはカレン、カレンって』
泣きながら罪を告白する彼女に、俺は呆然とした。
カレンが酒場に乗り込んできて嫌味を言ったり、暴言を吐いたり、護衛に襲わせようとしたのは全てグレースの嘘。
実際は、面識すらなかった。
カレンの悪評を俺に吹き込むことで、俺が見てくれると思った、と彼女は説明した。
(俺は今まで何をしていたんだ)
グレースの嘘に騙され、彼女を悪だと決め込んでいた。
実際は逆だったのに。
そして、今度は侍女たちの聞き取りをしたところ、驚くべきことが明らかになった。
グレースは結婚してすぐに、俺の子を宿したと侍女たちに嘘を吐いていた。
公爵の子を妊娠しているのだからと、事実上の妻のように振る舞っていたのだ。
俺とカレンの結婚が決まった時点でグレースの妊娠は勘違いだったと神殿、王家、カーター家には既に説明していた。
だけど今度こそ妊娠した、とグレースは侍女たちに言っていたのだ。
グレースは、カレンの侍女にも、カレンを『恋人を奪った悪女』と悪口を吹き込んでいた。
最初、侍女たちはグレースの言葉を信じていたが、カレンと接するうちに違和感を抱いたという。
俺に報告すべきか迷ったが、グレースは俺の恋人だ(そういうことになっている)。
悪く言えば、俺の反感を買うかもしれないと黙っていた──とのことだった。
俺は、自分の未熟さを痛感し、恥じた。
父が生きていれば、母が共にいれば、こんなことにはならなかったかもしれない。
だけど父は早くに亡くなったし、母は父の死を悼み、祈りを捧げるために修道院に入ってしまった。
叔父や縁戚は、遠方に住んでいる。
邸の実情を教えてくれるひとは誰もいなかったのだ。
いや、俺は使用人たちの誰にも信頼されていなかったのだった。
彼らは、グレースのことを報告し、これ以上俺とカレンの関係が悪化するのを防ぎたかったようだった。
いつの間にか、カレンは公爵家の使用人たちに愛されていたのだ。
……公爵家に生まれ、縁の深い、当主の俺よりもずっと。
カレンは、見た通りのひとだったのだ。
陽だまりのように朗らかで、優しく、あたたかな女性。
それから、俺は彼女に謝った。
グレースの愚行に気付かなかったこと。
今まで誤解していたこと。
俺が頭を下げると彼女は目を瞬かせていたが、やがてふわりと笑った。
俺の好きな顔で。
「旦那様が気にされることではありませんわ。私はこの半年間、とっても楽しかったですから!使用人の方たちにも良くしていただきましたし……私、公爵家が大好きです」
そう微笑む彼女に、今度こそ俺は、二度目の恋をしたのだ。
──だと、いうのに。
「旦那様。本日が何の日か、ご存知ですか?」
彼女は、お気に入りのオレンジペコセイロンティーを口にしながらにこにことそう言った。
可愛い。なんて可愛いんだ。
彼女はいつもにこにこしている。
些細なことに楽しみを見出すのだ。
彼女から見た世界は、どんなに輝いていることだろう。
以前、聞いたら彼女はこう答えた。
『私はひとより少しだけ、人生を生きるのが上手なだけですわ。限りある人生ですもの。好きなことでめいっぱい埋めつくした方が、幸せだと思いませんか?』
彼女らしい言葉に、俺はふたたびノックアウトされた。
彼女の手を取って、庭園を案内すると彼女は子供のように目を輝かせ、喜んだのだ。
その時のことを思い出していたから、彼女の言葉に反応が遅れた。
「今日は、俺とあなたの結婚記念日だね。だけど、特別なことは何もしなくていいとあなたが」
「ええ。おっしゃるとおりですわ」
それから、彼女は静かにカップをソーサーに置いた。
そして、真剣な眼差しを浮かべ、言った。
「今日で、結婚から三年が経過しました」
なんだ……?
何を言いたいんだ?
珍しく笑みを消した彼女に、なぜか嫌な予感がした。
「もう、旦那様ったら……。お忘れですか?」
カレンは困ったように笑う。
いつもの来やすい雰囲気が戻ってきたことに、少しだけホッとした。
それから、カレンは私室を出て──一枚の書類を手に戻ってきた。
それを見て、俺は固まった。
(あれは……)
凍りついた俺に、彼女は笑った。
三年前と同じように、俺の大好きな笑顔を浮かべて。
「さ、旦那様。離縁のお話をいたしましょう!」
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