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一緒に走ろう
しおりを挟む小高い丘に立ち浅間山を仰ぐと、白い頂が目を射た。辛夷の花が春の空を彩っている。
おじいちゃん、と自分を呼ぶ声が聞こえたような気がして辺りを見回し、男は苦笑した。
「ああ、もういいよ。部活で忙しいんだ。」
幼いころよく連れて行った中軽井沢の公園を、久しぶりに訪ねてみないかと先週電話をした時の、智樹の投げやりな声を思い出し、こちらが現実なのだと自分に言い聞かせた。
あの頃は、仕事で忙しい娘から預かるという形で、智樹をよく別荘に連れて行ったものだった。生まれてすぐ父親に死に別れた智樹は、自分を実の父のように慕っていた。東京駅で待ち合わせて、開通したばかりの新しい車両E7系で軽井沢へと向かった。一緒にこの丘を駆け回り、日が暮れるまで時間を忘れたように遊んだ。
定年を間近に迎えた頃、不正に巻き込まれて仕事を失った。別荘を手放すことになった、と告げた時の、智樹の他人のような目が忘れられない。孫は十二歳になっていた。もう三年も前のことだ。
風がくるみの枝を揺らし、近くで鳥がけたたましくさえずる。
川に架かる橋と彼方の浅間山を結んで、E7系が走り抜けた。轟音の残る空には、今にも触れることのできそうな入道雲が、くっきりと横たわっている。
おじいちゃん、と呼ぶ声に振り向くと、智樹が立っていた。まだ幼いままの姿で。
「やっぱり来てくれたんだね。ありがとう。」
呆然とする男の袖を引っ張って、智樹は駆け出した。
丘を駆け下り、林を抜けた所には土手が開け、あざみやつゆくさなどが咲き乱れている。必死に追いついた男に、智樹はいたずらっぽい目で笑いかけた。二人は売店に向かった。そして、あの頃と同じように土手に並んで座り、おにぎりを一つずつ食べた。水筒のお茶を飲みながら、男は思い切って尋ねてみた。いくつになったのか、と。八歳、と孫が答える。驚き、胸が激しく痛んだ。
八年前、小学生になったばかりの智樹を連れ、男はいつものようにこの場所に来ていた。
夏の草が咲き乱れる土手でひとしきり遊んだ後、智樹は息を弾ませながら祖父を見上げ、告げたものだった。一等になりたい、と。
初めての運動会での口惜しさを思い出したのか、智樹は両の拳を固く握りしめていた。
「おじいちゃんと一緒に走ろう。」
祖父の言葉に、智樹は目を輝かせてスタートの姿勢をとった。二人は、同時に地面を蹴った。スピードの加減を気づかれないように、男は走り続けた。智樹のスピードは増していった。祖父の気配を感じ、走り方を体で覚えつつ走っていた。二人は、ほぼ同時に草の上に倒れこんだ。
一等になれるよね、と丘の斜面に寝転んだまま智樹が祖父の顔を覗き込む。男は返事に詰まった。もしもなれなかったら、と不安げに言いかけた孫の言葉に重ね、男は言った。その時もここで一緒に走ろう、と。
その時はついに訪れなかった。翌年の初めから、世界で猛威をふるった感染症のため、春の運動会は中止された。さらに、仕事のトラブルに見舞われ、夏の旅行はできなかった。
それでも智樹は、一緒に走るという約束を確かめるかのように、よく電話をかけてきた。そんな孫に、男は口癖のように言っていた。ちゃんと勉強しているのか、と。孫を心配するあまりであったが、やがて電話のかかってくる回数は減っていった。八歳の夏は果たせぬままの約束となり、二人の間から消えた。孫の思いに寄り添い、共に歩もうとしていたあの時の心を見失い、一方的な心配を押し付けるようになった自分の変化こそが二人の仲を遠ざけていたのだと、男は今気づいた。孫と自分とを隔てたのは、感染症の流行でも、経済的な問題でもない。一緒に走ろうという約束は、どんなに離れていても果たせるものなのだ。場所が離れても。時が離れても。
「智樹、一緒に走らないか。」
約束の夏に呼び寄せられた二人は、今再び、同時に走り出す。孫は何の疑いもない満足を胸に。祖父はただ一度与えられた奇跡を逃すまいとして。土手を駆け上がり、林を抜け、丘を目指す。遠ざかっていく孫の背中を、祖父は必死に追いかける。息を切らせながら丘の頂上にたどり着いた時、智樹の姿はどこにも見当たらなかった。
浅間山から橋の方へと、E7系が走り抜ける。春の空を辛夷の花が点々と彩っていた。
ありがとう、と男はつぶやき、携帯電話を取り出す。数回の呼び出し音の後、とまどったような声が聞こえる。さっきまで一緒にいた孫の声が大人びている。ごめんな、とつぶやき、今年こそ、と言いかけた時、今年も、と向こうの声が重なり、そして続いた。
「一緒に走ろう。」
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