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08.二番目の犬-1

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 ――本当はね、もう名前は考えてあったのよ。……でも、こんなことになるなら、もっと早く名前で呼んであげればよかった。

 若い娘の、涙ながらのか細い声。遠い昔のそれがまた聞こえた気がして、ファルハードは夜中に目を覚ました。
 明かりを落とした寝室は暗く、自身の他に人の気配はない。隣を手で探れば、寝台にはまだ誰かの温もりが残っていた。
 シュルークだ。もう出ていったようだ。

 女官長を凌辱したファルハードはその後、従来通り後宮の女に夜伽をさせながらも、繰り返し彼女を抱いた。最初は案の定怯え泣き叫んでいたシュルークも、二度目以降すぐファルハードの体に馴染んだ。
 あえて傷つけ痛みを与えたのは一度目だけだ。もう、そうする意味はないことが分かってしまったので、普通に抱いている。
 シュルークは後宮の女のように甘えることもなく、ただファルハードに体を勝手に使わせているという風情だ。しかし、その乏しい表情を快楽で歪め、絶頂へ追いやり、奥深くまで支配するのも趣がある。
 そもそも後宮の女奴隷ではない彼女を抱く必要などないのだが、それは知らないふりをした。

「……」

 不意にじり、と疼くような痛みが、左手の小指の付け根を焼いた。痛むときは、まだ指があるような感覚に陥る。しばらく放っておけば痛みは消えるし、他に対処法はない。
 ファルハードは寝返りを打って仰向けになり、深く呼吸を繰り返した。

 この指を失った時のことは、忘れていない。



「ふーっ、ふーっ……」

 四方のうち一面が鉄格子の形式の地下牢は静かで、青年の荒い息がいやに大きく響いている。
 十分に体を伸ばせない狭い牢の床に、十代後半の若い男が後ろ手に縛められ転がっていた。口にも轡が嵌められており、話すことはおろか舌を噛み切っての自害もできない。
 後ろへ回されている両手のうち、左手には血の滲む包帯が巻かれており、小指が欠けていた。
 この青年が若き日のファルハードだった。

 ファルハードは先帝の第三皇子として生まれた。
 帝国は帝位を継ぐと、他の男兄弟を殺してもよいことになっている。修道院へ送って済ませるなど殺さない道もあったが、大概は余計な火種を残さないようにしていた。
 そしてファルハードは、まだ皇子の内に兄や弟たちと謀りあい、その末に彼らを死に追いやった。これもよくあることだ。父親に皇太子に選んでもらうのを待つのではなく、先に邪魔者は消しておく。そうしなくては自分が殺されるのだから。結局現在残っている男兄弟は、生まれたばかりの赤子や幼子だけになっていた。彼らもこの先どうするか分からない。
 そうやって次代の皇帝の筆頭候補となっていたファルハードであったが、帝国よりも圧倒的に国力の劣る南西の王国との戦いで、彼らの卑劣な罠にかかり捕縛されてしまった。味方にも裏切り者がいたようだが、こうなっては今さらどうしようもない。
 ファルハードを捕らえた将軍は、兵を引かせるために彼の小指を切り落とし、皇族の証である指輪と共に帝国へ送った。ところが、ファルハードは人質として機能しなかった。息子の命を助けるために敵国に屈しては、未来永劫愚かな君主と誹りを受けるだろうと、先帝はむしろ兵を進めた。
 敵国にとって予想外に役に立たなかったファルハードは、結果こうして将軍の私邸の地下牢へ押し込められているのである。

 ここには牢が、鉄格子の面で向き合うように二つ設けられていた。ファルハードの向かいの牢は空いている。二つの牢の間には、地上から下りてくる石の階段が続く、前室とでも呼ぶべき開けた場所がある。牢と前室に床はなく土が剥き出しになっており、壁面も天井部の補強のための柱や梁があるだけで、硬い土を掘ったままだ。前室の天井近くの壁には換気用らしき小窓がある。この地下牢は外から見ればこの小窓の分の高さだけ地面から飛び出た形をしているのだろう。
 地下牢の建設のために地面の掘削を開始してから、おそらく問題が発生した。掘り出すには非常に労力のかかる巨岩に当たってしまったのだ。しかしそれはそのまま活かすことになったらしい。岩はファルハードのいる牢の方にあって、大部分を占拠している。この壁にめり込んでいる巨岩のせいで、牢は体を丸めなければならないほど狭い。虜囚を苦しめるための牢として十分に機能している。なお、向かいの牢は普通に寝起きできる広さだ。

 当初は大事な人質として向かい側の牢に入れられていたファルハードであったが、役に立たないと判明するとこちらへ押し込まれた。
 将軍曰く干乾びさせておいて帝国軍が迫ってきたら城壁にでも吊るすとのことで、水も食料も時折思い出したように与えられる程度になった。切り落とされた指の傷も、まだ人質として期待されていた頃に手当されたきりで、以降は放置されている。
 傷が脈打つたびに痛む。体力は著しく低下しており、このままでは衰弱死も遠くない。
 それでもファルハードは諦めてなどいなかった。父に見放され助けも期待できない状況であろうと、絶対に生き延びて雪辱を果たし、帝国を継ぐと心に誓っていた。しかしこれは、弱った獲物の決死の抵抗のように、命の終わりが近づいているからこその意思の強さでもあった。

 その時、換気用の小窓から差し込む陽光が遮られた。動く力がほとんど残っていないため、頭を上げることもなく目だけで見上げる。

「……!」

 逆光でよく見えないが、誰かいるようだ。
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