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09.愛犬-1

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「あなたは、今日から私の犬よ」

 シュルークという頭のおかしい娘は、ファルハードの目を覗き込みながらそう言って微笑んだ。これを境に、生涯誰にも語るまいと誓った屈辱の日々が始まった。

「ご飯よ」

 体を横向きにして寝転がっていたファルハードの顔の前に、スープの注がれた皿が置かれた。濃い黄色のとろみのある液体からは、香辛料の香りが立ちのぼっている。一般的な、豆と野菜を煮込んで裏ごししたスープだ。

 ファルハードは、大型犬に使われていたと思しき革の首輪を嵌められ、それと鉄格子を縄で繋いだ状態で地下牢の前室に転がされていた。
 体の下にはシュルークが持ってきた、女物の冬用の上着が敷かれている。綿入りで金糸の刺繍が入っており、敷物にすべき代物ではないはずだが、他に彼女の密かに持ち込めるものがなく、そして粗雑に扱っても本人には惜しくない品なのだろう。

 ファルハードは空腹を感じながらも、動かなかった。彼女の置いた皿にはスプーンがなく、犬のように手を使わずに食えと示唆されている。それに従いたくなどなかったし、何よりまだ体を起こせるほど回復していないという事情もあった。
 今のところシュルークは、ファルハードからの犬扱いについての抵抗を気にも留めていない。

「まだ自分では難しいのね」

 シュルークはファルハードの頭を持ち上げると、その下へ膝を入れるように座り込んで、自分の体を枕と背もたれ代わりにした。薄汚れて悪臭を放つ体にためらいもなく触れ抱き込む。
 スープの皿を手で引き寄せ、持ってきていたスプーンを取り出し、少しすくってファルハードの口へ運ぶ。ファルハードはされるがままに、それを口に含んだ。一番初めは敵の手で食事をさせられる不愉快さに口を開かなかったが、食べて生き延びることと天秤にかけ、今は諦めている。

「早く元気になるといいわねぇ」

 薄いスープすら満足に飲み込めなかった状態から随分回復してきたファルハードに、シュルークは愛おしそうに語り掛ける。
 地下牢には現在、他に人はいない。彼女と出会った時に居合わせたあの兵士は、今は地上で誰か来ないか周囲を警戒している。ファルハードを監視していたはずが、屋敷の娘が地下牢へ出入りする姿を誰かに見られないか見張る羽目になるとは、皮肉なことだ。地下牢の見張りの兵士は、交代も含めて全員がシュルークに脅されていて彼女の支配下にある。
 しばらく監禁されていてよく分かっているが、ファルハードは将軍に存在を忘れられている。帝国との戦況は芳しくなく、そちらへ注力しなくてはならないのに、人質として役に立たないと判明した虜囚など気にかけていられないのだろう。放置して衰弱死させると決まってから追加の指示はないらしい。以前見張りの兵士同士でそう話していた。
 そのおかげもあって見張り以外に出入りがないので、この地下牢にさえ下りてしまえば誰にも気づかれない。だからシュルークは、敷物代わりの服や食事を気兼ねなく持ち込んでいるようだ。
 ただし、万が一父親に気づかれたらという恐怖はあるらしく、将軍が在宅している間はファルハードを牢へ戻し近づかない。将軍は日中はほぼ不在にしているが、夜は帰ってきていることが多い。



「やっと料理人たちの弱みも握ったのよ」

 数日後、嬉しそうに語ったシュルークが持ってきたのは、肉と野菜と穀物の複数種類の料理を盛り合わせた器だった。隣には従来通りのスープ皿も置かれる。これまでは、彼女の言いなりになる弱みを握ってある使用人が限られていたためスープしか調達できなかったが、厨房にも支配力を広げることでもっと多くの料理を手に入れられるようになったらしい。
 具のあるスープも食べられるようになったファルハードは、少しずつ体力を回復してきており、一日二杯程度のスープだけでは不足を感じていた。そこへ量と種類の増えた栄養豊富な食事が出されて、素直に嬉しかった。

「そろそろ自分で食べる練習をしましょうね」

 体を起こせるようになっていたファルハードは、たしかにいつまでもこの女に介助をされる必要はないと、自力で体を起こし、壁にもたれかかった。この分なら問題なさそうだ。

「……スプーンを寄こせ」

 帝国を含むこの地域での習慣として、汁物はスプーンを使うが、他は手で食べる。器に直接口をつけることはしない。
 ファルハードはシュルークに手を差し出し、いつも彼女が持ってきていたスプーンを要求した。

 実は、これがファルハードが彼女に初めて口をきいた瞬間だった。当初は何か言ってやりたい場面もあったが、その時はまだ喋る体力がなかったのだ。
 ところが、シュルークはまるで聞こえていないかのように反応しない。
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