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10.希望と決意-3
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「ごめんね。あの子は洗っても風邪なんてひかなかったから……」
地下牢の前室に寝かされたファルハードは、泣きそうな声で謝るシュルークを睨む気力もなく、目を閉じ荒い息を繰り返した。
決意を新たにした夜のその翌朝、昔から健康体だったはずのファルハードは熱を出し寝込んでいた。過酷な監禁生活を送り、シュルークによる『犬の世話』で持ち直しつつあったがまだ弱っているところへ、肌寒い気温のなか冷めきった湯で長時間かけて洗われた結果、風邪をひいたのだ。災難続きである。
朝、ファルハードを牢から出して食事を与えようとしたシュルークは、体調不良に気がついて大慌てし始めた。
自分の部屋から上掛け代わりになる冬用の衣服を何枚も持ってきて、ファルハードにかけた。体調不良の犬に何を食べさせればいいのか分からなかったようで、普段どおり人間の食べ物を持ってきたが、穀物を柔らかく煮た消化によさそうな食事だった。
あとはもう放っておいてくれればよいものを、シュルークは地下牢から出ていかない。いつもなら勉強や楽器の稽古があると言ってファルハードを前室へ置いていく。しかし今日は、仮病で全部中止にしたそうで、ファルハードの看病に必要なものを取りに行く以外ほとんど付きっきりだ。
(寒い……)
体調不良で寒気を感じるというわけではなく、元から地下牢は少し冷える。健康であれば乗り切れたが、今日ばかりは辛さを感じた。シュルークのせいでなけなしの服も失っている。
「寒いの?」
シュルークが察して声をかけてくる。昨日のことがあって、もうこの女の言葉に反応したくなどなかった。そんな気力もない。
そうしてファルハードが背を向けて無視していると、体に掛けてあった何枚もの彼女の上着が捲られた。
背中側から空気が入って寒い、と不満げに振り向くと、シュルークが隣へ潜り込んできたところだった。
彼女のせいで全裸になっているファルハードの背中にぴたりと密着してくる。できる範囲で体温を分け与えようとしているようだ。ファルハードは鬱陶しく感じたが、シュルークに抵抗すべきではないと頭の中で十回唱えた。
しばらく黙って我慢していれば、徐々にシュルークの体温を感じるようになってきた。彼女の呼吸の周期が移り、自然と息が深くなっていく。
「あの子は屋敷の中で飼っていたの……」
不意にシュルークがぼそぼそと話し始めた。ずっと寝ていたので眠気を感じず時間を持て余していたファルハードは、なんとなくそれに耳を傾ける。
「いつも、こうして毎晩一緒に眠っていたわ。そうなる前は、お母様が隣で寝てくれていたのよ」
聞いた者の心を緩やかに震わすような声。彼女の吐息が微かにうなじへかかる。
明るい話題ではないことは、悲しげな声音で分かっていた。
「お母様はね、私が子供の頃、外へ出かけた時に悪い人たちに殺されてしまったの。お父様は相手が誰か分かっておられたみたい。なのに『物盗りだったと思え』って。お父様はとても偉い方だけど、冷たくて、全部ご自分の思い通りにしたい人だから、嫌われ者なのよ。誰かがお父様の大事なものを壊して懲らしめようとしたのね。でも、お母様はお父様の大事なものじゃなかったの」
シュルークの手が、ファルハードの二の腕をさする。温めようとしているとも、自分の不安を落ち着かせるためともつかなかった。
「あの時……、私を馬車の荷物入れに隠して、お母様が言ったの。『今からとても嫌なことが起きるから、見てはいけない。忘れなさい』って」
昨晩シャーヤールから聞いた話だ。一人生き残ったシュルークは、その最中を見たのか、終わった現場を見たのか、最後まで見ずに済んだのか。
ファルハードは尋ねなかった。聞いても、シュルークにファルハードの言葉は届かない。犬は人語を喋らないからだ。
地下牢の前室に寝かされたファルハードは、泣きそうな声で謝るシュルークを睨む気力もなく、目を閉じ荒い息を繰り返した。
決意を新たにした夜のその翌朝、昔から健康体だったはずのファルハードは熱を出し寝込んでいた。過酷な監禁生活を送り、シュルークによる『犬の世話』で持ち直しつつあったがまだ弱っているところへ、肌寒い気温のなか冷めきった湯で長時間かけて洗われた結果、風邪をひいたのだ。災難続きである。
朝、ファルハードを牢から出して食事を与えようとしたシュルークは、体調不良に気がついて大慌てし始めた。
自分の部屋から上掛け代わりになる冬用の衣服を何枚も持ってきて、ファルハードにかけた。体調不良の犬に何を食べさせればいいのか分からなかったようで、普段どおり人間の食べ物を持ってきたが、穀物を柔らかく煮た消化によさそうな食事だった。
あとはもう放っておいてくれればよいものを、シュルークは地下牢から出ていかない。いつもなら勉強や楽器の稽古があると言ってファルハードを前室へ置いていく。しかし今日は、仮病で全部中止にしたそうで、ファルハードの看病に必要なものを取りに行く以外ほとんど付きっきりだ。
(寒い……)
体調不良で寒気を感じるというわけではなく、元から地下牢は少し冷える。健康であれば乗り切れたが、今日ばかりは辛さを感じた。シュルークのせいでなけなしの服も失っている。
「寒いの?」
シュルークが察して声をかけてくる。昨日のことがあって、もうこの女の言葉に反応したくなどなかった。そんな気力もない。
そうしてファルハードが背を向けて無視していると、体に掛けてあった何枚もの彼女の上着が捲られた。
背中側から空気が入って寒い、と不満げに振り向くと、シュルークが隣へ潜り込んできたところだった。
彼女のせいで全裸になっているファルハードの背中にぴたりと密着してくる。できる範囲で体温を分け与えようとしているようだ。ファルハードは鬱陶しく感じたが、シュルークに抵抗すべきではないと頭の中で十回唱えた。
しばらく黙って我慢していれば、徐々にシュルークの体温を感じるようになってきた。彼女の呼吸の周期が移り、自然と息が深くなっていく。
「あの子は屋敷の中で飼っていたの……」
不意にシュルークがぼそぼそと話し始めた。ずっと寝ていたので眠気を感じず時間を持て余していたファルハードは、なんとなくそれに耳を傾ける。
「いつも、こうして毎晩一緒に眠っていたわ。そうなる前は、お母様が隣で寝てくれていたのよ」
聞いた者の心を緩やかに震わすような声。彼女の吐息が微かにうなじへかかる。
明るい話題ではないことは、悲しげな声音で分かっていた。
「お母様はね、私が子供の頃、外へ出かけた時に悪い人たちに殺されてしまったの。お父様は相手が誰か分かっておられたみたい。なのに『物盗りだったと思え』って。お父様はとても偉い方だけど、冷たくて、全部ご自分の思い通りにしたい人だから、嫌われ者なのよ。誰かがお父様の大事なものを壊して懲らしめようとしたのね。でも、お母様はお父様の大事なものじゃなかったの」
シュルークの手が、ファルハードの二の腕をさする。温めようとしているとも、自分の不安を落ち着かせるためともつかなかった。
「あの時……、私を馬車の荷物入れに隠して、お母様が言ったの。『今からとても嫌なことが起きるから、見てはいけない。忘れなさい』って」
昨晩シャーヤールから聞いた話だ。一人生き残ったシュルークは、その最中を見たのか、終わった現場を見たのか、最後まで見ずに済んだのか。
ファルハードは尋ねなかった。聞いても、シュルークにファルハードの言葉は届かない。犬は人語を喋らないからだ。
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