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15.忘却-2
弱ったシュルークを捕虜に位置づけつつも手当を受けさせ、帝国まで連れて帰ったファルハードは悩んでいた。
シュルークの父親である将軍は、これまでの礼を存分に返した後、死体を獣に食わせて墓を作ることや悼むことすら許さなかった。敵国の王や民衆などのそれぞれの処遇も、これまでの慣習に従い淡々と差配した。
しかし、シュルークについては、どうするか決めあぐねていた。
ファルハードを危機から救出してくれたのは、シャーヤールら信頼の厚い部下たちだ。彼らの助けが来ると信じ、ファルハードは虜囚の期間を耐え抜いた。彼らを待つために、シュルークによる屈辱的な仕打ちの数々も甘んじて受け入れたのだ。
だからファルハードは、脱出の成功はシャーヤールらの献身と自らの忍耐の結果だと確信していた。
だが、敵国を攻め落として冷静になって振り返り、そしていくつかの事実が明らかになると、その確信は揺らぎはじめた。
脱出したあの日、偶然帰宅した将軍にシュルークと二人で見つかってしまう騒動が起きていなければ、ファルハードは助からなかったのだ。
将軍があの時伴っていた刑吏は、実は蔓草の曜日に処刑が決まったファルハードを、刑場近くの牢へ移送するために来ていた。
刑吏に見られてしまったことで、将軍はまさか目の前に這いつくばる全裸に首輪の男が移送予定の帝国の皇子で、自分の娘が勝手に牢から連れ出しているという失態を知られるわけにはいかず、どうにか理由をつけて追い返すしかなかった。
もし予定通り移送されていれば、シャーヤールたちが練っていた将軍の私邸からの救出計画は、蔓草の曜日までには修正できなかった。あの日、あそこで将軍たちに見つかったからこそ、急な計画変更となりながらも救出が成功したのだ。
これだけではない。彼女の与えた食事や散歩、足も伸ばせない牢からの解放などの日々の世話により、ファルハードは瀕死でやせ衰えた状態から回復した。体力、特に足の力が戻っていなければ、脱出時にシャーヤールを追いかけて走れなかった。衛兵に矢で射かけられながら紙一重で逃げたのだ。シュルークに世話をされていなければ、屋敷の門を出る前に殺されていただろう。
さらに、シュルークは父親に見つかってファルハードを地下牢へ一旦戻し、施錠して鍵を隠した。もし鍵があの場にあれば、将軍はファルハードを前室へ引きずり出し、怒りのまま残る九本の手の指を切り落としたはずだ。そんな手では一人で馬に乗ることはできず、やはり逃亡は失敗していた。
シュルークの意図は全て違う方を向いている。しかし、結果的にだが、シュルークによる犬扱いもファルハードの命を救った。
自らに屈辱を与え、今でも殺意が腹に渦巻く憎い女に、助けられてしまったのだ。どうしようもないほどに、助けられた。
それでもファルハードは、その事実を何日も、何日もかけて、自分に見ないふりをするよう強いて、ようやく彼女に予定通り報復すると決めた。
ところが、ずっと眠りに就いていたシュルークが目を覚ますと、その予定は早々に挫かれた。
――どなたですか。
ファルハードに、彼女は何の表情も浮かべずにそう問いかけたのだ。
犬に幻視しない。会話もできる。しかしシュルークは、犬を二匹飼ったことはおろか、自分の名前を含む一切の過去を失っていた。知識はあれど、記憶がない。
――覚えていないだと!? ふざけるな!
怒りにしては胸と喉を焼くような、目の奥がなぜか熱くなるような、名前の分からない激情に突き動かされ、ぼんやりと反応の薄いシュルークを怒鳴りつけた。
最後に彼女が忘れると口にしたのは、凌辱や死の恐怖などの直近の辛い出来事だけを指すと思っていた。
だがシュルークは全てを忘れてしまった。帝国の皇子たるファルハードを犬呼ばわりして屈辱を与えたことも、冷たい地下牢で抱き締めて眠ったことも。
ファルハードさえ諦めかけた危機に、あの些細なことですら見ないふりをしてやり過ごすシュルークが、父親に足の腱を切られ、男に凌辱されても現実を手放さなかった。飼い犬を守って最期まで抗えるように。
そうしてみせるだけの一方的な愛を押しつけてきていたくせに、犬の記憶を捨てても構わないと判断したのだ。
『見ないで忘れる』ことに縋るきっかけとなった幼少期の記憶までもなくしたせいで、シュルークはその逃避の手段も失っていた。
報復をしようにも、自分がどこの誰か、何をしたのかも知らない。人格形成の基礎となる記憶がないために性格すら違う。
そんな別人に、シュルークはなり果てていた。
シュルークの父親である将軍は、これまでの礼を存分に返した後、死体を獣に食わせて墓を作ることや悼むことすら許さなかった。敵国の王や民衆などのそれぞれの処遇も、これまでの慣習に従い淡々と差配した。
しかし、シュルークについては、どうするか決めあぐねていた。
ファルハードを危機から救出してくれたのは、シャーヤールら信頼の厚い部下たちだ。彼らの助けが来ると信じ、ファルハードは虜囚の期間を耐え抜いた。彼らを待つために、シュルークによる屈辱的な仕打ちの数々も甘んじて受け入れたのだ。
だからファルハードは、脱出の成功はシャーヤールらの献身と自らの忍耐の結果だと確信していた。
だが、敵国を攻め落として冷静になって振り返り、そしていくつかの事実が明らかになると、その確信は揺らぎはじめた。
脱出したあの日、偶然帰宅した将軍にシュルークと二人で見つかってしまう騒動が起きていなければ、ファルハードは助からなかったのだ。
将軍があの時伴っていた刑吏は、実は蔓草の曜日に処刑が決まったファルハードを、刑場近くの牢へ移送するために来ていた。
刑吏に見られてしまったことで、将軍はまさか目の前に這いつくばる全裸に首輪の男が移送予定の帝国の皇子で、自分の娘が勝手に牢から連れ出しているという失態を知られるわけにはいかず、どうにか理由をつけて追い返すしかなかった。
もし予定通り移送されていれば、シャーヤールたちが練っていた将軍の私邸からの救出計画は、蔓草の曜日までには修正できなかった。あの日、あそこで将軍たちに見つかったからこそ、急な計画変更となりながらも救出が成功したのだ。
これだけではない。彼女の与えた食事や散歩、足も伸ばせない牢からの解放などの日々の世話により、ファルハードは瀕死でやせ衰えた状態から回復した。体力、特に足の力が戻っていなければ、脱出時にシャーヤールを追いかけて走れなかった。衛兵に矢で射かけられながら紙一重で逃げたのだ。シュルークに世話をされていなければ、屋敷の門を出る前に殺されていただろう。
さらに、シュルークは父親に見つかってファルハードを地下牢へ一旦戻し、施錠して鍵を隠した。もし鍵があの場にあれば、将軍はファルハードを前室へ引きずり出し、怒りのまま残る九本の手の指を切り落としたはずだ。そんな手では一人で馬に乗ることはできず、やはり逃亡は失敗していた。
シュルークの意図は全て違う方を向いている。しかし、結果的にだが、シュルークによる犬扱いもファルハードの命を救った。
自らに屈辱を与え、今でも殺意が腹に渦巻く憎い女に、助けられてしまったのだ。どうしようもないほどに、助けられた。
それでもファルハードは、その事実を何日も、何日もかけて、自分に見ないふりをするよう強いて、ようやく彼女に予定通り報復すると決めた。
ところが、ずっと眠りに就いていたシュルークが目を覚ますと、その予定は早々に挫かれた。
――どなたですか。
ファルハードに、彼女は何の表情も浮かべずにそう問いかけたのだ。
犬に幻視しない。会話もできる。しかしシュルークは、犬を二匹飼ったことはおろか、自分の名前を含む一切の過去を失っていた。知識はあれど、記憶がない。
――覚えていないだと!? ふざけるな!
怒りにしては胸と喉を焼くような、目の奥がなぜか熱くなるような、名前の分からない激情に突き動かされ、ぼんやりと反応の薄いシュルークを怒鳴りつけた。
最後に彼女が忘れると口にしたのは、凌辱や死の恐怖などの直近の辛い出来事だけを指すと思っていた。
だがシュルークは全てを忘れてしまった。帝国の皇子たるファルハードを犬呼ばわりして屈辱を与えたことも、冷たい地下牢で抱き締めて眠ったことも。
ファルハードさえ諦めかけた危機に、あの些細なことですら見ないふりをしてやり過ごすシュルークが、父親に足の腱を切られ、男に凌辱されても現実を手放さなかった。飼い犬を守って最期まで抗えるように。
そうしてみせるだけの一方的な愛を押しつけてきていたくせに、犬の記憶を捨てても構わないと判断したのだ。
『見ないで忘れる』ことに縋るきっかけとなった幼少期の記憶までもなくしたせいで、シュルークはその逃避の手段も失っていた。
報復をしようにも、自分がどこの誰か、何をしたのかも知らない。人格形成の基礎となる記憶がないために性格すら違う。
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