刑事、仲居准一郎の事件簿――オサナナジミ

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刑事、仲居准一郎の事件簿――オサナナジミ

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 冷たい雨が降る夜だった。
 湿ったアスファルトの匂いが、これから始まる血の匂いを予感させるようで、男はふと鼻を鳴らした。

 男は今年で36歳になる。
 人生の半分以上を、法と道徳の境界線の向こう側で過ごしてきた。
 彼には相棒と呼ぶにはあまりに粗野な仲間が一人いる。
 金庫破りとピッキングだけは天才的なその相棒が錠を開け、中を荒らす。
 男の役目はそいつの背後を守ること。
 もし運悪く家人が帰宅したり、正義感に駆られた者が現れたりした場合、障害物を無言で排除することだ。
 それが男の生業だった。躊躇いも、憐憫もない。ただの清掃作業。

 その日、相棒が狙いを定めたのは、都内でも有数の高級住宅街にある古い洋館だった。
 事前の調査で住人の老夫婦は海外旅行中。家政婦も今日は休みと調べがついている。
 
「楽勝だな。警報装置も切った。あとは宝探しだ」

 相棒が下卑た笑い声を押し殺し、懐中電灯の光を頼りにリビングのサイドボードを物色し始める。
 男は暗闇に溶け込むようにドアの脇に立ち、呼吸を殺して周囲の気配を探っていた。

 静寂が支配していた。聞こえるのは相棒が引き出しを乱雑に開け閉めする音と、窓を叩く雨音だけ。

 それが唐突に崩れた。

 カチャリ、と玄関の方で音がした。
 男の神経が針金のように張り詰める。相棒は金目の物に夢中で気づいていない。
 足音。軽い。スニーカーか、あるいはヒールのないパンプスか。
 迷いのない足取りで、廊下をこちらへ向かってくる。
 
(……情報が間違っていたか。予定外の帰宅か)

 思考するよりも先に、男の身体は動いていた。

 リビングの扉が開き、逆光の中に浮かび上がったシルエットは小柄で華奢だった。
 長い髪が揺れる。若い女だ。老夫婦の孫か、家政婦か。

 女が部屋の異変に気づき息を吸い込んだ、が悲鳴になるはずだった空気の塊は、男の掌によって強引に押し留められた。

「んぐっ――!」

 恐怖に目を見開く女の瞳が、至近距離で男を映す。
 男の右手に握られたナイフが、女の肋骨の隙間を滑るよう心臓を貫いた。
 女の体がぐらりと傾き、重力を失っていく。

 男がナイフを引き抜き、女の身体を床に横たえようとしたが――

 どうやら女は倒れ込む際、無意識に何かに縋ろうとしたらしい。
 細い指が壁際の古いタンスの取っ手に引っかかっていた。
 ガタン、という音と共に引き出しが勢いよく抜け落ちる。
 中に入っていた書類や小物が、雪崩のように床へぶちまけられた。

「おい、どうした?」

 ようやく異変に気づいた相棒が振り返り、舌打ちした。
 
「うわ、マジかよ。誰だそいつ」

 相棒は死んだ女の顔をライトで照らし、下品に顔を歪めた。
 
「綺麗な女の子じゃん。もったいねえことしやがって。殺す前にお楽しみしてからでも遅くなかったのによ」

 相棒の嘲るような声が鼓膜を打つが、男には届かない。
 いつものことだ。死体はただの肉塊に過ぎない。

 男は無表情のまま、散らばった中身を一瞥した。
 その中で一枚の写真がヒラリと宙を舞い、男の足元へ落ちてきた。

 裏返しではなく、写真の面を上にして。

 古いフィルム写真だった。
 デジタルの鮮明さはないが、その分、時間の重みを感じさせるセピアがかった色彩。
 そこに写っていたのは、卒園式の集合写真。
 太陽のような笑顔を向けている若い女性の先生に、男は目を見開き、愕然とした。

 写真の中の先生の顔は、今しがた自分が命を奪い、足元で虚ろな瞳を開いたまま冷たくなろうとしているこの若い女と、恐ろしいほどに瓜二つだった。

 ――見覚えが……あった。

「……あ」

 男の喉から乾いた音が漏れた。
 集合写真の中に、幼稚園の頃の自分が写っていた。

 子供の頃のことなど、泥沼のような人生の中でとっくに忘却の彼方へ沈めていたはずだった。
 なのに、断片的に楽しかった記憶が蘇る。
 ……それは記憶の改竄か、本当にあったことか。

 男は震える手で、足元の死体を見下ろした。
 写真の中の笑顔と同じ顔をした女が、今は恐怖に歪み、血の気を失っている。
 自分が殺したのだ。もしかしたら先生の娘かもしれないこの女性を。

「おい、何ボサッとしてんだ。ずらかるぞ」

 相棒の声が、遠くから聞こえた気がした。

 ***

 あくる日、男は無意識のうちに、とある場所へと足を向けていた。

 あの夜から数日が経っていたが、指先に残る感触と、あの写真の残像がどうしても拭い去れない。
 男が辿り着いたのは、かつて自分が通っていた幼稚園があった場所だ。
 
 けれど、そこに当時の面影など欠片も残っていなかった。
 錆びたジャングルジムも、色あせたキリンの滑り台も、すべてはコンクリートの下だ。
 目の前に聳え立つのは、無機質なガラス張りのオフィスビル群。
 冷たい風がビル風となって吹き抜け、忙しないスーツ姿の人々が、男の存在など意に介さず通り過ぎていく。

(……何やってんだ、俺は)

 男は自嘲気味に息を吐いた。
 感傷に浸るなんて柄じゃない。昔の思い出を探って何になる。
 ただの時間の無駄だった。帰ろう。
 
 男は踵を返し、立ち去ろうとしたが――

「お前……中谷か⁉」

 背後から投げかけられた声に、男の背筋が凍りついた。
 心臓がドクンと脈打つ。俺の名字を呼ぶ奴、誰だ? なぜ俺を知っている。なぜ俺に声をかけた。

 声のトーンは場違いなほどに明るく、弾んでいた。

「マジかよ! 俺だよ俺! 仲居だよ!」

 男が恐る恐る振り返ると、そこには人懐っこい笑顔を浮かべた男が立っていた。
 どこにでもいそうな、くたびれたベージュ色のコートにスーツを着崩した男。
 記憶の彼方にある子供の顔が、目の前の男の顔と重なる。

「ほら、幼稚園と小学生一緒だった! いやあ懐かしいなあ。別の中学になって交流全然なくなったもんなあ。仲居と中谷。出席番号いっつも前後してたっけ!」

 そうだ、確かにいた。いつも鼻水を垂らして、落ち着きがなく走り回っていたあのガキだ。
 小学校の卒業式以来、一度も会っていなかったはずだが、まさかこんな場所で再会するとは。

 男――中谷は、内心で激しく舌打ちをした。
 この前の仕事でケチがついてから、どうやらとことんツキに見放されたらしい。
 こんなところで過去を知る人間に会うなど、リスク以外の何物でもない。

「……仲居准一郎か。小学校の卒業式以来だな」

 無視して立ち去るのが正解だと分かっていたが、不自然な挙動は逆に怪しまれる。中谷は努めて平静を装い、低い声で応じた。

「おお! よかったあ、『いいえ、人違いです』って言われたらどうしようと思ったけど、勇気出して声かけてよかったぜ」

 仲居は屈託なく笑い、中谷の肩をバシバシと叩いた。
 大人になっても変わらない無神経さだ、と中谷は思った。

「で、お前、今何をしてるんだ? フッフッフ、ちなみに俺はなあ……」

 仲居は勿体ぶった顔つきで、上着の襟を正してみせた。
 仕草と腰元の膨らみで中谷はわかる。

「刑事だろ」
 
「おおっ! ビックリ! お前エスパーかよ!」

 仲居が目を丸くしてのけぞった。
 エスパーでも何でもない。
 中谷の脳裏に、二十数年前の記憶が蘇っていた。
 小学校の卒業文集『将来の夢』の欄に、下手くそな字で『刑事になって悪い奴を捕まえる』と書いていた仲居が鼻高々に俺に見せてきた時の顔を。

「……夢を叶えたんだな。おめでとう」
 
「あはは、サンキュー。覚えててくれたのかよ」

 仲居は照れくさそうに鼻を擦った。そして純粋な好奇心を目に宿して問いかけてくる。

「で、中谷は? 今、何してるんだ?」

 一瞬、空気が張り詰めた。

 強盗殺人。住居侵入。etc……。
 
 口が裂けても言えるはずがない。
 中谷は表情筋一つ動かさずに嘘を吐いた。

「俺は自由気ままなフリーターだ」
 
「マジで? お前、成績俺の数倍良かったのに⁉」

 仲居が驚きの声を上げたのと同時に、彼の背後から女性が姿を現した。
 黒のパンツスーツに身を包んだ、若いが鋭い眼光を持った女だ。
 セミロングヘアの黒髪、オシャレをして街を歩けば男なら誰もが振り返る美人だが、立ち姿の隙のなさ、視線の配り方が明らかに堅気ではない。仲居の同業者だろう。

「俺もさあ。夢を叶えたっつっても下っ端のまんまだし、彼女いない暦イコール年齢だし、サビ残ばっかの安月給だし……俺、一体何のために仕事してるんだろ? あっ、こっちの女の子、俺の一回り下で本庁のエリート刑事ちゃん。いっで!」

 仲居の言葉が悲鳴に変わった。
 隣に立った女刑事が、表情も変えずにヒールのかかとで仲居の革靴を踏み抜いていた。

「『ちゃん』呼ばわりしないでください、仲居巡査長」
 
「す、すんません……」

 痛みに片足で跳ねる仲居を冷めた目で見やりながら、女刑事はちらりと中谷の方を一瞥した。
 品定めするような、冷徹な視線。中谷の背中に嫌な汗が伝う。

「ま、頑張れよ。じゃあな」

 これ以上ここにいては不味い。
 中谷は短く切り上げ、背を向けた。が、仲居は空気を読まない。

「おっと、そうだ。せっかくだし連絡先交換しようぜ! 今度飲みに行こう!」
 
「わりい。スマホ、家に置いてきた」
 
「おお⁉ 今時珍しいな。じゃあ俺のラインと電話番号書くからちょっと待ってよ」

 仲居は懐から手帳を取り出すと、ボールペンでサラサラと何かを書きつけ、千切ったページを中谷に押し付けてきた。

「絶対連絡くれよな! 待ってるから!」

 中谷は小さく頷き、紙片をポケットにねじ込むと、今度こそ足早にその場を去った。
 背後から、仲居の能天気な声が遠ざかっていく。

 雑踏に紛れ、中谷の姿が見えなくなった頃。
 ビルの陰に残された刑事の間に、先ほどとは違う空気が流れた。

「……怪しいですね」

 女刑事が、独り言のように呟いた。
 視線は、中谷が消えた方向を鋭く見据えている。
 プロの勘か、それとも中谷が纏う血の匂いを嗅ぎ取ったか。

 仲居は踏まれた足の痛みをこらえるように苦笑いを浮かべていたが、瞳からふざけた色が消えた。
 彼はポケットの手帳を無意識に弄りながら、遠い過去を思い出すように呟いた。

「中学2年だった頃、噂で聞いたなあ……」

「何の話です?」

「あいつの両親が殺され、親戚に引き取られたって……」

 仲居の声は、ビル風にかき消されそうなほど低く、どこか寂しげだった。
 かつて同じ教室で過ごし、今は光と影の対極に立つかつての友を思いやるように。

 ***

 人混みを離れ、路地裏の薄暗い影に身を沈めると、中谷はポケットからスマートフォンを取り出した。
 家に置いてきたはずの通信機器だ。
 慣れた手つきでイヤホンを耳に押し込み、発信履歴の最上位にある番号をタップする。

 コール音は二回で途切れた。

『……どうした』
 
 機械音声で加工された、冷淡な男の声。組織のコーディネーターだ。

「サツに目をつけられた」
 
 中谷は短く報告する。視線は路地の出口、光のあたる大通りを行き交う人々を油断なく監視していた。
 
『現場周辺か?』
 
「ああ。だが、俺たちの関与で捜査されている雰囲気じゃない。所轄の刑事だ。名前は仲居准一郎」
 
『……』
 
 電話の向こうで沈黙が落ちる。
 
「相棒は、前回の物件はいつも通り全焼させた。中の死体も、報道じゃ寝タバコによる失火で処理されている。サツが動く理由はないはずだ」
 
 中谷の言葉に、コーディネーターがキーボードを叩く乾いた音が重なる。
 
『確かにそうだ。……お前が会ったのは所轄の人間だけか?』
 
「いや。本庁の女がいた。エリート風の若い女だ。所轄と組んで動いている。捜査本部が設置されてるのか?」
 
『表向きには立っていない。だが……待て』
 
 相手の声が鋭くなった。キーを叩く音が激しさを増す。
 
「……捜査一課の一班が、その市内で極秘に動いている情報がある。火災の件じゃない。別の案件か、あるいは……嗅ぎつけられたか」

 中谷は舌打ちを堪えた。やはり、仲居との再会は悪夢への入り口だったか。
 
「どうする。暫く潜るか」
 
 中谷の問いかけに対する返答は、無機質で残酷なものだった。

『……殺せ』

「何?」
 
『組織への上納が滞っている。今月中にもう一件、デカい仕事をしてもらわなきゃならん。警察ごときにうろつかれては邪魔だ』
 
「正気か。警官殺しはハチの巣をつつくようなもんだぞ」
 
『逆だ。見せしめで処分すれば、奴らは恐れ慄いて引く。腰の引けた警察組織など恐るるに足らん』

 命令は絶対だ。拒否権など最初から与えられていない。
 
『……ターゲットは所轄の刑事だ。履歴を除いたが、どうでもいい三下だ。警察が仇討ちなんて考えないほどのな。捜一も事件本部の立っていない捜査で、所轄の人間を使ってたのは都合悪かろう』

 ツーツーツー。
 無慈悲な切断音が鼓膜を打つ。
 中谷はスマートフォンを握りしめたまま、しばらく動かなかった。

(見せしめ、か……)

 よく回る舌だ。警察を引かせるため? 違う。
 これはトカゲの尻尾切りだ。
 警官を殺せば、中谷自身も確実に追われる身となる。
 組織は最後の仕事をさせた後、用済みになった中谷を犯人として始末し、全ての罪を被せて幕引きを図るつもりだ。

 かつて、自分の両親がそうされたように。

 あの時もそうだった。両親は何かのトラブルに巻き込まれ、利用され、そして消された。
 今の自分は、あの頃憎んだ奪う側の末端で、同じように使い捨てられようとしている。
 皮肉な話だ。

 中谷はポケットから、先ほど押し付けられたメモ用紙を取り出した。
 くしゃくしゃになった紙切れに、走り書きされた数字。

『絶対連絡くれよな! 待ってるから!』

 あの能天気な笑顔が脳裏に浮かぶ。
 殺すべき相手。そして今の自分に残された、数少ない自分の過去を知る人間。

 中谷は深く息を吐き出すとその番号を打ち込んだ。
 発信ボタンを押すと呼び出し音が鳴る。

 これは罠か、救済か、それとも破滅への引き金か。

『……あ、もしもし? もしかして中谷か⁉』

 耳元に響いた仲居の間の抜けた声を聞きながら、中谷は静かに口を開いた。

 ***

 煙と油の匂いが染みついた、高架下の安居酒屋だった。
 赤提灯が風に揺れ、店内は仕事帰りのサラリーマンたちの喧騒に満ちている。
 喧騒は、中谷にとって都合の良い隠れ蓑だった。

「いやー、マジで参ったよ。係長がさあ、自分のミスを俺になすりつけてきてよお!」

 仲居はジョッキを傾けながら、大袈裟に嘆いてみせた。
 既に空になった枝豆の皿と、串だけの焼き鳥がテーブルに散乱している。
 中谷は黙ってグラスの焼酎を煽り、目の前の男を観察した。
 酔っている。顔は赤く、呂律も怪しい。昔と変わらない、隙だらけの無防備な顔だ。
 だが、中谷の右手はテーブルの下で常に警戒を解いていない。

「……お前も大変だな、公務員様は」
 
「全くだよ! 昔はよかったよなあ……幼稚園とか小学校の頃はさ。悩みなんて、給食早く済ませて校庭の場所確保できるかぐらいだったぜ」

 仲居は遠い目をする。
 中谷の胸中で、錆びついた警告音が鳴り始めた。

「そうそう、幼稚園といえばさ。この前、とある事件で被害者の身元調べてたら、驚きの事実があってな」
 
「……ほう」

 中谷は焼酎の氷をカラン、と鳴らし、無関心を装って先を促した。

「火事だよ。都内の洋館が全焼したやつ、ニュースで見たか? 若い女性が亡くなったんだが……。その人、俺たちが通ってた幼稚園の先生の娘さんだったんだよ」

 心臓が早鐘を打つのを、中谷は冷たい酒で無理やり鎮火させた。
 あの雨の夜。自分がナイフを突き立てた相手。
 写真の中で笑っていた先生の面影を持つ女。

「……そうか。世間は狭いな」
 
「全くだ。そんであの時、俺はあそこ……幼稚園跡地にいたわけよ」

 仲居が幸運なのか、俺が不運なのか。
 いや、地道に捜査した仲居と、失態を犯した俺との差が出た瞬間が交差した結果だ。

「なあ中谷、覚えてるか? 当時、俺たちのクラスを受け持ってた先生の名前」

 仲居が上目遣いにこちらを覗き込んでくる。
 濁った瞳の奥に探るような鋭さが潜んでいるかどうか、中谷には判別がつかない。

「いや、皆目。……仲居は覚えてたのか?」
 
「いやあ、俺も全然よ。まったく、昔っから記憶力悪くってなあ」

 仲居はあはは、と自嘲気味に笑い、ジョッキに残ったビールを飲み干した。
 嘘だ、と中谷は直感する。
 こいつは覚えている。だが、なぜ俺に鎌をかける?

「……それで? 火事で死んだ娘さんの親……先生とは会ったのか?」

 核心に触れる問いを、中谷は極力何気ない風を装って投げかけた。
 もし先生が生きていて、遺族として仲居と会っていたとしたら――。

「いや、厳密に言うと犠牲者は先生の実の娘なんだが、親父さんは再婚でな。その親父さんと義理の母親には会ったよ」
 
「そうか。……先生は、亡くなってたのか」

 安堵と、空虚さが同時に押し寄せた。
 あの写真の笑顔は、もうこの世のどこにもない。
 自分が殺した女とともに、永遠に失われたのだ。

「……ああ。俺たちが中学の頃に事故でな。名前は――」

 仲居が何かを言いかけた瞬間、中谷は低く、鋭い声で遮った。

「……」
 
「ん? どうした?」
 
「いや、聞かなくていい。どうせ、名前を聞いたところでピンと来ない。俺の中で、先生は先生のままでいい」

 名前を知ってしまえば、あの夜殺した女が先生の娘という記号から、確固たる個人へと変わってしまう。
 それは、ただの清掃作業を生業とする中谷にとって、致命的なノイズになり得る。

 仲居はきょとんとした顔をした後、ニッと口角を上げた。

「……ちげえねえや。思い出は綺麗なままが一番か」

 その後も二人は酒杯を重ねた。
 やがて仲居の口数が減り、テーブルに突っ伏して規則正しい寝息を立て始めた。
 
「……おい、仲居」

 呼んでも反応はない。完全に落ちている。
 中谷はゆっくりと席を立った。
 コートを羽織り、勘定場へと向かう。

「あ、お客さん、お連れさんは……」
 
「放っておいてくれ。すぐ起きるだろう」
 
「ええっ、でも困りますよ、閉店準備も……」

 店主が困惑の声を上げる中、中谷は財布から万札を数枚抜き出し、トレイに置いた。飲食代の倍はある。

「迷惑料だ。釣りはいらない。少しの間、寝かせてやってくれ」
 
「あ……は、はい。ありがとうございます……」

 店主が現金に目を奪われている隙に、中谷は店を出た。
 外気は冷たく、頬を刺すような夜風が酔いを醒ましていく。

 振り返り、赤提灯の揺れる店を一度だけ見上げる。

「……なぜ元幼稚園のあった場所にいたか、聞かなかったか」

 中谷は小さく呟いた。
 もし仲居が酒席で、「なぜあそこにいた?」と問いただしていれば中谷は躊躇わずに、その場でこの幼馴染を始末するつもりだった。懐のナイフで、迷いなく。
 だが、仲居は最後まで馬鹿な友人を演じきった。あるいは、本当にただの馬鹿なのか。

「……おかげで、命拾いしたな」

 誰が、とは言わない。
 中谷は襟を立て、闇夜へと歩き出した。
 これから組織の命令である最期の仕事を遂行するために。
 それは皮肉にも仲居が追っている事件の深淵へと繋がっている。

 ***

 中谷の足音が遠ざかり、完全に聞こえなくなってから数秒後。
 テーブルに突っ伏していた仲居の寝息が、ピタリと止まった。

 ゆっくりと顔を上げる。
 そこに、泥酔者の緩んだ表情など欠片もなかった。
 あるのは獲物を狙う狩人の、冷徹で研ぎ澄まされた瞳だけ。

 仲居は素早くスマートフォンを取り出し、発信履歴をタップする。

『……もしもし』

 コール一回で繋がった相手に、仲居は低い声で告げた。

「もしもし、坂城ちゃん?」

『ちゃんはやめてください、仲居巡査長。あと、タバコは吸ってないでしょうね? 吸ってたら殺します』

 電話の向こうから、冷ややかな声が返ってくるが頼もしさはある。

「我慢したから安心して。車よろ。……尾行するよ」
 
『了解。店の裏手に回してあります。……ですが』
 
「ん?」
 
『飲み過ぎて戦力にならないと言わないでくださいね』

 クギを刺すような言葉に、仲居は苦笑して肩をすくめた。
 テーブルの下で拳を握りしめる。
 掌には、中谷との会話から得た違和感と確信が汗と共に滲んでいた。

「大丈夫だよ。頭は冴えてる」

 仲居は立ち上がり、店主へ目配せをして出口へと向かう。

『……そうだ。秋山課長からの報告です。例の洋館の火災。被害者夫婦、つまり死んだ娘の両親ですが……』

 仲居が夜の闇を見据えながら、坂城と合流すると彼女は氷のような声で続けた。

「……娘さんを呼んだのはわざとです」

 ***

 ターゲットの屋敷に到着、今回の仕事も手口は同じだ。相棒がセキュリティを無力化し、中谷が侵入経路を確保する。
 が、廊下に足を踏み入れると、中谷の肌が違和感で包まれた。
 空気が澱んでいる。無人の家特有の冷たさとは違う、息を殺して獲物を待つ捕食者の気配。

(……嵌められたか)

 中谷が足を止めると、暗闇の奥から複数の影が湧き出した。
 カシャ、カシャ、という金属音が連鎖する。
 サイレンサー付きの無機質な銃口が、四方八方から中谷に向けられていた。
 下卑た笑い声と同時に。

「ヒャッハッハ! わりいな中谷、いい相棒だったのによお。残念だぜ」

 相棒も嗜虐的な笑みを浮かべてこちらを見ている。
 中谷は眉一つ動かさず、スーツの男たちを見据えた。

「ここで俺を始末するのか。杜撰だな。死体が出れば警察も本腰を入れる」

 中谷の言葉に、組織の人間は能面のような無表情で回答した。

「そうでもない。ここで出る遺体は自殺として処理される。さらに、君の懐からは近年の不審火に関与したことを認める遺書も見つかる手筈だ」

 男は事務的に、明日の天気予報でも告げるように続けた。

「安心したまえ。君の幼馴染の刑事も、すぐに地獄に送ってやるさ。君という犯人を追い詰めすぎて、道連れにされたという筋書きでね」

 中谷の奥歯がギリと鳴る。
 自分だけならまだしも、仲居まで。

「ヒャッハッハ! この前の事件がトラウマになったってか? 今さら繊細ぶってんじゃねえよ! 飲み屋で刑事をぶっ殺してれば、今後も俺と相棒でいられたのによお」

 相棒が中谷の横へ進み出て、唾を飛ばしながら嘲笑う。

「言っておくがなあ。あの殺された女の両親は、たーっぷりと保険金貰ってるんだから、俺たちに感謝してるぜえ! ばっかじゃねえの! お前はただの掃除屋だ、余計な感情を持つなよ」

 相棒の声が終わると、複数の銃口が一斉に中谷の眉間へ絞られた。
 逃げ場はない。数秒後、鉛の弾丸が脳漿を撒き散らす未来が確定している。

 すると――

 カコーン、カコーン。

 場違いに硬質な革靴の音が、廊下の奥から響いた。
 これから処刑が行われる場に、不釣り合いな軽快なリズムで。

「最高の場面だねえ、これ」

 間の抜けた声が響き渡る。
 闇の家屋内に現れたのは、ベージュのコートに両手を突っ込んだままの仲居准一郎だった。
 寝癖のついた髪。ふらりとした立ち姿。まるでコンビニへ夜食を買いに来たかのような気軽さだ。

「……何しに来た?」

 背中越しに囁く中谷に、仲居はニイっと、子供のような笑みを浮かべた。

「正義の味方ごっこ」
 
「……」

 馬鹿か、こいつは。
 けれど、その馬鹿さに救われた自分がいることを否定できない。

「……始末しろ」

 組織の男が短く命じる。
 複数の男たちが即座に照準を切り替え、仲居へ向けて引き金を引いた。

 シュッ、シュッ、シュッ。
 乾いた発砲音が連続する。

 ――が、仲居はいない。

 弾丸が通過したのは残像だ。仲居は床を滑るように屈み、奇妙な軌道で銃線を躱していく。
 
「ちょこまかと、猿かこの男!」

 男たちが焦って乱射し、マズルフラッシュが闇を切り裂く中、中谷は混乱を見逃さなかった。
 組織の意識が完全に異常な侵入者である仲居に向いている。
 
 中谷は音もなく影に溶け込み、銃火の及ばない窓枠を蹴って外へと出た。

 屋敷の裏手に回ると、そこには黒塗りの車が一台停まっていた。
 ボンネットに寄りかかり、腕を組んで待ち構えていたのは、あの女刑事だ。

「どこへ行くんですか?」

 車をバックに、坂城が鋭い視線を向けてくる。
 軽蔑と、怒りの混じった瞳だ。

「あなたを助けに来た、あなたの幼馴染の仲居巡査長を見捨てて」
 
「……頼んじゃいない」

 中谷は足を止めず、坂城の横を通り過ぎようとする。

「邪魔するなら、どけ。仲居の死は無駄にしない。……奴らを操っていた黒幕と真実を、この手で……」
 
「言っておきますが」

 坂城の声が、中谷の決意を遮った。

「被害者の女性の義母なら、先ほど我々の上司が逮捕しました。保険金殺人の教唆および詐欺の容疑でね」
 
「……なに?」
 
「それから、実行犯を手配したコーディネーターの身柄も確保済みです。あなたがこれから命を捨てて復讐ごっこをする必要は、もうありません」

 中谷は呆然と立ち尽くした。
 組織のシナリオは、既に警察によって書き換えられていたのか。
 坂城は屋敷の方へ視線を戻す。中からは絶え間なく怒号が聞こえている。

「それに……仲居巡査長は、死にませんよ」

 彼女の言葉を証明するように、屋敷の中の音が変わった。
 
 パン、パン、という乾いた音が徐々に減り、代わりにドスン、ガシャーン、という重く激しい音が響き渡り始めた。
 人が床に叩きつけられる音。家具が粉砕される音。そして男たちの悲鳴へ。

 中谷の脳裏に、鮮明に小学生の記憶が蘇る。

 そうだ……あのバカ。
 勉強もできない、落ち着きもない。けれど、一つだけ誰にも負けない得意なことがあった。
 
 ――柔道。
 それも、相手の力を利用して宙を舞わせる、豪快な背負い投げ。

「にしても、組織の人間だって手練だ。ありえん」

「ふふっ」

「何がおかしい?」

「いえ、小学生だった私を誘拐しようとした犯人も、あなたのように仲居さんに対して呆然としたのを思い出しただけです」

 笑みを浮かべる坂城は、「これは秘密ですよ? どうせ仲居さんは、あの時の被害者の私を覚えてないんですから」と朗らかに微笑んだ。

 記憶にある。12年前の資産家令嬢誘拐未遂事件。
 この世界にいると嫌でも噂は耳にする。
 被害者は小学6年生の少女、坂城真奈美。
 解決者は凄腕の柔術を操る――若い公安の刑事。
 あの事件の解決者と被害者が、コンビを組んでいるのか。

「ヒッ、ヒイ! うわあああああ!」

 勝手口のドアが蹴り開けられ、恐怖に引きつった表情で、相棒が転がり出てくる。
 手にはナイフを握りしめているが、戦意など微塵もない。ただのパニックだ。

「ば、化け物だ! あんなの人間じゃねえ!」

 相棒は中谷と坂城の姿を認めると、血走った目で坂城へと突進した。

「女! 女だあああああ! 刑事だろ⁉ お前を人質にして、ここから逃げてやる! たあっぷりかわいがってやるから大人しく――」

 相棒が坂城に手を伸ばす……も。

 バアアアアアアン!

 夜気を震わせる轟音と共に、坂城の持つ大型拳銃が火を吹いた。
 
「ひえっ⁉」

 相棒の頭頂部、髪の毛の中央部分がごっそりと消し飛び、摩擦熱でチリチリと煙を上げる。
 数センチずれていれば頭蓋が吹き飛んでいただろう。
 相棒は白目を剥き、その場に崩れ落ちて失禁した。

 坂城は硝煙の香る銃口を夜空へ向けたまま、冷徹に中谷へ問いかける。

「――あなたはどうします? 中谷……康太さん」

 その問いに答えるよりも早く、騒がしい声が背後聞こえてきた。

「あー、もしもし秋山さん? ハイ、全員沈黙させて縄で縛ってます」

 仲居の声だ。息一つ切れていない。

「え? 今のすっげー銃声はなんだって? 俺じゃないですよ! え? 止めなかった俺が悪いって? んな! そりゃないっすよ! 階級、坂城ちゃんのほうが上じゃ……あ、ちょ、なんで切るんだあああああ」

 坂城は中谷に向き直った。
 瞳は逃亡犯を見る目ではなく、一人の人間を見る目に変わっていた。

「……もう一度問います。あなたはどうしますか?」

 警察車両の赤色灯が、夜明け前の薄暗い空気を切り裂くように回転していた。
 中谷康太は、抵抗することなく両手を差し出した。
 冷たい手錠の感触が手首に食い込む。それは自由の終わりを告げると同時に、長く続いた薄汚い闇夜からの、奇妙な解放感をもたらしていた。

 取調室での中谷は、かつてないほど多弁だった。
 自身の犯した罪のすべて。
 組織の構造、黒幕の正体、資金ルート、そして過去に関わった未解決事件の真実。
 まるで自らの身体にこびりついたヘドロを、言葉というブラシで削ぎ落とすかのように、彼は淡々と語り尽くした。

 それは、ただの自白ではない。
 最後の清掃作業だった。

 ***

 季節がいくつか巡った。

 東京拘置所の面会室の厚いアクリル板が、世界をこちら側とあちら側に冷酷に分断している。

 中谷はパイプ椅子に腰掛け、目の前の男を見つめた。
 刑が確定し、死刑囚として収監されてから、この男――仲居准一郎は、足繁くここへ通ってくる。

「死刑の男に会いに来るとは、暇な奴だな」

 中谷が呆れたように鼻を鳴らすと、仲居はアクリル板の向こうで、相変わらずの人懐っこい笑みを浮かべた。

「非番なんだよ。それに、お前の話を聞けるの俺くらいだろ」
 
「……物好きなことだ」

 中谷は視線をわずかに落とした。
 組織は壊滅した。中谷の供述が決定打となり、政財界に根を張っていた毒草は根こそぎ引き抜かれた。
 代償として中谷が支払うものは、自身の命だ。

「後悔してるか? 自首したこと」

 仲居の問いかけは刑事としてのものではなく、かつて校庭で並んで座っていた頃の友としての響きを持っていた。
 中谷は短く息を吐き、天井の染みを見上げた。

「……いや。俺にとっては、どうでもいいことだ」

 生きようが死のうが、罪は消えない。
 ただ、あの夜、坂城に銃を向けられ「どうする?」と問われた時、中谷の脳裏をよぎったのは、仲居のふざけた笑顔だった。
 あいつに手錠をかけさせるなら、悪くない。そう思った自分の感傷を、口に出すつもりはない。

「そっか」

 仲居は短く頷き、何かを噛み締めるように沈黙した。
 面会時間の終了を告げる無機質なチャイムが、静寂を破る。

 立ち上がりかけた仲居が、ふと、幼い頃の子供の瞳でこちらを見た。

「……また、一緒に飲もうぜ」

 中谷は目を見開いた。
 叶うはずのない約束だ。自分は塀の中、いずれは絞首台の露と消える身だ。シャバでグラスを交わす未来など、万に一つもあり得ない。

「なんだ、地獄でか?」

 皮肉を込めて返すと、仲居は屈託なく頷いた。

「そうさ。地獄でな」

 中谷は、こみ上げてくる笑いを堪えきれず、肩を震わせた。
 この男は、どこまでもお人好しで、どこまでも馬鹿だ。
 殺人鬼の自分と同じ場所へ行く気でいるのか。

「……バーカ」

 中谷はアクリル板に掌を当て、告げる。

「仲居。お前は地獄に来んな。ぜってえ追い出してやる」

 仲居は一瞬きょとんとした後、大げさに肩をすくめてみせた。

「ひっでえなあ。俺、死んだら居場所ないのかよ」
 
「知るか。死ななきゃいいだろ」

 二人の視線が交錯し、同時に吹き出した。
 乾いた笑い声が、無機質な部屋に反響する。
 アクリル板越しに重なった視線は、確かに昔のままだった。

 背後のドアが開き、刑務官が中谷を促す。
 もう振り返らなかった。

 ***

 拘置所の外へ出ると、抜けるような青空が広がっていた。
 眩しさに目を細めながら、仲居は大きく伸びをした。
 肺いっぱいに吸い込んだ外気は旨かったが、どこか苦い味がした。

「……ふう」

 仲居はポケットを探り、くしゃくしゃになったタバコの箱を取り出し、最後の一本を咥え、ライターをカチリと鳴らそうとしたが――

 視界の隅で黒い影が動いた。
 冷ややかな殺気と共に、黒洞々たる銃口が仲居の顔面に突きつけられる。

「うおっ⁉」

 反応する間もなかった。
 引き金が引かれる音。

 プシュッ、プシュッ!
 
 仲居を襲ったのは鉛の弾丸ではなく、冷たい液体の飛沫。

「……ぶへっ!」

 顔面を直撃した冷水に、仲居は情けない声を上げてのけぞった。
 咥えていたタバコが濡れてへたりと折れ曲がる。
 目の前で精巧な拳銃型水鉄砲を構えた坂城刑事が、氷点下の視線で立っていた。

「私の車をタバコ臭くするつもりですか? 仲居巡査長」
 
「ひ、ひっで!」

 仲居は顔を拭いながら抗議の声を上げた。

「止め方ってもんがあるでしょ⁉ そりゃ俺だって、無意識に手を伸ばしちゃったけどさあ! いきなり銃口向けるとか、心臓止まるかと思ったわ!」
 
「心臓が止まる前に肺が汚れるのを防いであげたんです。感謝してください」
 
「あのねえ! 口より先に手が出るのは嫁の貰い手がなくなるよ、坂城ちゃん! 暴力反対!」

 坂城の眉がピクリと動いた。
 彼女の手元で、水鉄砲のレバーが再び絞られる。

「おわっ!」

 プシュシュッ!

 容赦ない追撃の水飛沫が、仲居の顔面を正確に捉えた。

「『ちゃん』はやめてくださいと、何度言えばわかるのですか?」

 坂城は無表情のまま水鉄砲を懐にしまうと、スマートキーで車のロックを解除した。
 アンサーバックの電子音が軽快に響く。

「乗ってください。またコンビです。今度は、あなたの昔馴染みのような悲しい犯人を出さないように」
 
「……へいへい、わーってますよ」

 仲居は濡れた前髪をかき上げ、苦笑しながら空を見上げた。
 青空の向こう、厚い壁の中にいる友へ、心の中で言葉を送る。

(俺も地獄へ行くから待ってろよ)

 仲居は濡れたタバコをゴミ箱へ放り投げると、相棒の待つ車へと足早に乗り込んだ。
 エンジン音が唸りを上げ、車は雑踏の中へと滑り出していく。

 光と影、それぞれの場所で、それぞれの戦いは続いていく。
 いつか、地獄でも天国でもない場所で再会できることを願って。
 
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