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第五部 瓦解のクリアレギス
79.軛を断ち別つ震霆
しおりを挟む同じ宵闇――木々を縫い打ち付ける大滝のような雨の中を、駆ける一頭の馬。
稲光が時折照らす馬背に獅噛付き、残された僅かな気力を振り絞る一人の女。
鬱蒼としたアミアス大森林を馬なりに走るのは――火精司教フランジュ・グラセスだった。
手綱を握る体力も行先を示す気力も無く、ただただ王都から離れる為だけに走る。
逃れ着いたシアン洞の繁場に――幸運にも――馬が繋がれていなければ詰んでいただろう。
罪悪感を覚える暇も無く跨り、力なく横腹を蹴り、突っ伏して既に半日が立とうとしていた。
眩惑と混濁の狭間で辛うじて意識を繋ぎ止める情念の残火は、脳裏に微かな走馬灯を燭す――
それはほんの数刻前のことだった。
「……ここだ。案内させっから離れず後ろを付いていけ。絶対逸れるなよ? 良いな?」
「ちょっと、ここ第一坑道でしょ? どこに行かせようって――」
「ま、待って下さいよぉお! これって絶対ヤバイですよね!?
アタシなんかヤバイ事に片足突っ込んでますよねぇ!?」
「だぁ! 静かにしろ! 廃坑つっても初級の訓練で浅層は人が来る事があんだからよ!
心配すんな、お前には罪が及ばねぇように裏で手を回しといてやっから」
「ほ、本当ですよね!? 信じますよ……ていうか、何でこんな目に……」
「ぶちぶち言ってねぇで、こいつ持ってけ。良いか? 絶対火はつけるなよ?」
「……何ですかこれ? 木の棒? これでどうしろと……」
「さっき渡したマップの通りに、壁を突きながら進め。手では触れんなよ」
「何が何だか……それに、グラマス……その人って今回の――」
「――アイユ。それ以上は言うな。一個借りだ……このことは誰にも言うんじゃねぇぞ」
「言うなたって誰に何をどう言えば良いんですか……鍛匠まで巻き込んで……」
「親父なら大丈夫だ。余計な事を言う人じゃねぇ。向こうに出たら忘れず――」
「――エド! アンタ何のつもりなのよ! 私を逃がしたらどうなるか分かってんの!?
第一アンタに何の得があるっていうの!」
「……俺はお前に命を救われた男だからな。借りは……返しておく。今更だがな……」
「ほ……本当に今更だわ! 礼は言わないわよ!? 助けて貰ったとか思ってないから!」
「要らねぇよ。とにかく……今は一度王都を離れて、考えろ。何故こうなったかを……な」
「考える? 何を訳の分からない事を……アンタなんかに私の一体何が――」
応えは無く、軽く手を挙げ翻す男の背を――フランジュは形容出来ない思いで見送った。
***
「凄い雨ですね!! 先輩!」
「え!? 何!? 聞こえないよ!?」
轟音と濁流の中を西に進むアクレイアとサーシャは時も解らないまま、薄暮の樹林を進む。
野営が出来るような状況でも場所でもない。豪雨を避けて獰猛な生物ですら身を潜める中で、
ここぞとばかりに距離を稼ごうと、泥濘む獣道を一向に急いだ。
「ここっていつもこうなんですか? アミアスは狩りの聖地って聞いてましたけど」
「いや? 今は丁度梅雨の時期だからね。だから演習はそれが終わってからやるんだけど、
今年はもう実施してるみたいだよ。理由は知らないけど」
「え? あ……えっーと、そうみたいですね。城内で噂されてました」
僅かに緩くなるサーシャの歩調に、敢えて合わせずに先を進む。疑念より重要な事がある。
夜になる前に野営地のいずれかに辿り着かなければ身が危険に晒される。
こうして長時間雨に濡れながら歩いているだけでも、確実に命の灯火は弱まっていく。
アミアスには詳しいアクレイアだったが、それでも故郷に近い西のみで東部は未知だった。
シアン洞から西進して中心から北上すればベーレン、南下すればフラン湖に辿り着くだろう。
アーヴ湿地帯からアミアス大森林に入った理由は『街を避けた』からで、北上は相反する。
西に進み馴染みの街、ルンヒルの対岸に達する選択肢はあったが、雨が上がれば危険が増す。
現状最も現実的な行先――フラン湖を目指した事は、思いがけない邂逅を二つ齎した。
「あれ……なんですかね……?」
木陰に身を隠し僅かに顔を出して囁くサーシャは、弱まる雨音に紛れて半歩真横に動いた。
開いた場所に寄り添い、同じようにして前方を覗くと――遠目に巨大な何かが見える。
木々の奥に倒れる大木のような何かは、時折走る雷光を反射して鈍く黒光りしていた。
「……話に聞いた事がある。フラン湖には『ヌシ』が居て、時折天候が大きく崩れるのは、
ソイツが雨雲を呼んでるからだって。目撃情報も無いし迷信だと思ってたけど……」
「ヌシって魚ですか? 陸に上がってますけど……もしかしてサラマニュートですか?」
「いや。あんな巨大なのは居ないでしょ。アレは……多分キングボアだね」
「ひっ!! じょ、冗談で――」
小さく悲鳴を上げるサーシャの唇に指を近づけて制止し、目を細め眼前の異物を凝視する。
キングボア――ボアは基本的にヴァイパーとは異なり《毒を持たない大蛇》に分類される。
巨大な身体で動物を締め丸呑みにするそうだ。
「……動く気配がないから寝てるんじゃないかな。蛇は基本臆病だから刺激をしなければ、
迂回して湖に出る事は出来ると思う……一応聞くけど《潜伏》と《抜足》は?」
「は、はい……持ってますけど……先輩は??」
「大丈夫だよ。こう見えて案外動けるから安心して……ただ――」
ただ――気になるのは、キングボアの索敵範囲がどのくらいのモノなのか。
今までに見た爬虫類型とは全く異なり、横たわる胴体だけで優に大人の背丈を超えている。
有鱗族でも蜥蜴系とは異なり鱗蛇系は優れた感覚器を持っていると言われていた。
潜伏とは言っても姿形が煙のように消える訳ではない。抜足と言っても無音とはいかない。
対象の感知を極限まで避ける技能でしかなく、視覚や聴覚は距離を保てば誤魔化せるだろう。
辺りに立ち込める雨土の匂いが多少は嗅覚を欺いてくれる。
しかし彼等が備える熱感知に関しては簡単には行かない。体温を操る事は出来ないからだ。
勿論方法が無い訳ではないが、そうするには諦めの心が要る。
「……先輩? 何してるんですか……?」
地面に寝転がって溜まる雨水に全身を浸し、周囲の汚泥を搔き集めて隙間なく塗りつける。
両手で濡れた落ち葉溜まりを掬い顔を洗い、前髪の滴を振り払って――サーシャを見た。
「……え? じょ、冗談ですよね?」
「少しでも気配を誤魔化すにはコレしかないよ。というか、慣れてると思ったけど……」
「そ、それはそうですけど……」
着の身着のままで逃げて来たサーシャは、濡れてはいるが小奇麗な制服を身を纏っている。
故に汚したくないというのは解らなくは無いが、結局の所は早晩破棄すべき装備でしかない。
女心の機微は解らないが、観念して膝を付いて泥を被る姿には未練と空虚が同居していた。
「準備が出来たら行くよ? どっちに頭があるか分からないけど……後は運かな」
「はい……大丈夫です。行けます」
涙目に見える表情から目を逸らして、比較的草木の多い風下へと――四歩進む。
標的が動かない様子を確認しながら、後ろ手に合図して前方の木陰へ軽く飛ぶ。
似たような動きで後を追うサーシャと共に、丁度蛇の真横まで移動に成功する。
「ひっ」
息を飲むような悲鳴に心音が跳ね上がり振り返ると、サーシャが左側を凝視し口を押える。
おずおずと指差す先を見ると――何か、大きめの動物の下半身だけが無造作に転がっていた。
先程より距離が近づいている為に会話は出来ないが、それが何かには心当たりがあった。
シアン洞前に繋いでおいた馬――の胴体半分である。
滲んだ血が地面に漂い、何かに潰されたような胴体の痕跡を見て――ある程度予測出来た。
大蛇に締め潰されて、今頃上体は腹の中だろう。だからこそ動かずに寝ているのだと。
馬の蹄と下半身から垂れ下がる鞍を指差して正体を知らせると、サーシャは軽く目を瞑り、
音も無く小さく息を吐いて、軽く頷いた。食べ避けた殻に動じない度胸には得心させられる。
ともあれ、半身とは言え馬を丸呑みしたのであれば、暫くは消化に精力を集中するだろう。
多少物音を立てても気にも留めない可能性が高い。
サーシャの眼前で立てた指二本を交互に動かすと、意図を察したサーシャは革靴を脱いだ。
《移動優先》のハンドサインに齟齬は無かったが、素足になるのは恐らく《組織流》だろう。
特に指摘はせずに――多少の音は犠牲に滑るように駆け出した。
大蛇は恐らく気付いていただろうが動く事は無く――次第に気配は小さくなって、消えた。
「もう大丈夫ですよね……」
「……そうだね。まぁ満腹だったみたいだし、ここまでする必要は無かったかもね」
「泥塗れになる前に知りたかったです……そう言えば、あの下半身ってやっぱり……」
「うん。繋いでおいた馬だね……可哀想に。セントラルから一緒だったから残念だよ」
「勝手にここまで来たんですかね……? 逃げるならアーヴの方に行きそうですけど」
「調教された馬が単独で森に入る事は普通ないかな……逃げるにしても引き返すよ」
「そうですよね。と言う事は……誰かが?」
「その答えは目の前にあるよ、ほら」
《看破》や《追跡》を持つ者であれば容易に判別出来る印が、眼前の風景に残されていた。
足跡こそ気を付けてはいるが偽装が甘く、草木等にも痕跡は残る。
馬泥棒は恐らくそこまで精度の高い移動系技能は持っていないと思われた。
「えっと……先輩。これ、小柄な人ですね。少なくとも重装備を付けた人ではないです」
「流石だね。沈み具合から見て女か子供。裾が擦った痕跡があるから、前衛職では無いね。
戦人だとしても術師系。敵対して来てもどうにかなりそうだよ」
見解を共有すると、キョトンとした顔でサーシャが見返す。
「あの……先輩はなんでそんなに詳しいんですか? もしかして闇ギルドの……」
「え? 違う違う。まぁまた詳しく話すけど元々アミアスは庭なんだよ。主に西側だけど」
「それは……意外ですね」
嘘は吐いていない。今は言えない事も多いけれども。
***
「雨は上がりましたけど、相変わらず雷がうるさいですね……」
「光ってから鳴るまでの間隔が短いから近いんだろうね、
落雷には気を付けないとだよ……金属は持ってないから平気だろうけど」
「え? あ、えっと……」
動揺して素足をまさぐり、思い出したようにホッとするサーシャはまるで小動物に見える。
安心した次の瞬間、腕を抱いて震える姿を見ている限りは彼女の裏の仕事とは結び付かない。
ともあれ機能重視で採用されている太腿が剥き出しの官服は流石に寒いのだろう。
早く焚火を熾して乾かして何かを腹に入れないと、体力が削られて動けなくなってしまう。
差し当たりの問題は――二人共が手ぶらな事だった。
「うう……何かありませんかね? 空瓶……骨……鳥ですかね? ゴミばっかり……」
「程度の低い戦人が散らかして行ったんだろうね。湖沿いに少し北に歩いてみようか?
何か見つかるかも知れないし、ヌシからも離れた方が良い」
「そうですね。湖に来たら今度こそ逃げられないでしょうし」
「それもなんだけど、もしかしたら丁度衛兵が演習してないかなって」
「……あの、それは流石にマズいんじゃないでしょうか……だって私」
サーシャの心配も解らなくはないが、その必要はないと断言出来る。
演習は正式な国としての行事で、そもそも一隊を率いるのだから裏道を使う事は出来ない。
中央を通って門橋を越え森に入ったはずで、そんな彼等が王城の現状なんて知り得ないのだ。
しかしそれを事細かに説明して安心させるのも躊躇られる。
自らの意思で危険を冒して助けたが、彼女の本質に関しては未だ理解出来ていないからだ。
「まぁ、ボードウィン卿なら大丈夫だよ。上手く誤魔化してあげるから」
「す、すみません、何から何まで……けど、あの」
言い澱みながら歩みを止めるサーシャの、二の句を待って足を止める。
「私……これからどうすれば良いんでしょうか? 帰る所もありませんし……」
失念していたが戸惑うのも当然だった。助けた以上見捨てる気は無いが、今は代案が無い。
後先も考えずとにかく難を避ける為に王都からここまで逃げて来たが、何の拠り所も無い。
更にはシェーラとの取引で今後は『亡き者』としての道を歩むしかないのだ。
返答に困り何となく湖を眺め、左に弧を描く群青の水面を目で追う――
「……ちょっと待って。何だろアレ……ほら、湖の奥」
立ち止まって指差す先には、小さな光源が砂漠の緑地のように――煌々と輝いていた。
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