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第一部 揺動のレジナテリス
1.森羅の狩人 リコ・ヴァレンティ(R-069)
しおりを挟むバササッ
突如――飛び去った鳥の羽音に、リコは夜明け前の冷水を浴びせられたように飛び上がり、
中腰に身を構え、周囲を見渡した――近くに気配はない。
視野を意識的に広げ葉擦れに耳を澄ませ、風の香りに神経を尖らせる。知覚できる距離に、
動物以外の気振りは感じられない。
父以外の生物は孤独な森の狩人であるリコにとって、糧となる獲物――だった。
弓を拾い右前で構え、矢を番え二本の指で弦を挟む。全く的に中らなかった不均整な弓と、
真直ぐ飛ばない矢に対し、狙いを外すことで必中を手にしたという、涙ぐましいまでの研鑽が、
流れる一連動作を身に付けさせた。
自信に裏付けられた高揚の中、緩やかな坂を下って湖畔まで下りる。踝まで湖に足を漬け、
温めの水を掻き分ける波の狭間に紛れながら、音を頼りに石柱に右手を添える。
幅広い板状の巨石が楕円を描くように隙間なく連なり、その上部を覆う様に岩板が横たわる。
誰が何の目的で、どのようにしてこのような精巧な物を造り上げたのか、なぜこれを守るのか、
これに関して解る事は何一つ無い。
リコにとって《石柱》は、自分を囲う檻のような物であり、
小さく閉じられた世界の中での唯一の役目であり、望まずとも《支え》だった。
淡々と義務感を動機にして、湖を囲う草むらを覆う森を右手に見ながら八分の一ほど歩く。
鬱蒼とした森で何かが動き回れば必ず五感が察知する。
無心で左前方を重点に注視していると《それ》――は居た。
それはリコが想定した動物の類では無かった。
左前方200メートルほど奥、網膜が四本足に捉えて像型したそれは、両手首を湖底に付き、
衣服を濡らす事も意に介さず、屈伸するようにしゃがみ、立ちを繰り返す――人型の姿だった。
何をしているか判別できる距離では無く、リコは湿った弓手を握りしめる。
興奮を冷静で包み隠す狩りとは別種の未だ経験のない感情を、見て備える事で思考の片隅へ追いやり、
揺れる鼓動を愉しみながら、リコは《獲物》の把握に努めた。
小柄なリコは勿論のこと父と変わらない程の長身で、父よりも筋肉質だが細身にも見える。
どれも父を基準にしているので実際にどうなのかはリコには解らないが、肌の色は全く異なり、
見た事のない茶とも黒とも言える肌色をしている。
その間も人影は湖底に腕を浸け、何かを探しているようだった。
矢を番え構えはしたが次の行動を決めかねたのは、初めて見る父以外の者に対する畏怖や、
攻撃――人を害する――行動、それ自体への逡巡が邪魔をした訳ではなかった。
恐らくは、初めての緊張に戸惑う、善悪の判断基準を未だ持ち合わせていない一人の子供が、
《湖を守る》という唯一絶対的で大前提な決まり事を理由に、対人先制攻撃への心理的障壁を、
容易に飛び越えたに過ぎなかった。そう、リコは迷わずに右手を宙へと解き放ったのだ。
ほんの数秒、と思える数十秒。刹那と知覚する程の弾指の合間に。
侵入者が、ゆらりと立ち上がる。
風切り音と共に襲い掛かる矢は、軽い孤を描いて目標の上半身を貫く――はずだった。
立ち上がりの挙動の終わり、その一点を集束して放った一条の矢を男は
上体を反らすだけでかわして見せた――かと思いきや、盛大に湖に横倒しに倒れこんだのだ。
大容量の体積が、扇状の大きな飛沫を撒き散らし、石柱にも跡を残して斑の染みを残した。
「あ、あれ……?」
リコには、男が直前で矢を避けたように見えた。が、直後の反応を見ると判断が出来ない。
それ以上に目の前で起こった異様な光景に興奮しながら、リコは二射目を構え警戒を段階的に引き上げ、
ゆっくり静かに距離を詰める。弓で突ける距離まで近づくが動く様子はない。
身体全体が浅く水没しており、水面は呼気で泡立っておらず、体積によって生まれた波紋が、
ぷかぷかと浮かぶ木矢を揺らし石壁に寄せては跳ね返って漂っている。
弓の先で軽くつま先を小突くと、ザバァ と呼応するように、豪快に大男が立ち上がった。
「うわぁ!」
仰け反りそうになるのを堪えて体勢を立て直し、構え直した。
即応出来るように心を整え、そしてようやく無表情で空ろな目の男の風貌を、
頭から水面までなぞるように観察した。
短く刈られた太陽のような黄金色の髪は濡れて輝き、褐色の肌との対比を際立たせている。
大柄ながら華奢で、それでいて力強い肉体は無駄を省いた大剣のようにすら見える。
上から見据えられると萎縮しそうになるが、何故か焦点の合わない大男の眼差しを前にして、
リコの口をついたのは、畏怖や不審とは別種の感情に起因した言葉だった。
「すごいね! なんで避けれたの??」
構えたまま視線と態勢を解かないリコに対して表情が動かない男は、スッと無音で振り向き、
無言で岸に向かう。
反撃意思が無い事を確認したリコは矢は外さずに静かに弓弦を緩めた。
「危……ない、だろ、う」
発せられた声は、見た目程低くは無く。幼げで強くは無いが良く通ってリコの両耳に届いた。
後ろ姿を見せられながらも警戒は続け、右手の矢先でくるくると円を描いて答える。
「え? 侵入者は排除するように父さんから言われてるもん」
湖水に濡れて輝く金色の頭上から滴り落ちる銀水を意に介さず、男は膝頭で水面を掻き分け、
湖岸へ上がると草むらに横たえていた長い何かを――右手で掴んだ。
「……な、ら、どうす、る」
ゆっくりと上体を起こして、虚ろな視線と長い得物の先をリコに突き立てる。
その表情には、恐れや怒り、戸惑い、侮りといった一切の感情どころか、
命すらも含んでいないように見えた。
咄嗟に反射で弓を引き絞ったリコは、その暗い眼差しを覗いてしまった。
瞳の奥――眼球、網膜、どこを探しても、自分の姿形が映っていない事を、無意識に察して、
まるで弛緩した心に呼応するように、握っていた指から音も無く一本の矢が滑り飛んだ。
「……ぁ」
小さく漏れたリコの声を掻き消すような風切り音が、弧を描いて大男に向かって襲い飛ぶ。
凝縮された時間の中で、リコの脳裏には少なくない数多の思いが瞬く間に駆け巡った。
しかし、その中でも大きな《迷い》という感情を乗せた《悪意》を内包しない無い矢を――
男は左下から右上に長柄を薙いで――一太刀で断ち切って見せた。
中空で斜断された木矢は、双方が鋭利な切っ先を回転させながら、次第に本来の持つ意味を
『木片』へと変化させながら草むらに転がり、カラカラと鳴った。
「……うっそぉ」
リコには俄かに信じる事が出来なかったが、静けさの中で風で揺れるそれを改めて眺めて、
目の前の男が飛来する矢を避ける事もせず、異様に長い棒の先で切って見せたのだと理解した。
「そ、その長いのって、なに……?」
「……こ、れは……槍、だ」
リコには《ヤリ》と呼ばれるそれが何かは分からなかった。
眼前に突き立てられた時は長い木の棒にしか見えなかったが、男が物干し竿を薙いだ一瞬、
確かに柄の先に鋭利な刃物のようなものが見て取れた。父が使うナイフとは違って異様に長く、
重そうで、使いづらそうに思えたそれが武器だとは、すぐには気づけなかった。
黒く光る切っ先が、ゆっくりと再び自分を差し示して、直線延長上に自らの身体を捉えた時、
リコは感じた――恐らく生まれて初めて、言葉に出来ない、何かを。
そしてその何かが破裂する寸前、衝撃に触発されるように――リコは踵を返した。
矢を弾く獲物に遭遇した事も、人間相手に矢を番えて対峙した事も無いリコの選択肢として、
逃走や撤退が採用されても何ら不思議ではないが、心中はまた違った感情に満たされた。
ガサガサと雑草を踏み分け森に駆けこみ、頭に絡む蜘蛛の巣を払うリコの脳裏に、
最も強く鳴り響いた思考は――『距離を空けないと』と、『もう一度射つにはどうしよう』――だった。
弓とヤリの射程距離を、極めて初歩的に考察した結果の行動だったと言えるかもしれないが、
とにかくリコは自らの優位に向かって懸命に駆け出した。
「よっ……っと」
軽快な声と共に右手指の矢を口に咥え、弓の日輪を掌で抑え、月輪を強く地面に突き刺す。
全体重を乗せた姫反りの反動を利用して――ふわり――と、小柄な体躯を浮き上がらせると、
二叉に分かれる枝に右足を付いて樹上に飛び乗る。慣れた動きで、寝かせた弓を分枝に当てて
跳躍の反動を吸収すると、遠心力でクルクル回る矢羽を、腰から素早く掴んで引き抜いた。
息を整えて、耳を澄ませる。
鳥の声や遠くない水場のせせらぎの合間に聴こえる草の音は小さく、急いでいる様子も無い。
しかし一歩一歩と近づいてくるのは知覚出来る。ヤリの射程からは確実に外れた場所を確保し、
先手を取れる態勢を維持しているはずのリコを、静寂を塗りつぶす等間隔の音色が迫る。
――極まった緊張と集中の中で、心の中に零れた相反する言葉は軽率を生む。
――未だ見えない相手に、焦れた右手人差し指に無意識に少しずつ力が籠る。
――早鐘のような鼓動、眉間の汗、乾いた唇が咥えた木矢を吐息で湿らせる。
永遠に思える程の数刻――遠望するリコの視線奥に、男が姿を見せた。
ピクリも動かない表情と、何も興味も示さないかのような眼差しを中空に投げ出したままで、
リコの視界、そして射程――狩人のテリトリーに無造作に無遠慮に侵略する。
「と……止まって! 撃つよ!」
先手を取られ自らの胴体に向けられた矢先を一瞥して、歩調を落とさず近寄って迫り寄る。
当然ヤリの届く距離では無く、仮に投げられても避けてしまえば武器を手放すだけに過ぎない。
男にその意思は無くても、リコが圧を受け軽挙に走るには十分だった。
「し、知らないからね!!」
1射目よりもっと投げやりに、そして今度は意図して、『やり』ではなく矢を放つ。
男は素早い弧を描く斜線を、今度は先程とは逆に左下から片手で切り上げ――断った。
カッと薪を割るような乾いた音が森に木霊すると、いよいよリコの心中に恐れや警戒より
不思議に前向きな感情が湧出し始める。好奇心という、失いかけてた、心の揺らぎが。
「ちょ、ちょっと! 君は誰! ここに何しに来たの!?」
男からの返事は無かったが、リコは構わずに沢山の問いから一番の疑問を投げかけ続けた。
「あそこで……あの湖で何をしてたの!?」
「調べ、てた」
軽く首を傾げた男は、随分久しぶりに感じる程に口を開いた。
「しらべ……なにを?」
「解ら、ない」
「わからないのに調べてたの?」
「……解らない……から調べ、てた」
他の人間とはこれほどに会話が成立しない存在なのか、と比較の対象が父しか居ないリコは、
質問を諦めて樹上から飛び降り、弓で衝撃を吸収して地面を両足で受け止めた。
「うーん……よくわからないけど、余り近づくと父さんに叱られるよ」
「……近く……に人、が、居る、のか?」
「うん? 居るよ。ウチにだけど」
「そ……の人、に……会いた、い」
初めて被せられた視線で射抜かれたたような錯覚がしたが、拒絶する気にはなれなかった。
もし本当に危険な侵入者だったとしても興味が遥かに勝ったからだ。
「いいよ」
「いい、の、か?」
「えー! 自分で言ったんじゃん!」
「警……戒、しない、の……か?」
「もし君が危ない人でも父さんが何とかするだろうし。そういえば名前は? 僕はリコ」
「カイル、だ」
間を置いて答えた大男は、再び背を向け木陰に進むと、ヤリの柄を掴み背中に回した。
ヤリ――初めて目にする耳にする長い武器。リコの興味はその先端の切っ先に集中していた。
胴体に使われている古びた木の柄はむしろリコの弓の素材に似ていて特段不思議な物では無い。
それよりも違和感があったのは棒の先端に無理やり取り付けられたかのような大きなナイフで、
身近に迫った獲物に対処したり森の中で扱うには少し長すぎるだろう。
「そのヤリってどうしたの? 自分で作ったの?」
「……貰っ……た、小さ、い……時、に」
そう言いながら少しだけ光が灯ったような目をしたカイルは、静かにリコの後ろに付いた。
何となく察したリコは父の待つ家に向かって歩き出す。
「そっか……僕と同じだね」
周囲が黄昏始め、帰路を歩きながら少し斜め後ろを歩くカイルと、大きなヤリを見ながら、
リコは初めて湖に連れて来られた幼少の頃を思い出して、秘やかに願った。
最初に感じた思い。
最初――どんな者にも訪れ、そして次第に失う尊い機会。
何かが変わりそうな予感、まっさらな期待を、リコは抱かずにはいられなかった。
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