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第一部 揺動のレジナテリス
18.薫衣の貴婦 フローレン・メルセンス(F-026)
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セントラル山から流れる清水は、クレモン渓谷の木々を映し碧緑に染まる。
長らく好んで通う温泉街ヴィックに程近い秘湯の源泉を、尊敬する師と共に見つけたのは、
皮肉な偶然が重なった奇跡と呼べる出来事だった。
水棲系スポットと言われるセントラル洞からの、氾濫を監視する為に見張り台を設営する、
そんな任務で山中を下見していた私達がここを見つけた時、彼は嬉々と興奮して言った。
『ここに温せ……じゃねぇ、あれだ、休憩所を作るぞ!』
そしてそれなりの術師だった彼は、業務の合間を縫い、監視と景観に良い場所を見つけて、
源泉を引き、湧水を混ぜ、見事な《ガゼボ》を――下から見えないよう細工をした上で――
3日で作り上げてしまった。
それから私達は仲間達とここへ通って、日々の汗を流しては、くだらない事を語り合った。
あの頃の思い出はブラン川の流水よりも青く輝き心に刻まれている。
誰も来なくなった秘湯――セレスに一人浸る今でも。
ヴィックはセントラルエリア北端の街で、自領メルセンス東部リオンの街区と隣接しており、
年に数回こうして湯治に来ている。
しかし実際、ティエンヌ渓谷を馬車で揺られるのは手間以上に危険もある。
猛獣は別として、十字王道を結ぶ辺境商路は盗賊の被害が少なからず生するからだ。
護衛を付けなければならないことを鑑みても、きっともうここへは来ない方が良いのだろう。
それでも希望にすがる思いが捨てきれずにいた。
「情けないな、良い歳して」
掌ですくった湯が、指先から零れてパシャパシャと叩く音が、独り言をかき消してくれる。
何かが目尻を伝うのを手拭いで拭きながら石枠に腰かけて、熱気を涼風で冷ます。
ふぅっと、口元から漏れる温かい風を美しい自然の中に昇華させた時――
サクッサクという、草木を踏みしめる音が届いた。
濡れ髪をかき分けて眼下を覗き込んでも、音の主は分からない。
次第に近づいてくるそれは、やがて獣だろうという諦めが混じった思いに変わった。
こんな格好では何も出来ない、そもそも命を惜しむような歳でもない。
余生を一人で過ごしているだけの女で構わないなら、と思い至ってその時を待った。
そしてガラッ、という引き戸の響きに、心音が跳ね上がるのを隠せなかった。
「おおっと……先客か、すまねぇ……って、お前……もしかしてフローか?」
そう、きっとこんな風に、待ち人はある日突然ふっと現れるのだ。
だから諦められないの。
***
「まさかお前がまだここに通ってるとはなぁ……そんな近くねぇだろここ」
「そうですね。けど……好きなんですよ」
「ん? 何がだ」
「えっと……ここがですよ」
師匠の厚い背中を流しながら、ずっと前をむいて振り返らない彼に表情を作れず嘘をついた。
いや決して嘘ではない。
この場所が好きな事は本当だから、きっと半分だけ――嘘なんだろう。
「にしても、ここは変わんねぇな……ああ、お前もな、一発で気づいたぞ」
「何言ってるんですか、私もう50超えてますから。もうお婆ちゃんですよ」
「んなこたねぇだろ、今でも十分綺麗だぞ」
そうだった、この人はいつもこうやって、極自然に人の心を搔き乱すのだ。
あの頃、私はまだ20代の全盛期、それでも彼を掴む事は出来なかった。
今の言葉も嘘ではないのだろうけど、出来ればあの頃に戻って、
もう一度――この場所で聞きたいと願ってしまう。
「……はい、良いですよ先生」
「おう、ありがとうな。けど……こう、なんつか、気恥ずかしいな」
「お礼に私の背中も流してくれませんか?」
「いや、お前……そりゃマズいだろ。幾ら弟子つっても……旦那に悪ぃだろ」
「あら……知らなかったんですね。あの人なら3年前に亡くなりましたよ」
そうだったか、と静かに答えた師匠に、私は卑怯な言い方をしてしまったかもしれない。
王都から離れた彼が知っているはずもないと解った上で言うのだから。
それでも零してしまう――こんな機会は二度と来ないかも知れない、という思いが。
「……ったく、ほら、ちゃんと前隠してろよ」
「小さい頃はよく流してくれたじゃないですか、何を恥ずかしがってるんです」
「ばっ、あれはお前がガキの頃の事だろ! いつの話してんだ!」
「相変わらずこういう冗談が通じませんね。私よりずっと長く生きてるのに」
「今やお前の方が年上だしな……本当参る、これが辛いから離れたのによ」
そういって、ポリポリ頭を掻く私の愛する師――
ヴァンは不老で不死の人だった。
彼は自らを置いて居なくなっていく友を笑って見送りながら、深く心を痛めていた。
***
「……んで、聞いて良いのかアレなんだが、旦那は何で……だ? お前より若かったろ」
「まだ歳の話をしますか? 本当に女心の分からない人ですよね」
「ったく……茶化すなよ、マジで聞いてんだよ」
そう言って手巾で顔を拭く彼は30年前から何一つ変わらない姿をしていた。
「……先生は3年前のことは何か知ってますか?」
「セシルの事か? 詳しい事は何も知らねぇってか、知らせる奴もいないしな」
「そうですよね……あの時王国を揺るがすような政変があったんです」
「なんだそりゃ? セシルはそれに巻き込まれたってのか?」
「結果的にはそうですね。私もあの時は領地に居たので、王都でのことは分かりませんが」
「それがお前の旦那とどう関わってくんだ? アイツ官僚じゃなかったろ」
「そうですね。けどあの人はロンサードの貴族ですから」
メルセンス領と西に隣接するロンサード領からは、長らく一方的に敵視されて来たが、
政略結婚として婿入りしたのが現領主シルヴァインの叔父に当たるルドだった。
彼は貴族には珍しく温厚な性格で、農業に殉じた尊敬に値する人だった。
だからこそ巻き込まれた理由が分からない。
「ロンサードは西側の隣領であるエンフィードとも領地を巡って何度も争ってましたから、
何かを画策したとも思えないんです。婿入りも私を取り込む意図でしょうし」
「ロンサード?あそこ山ばっかで、今でも栄えてねぇだろ」
「エンフィールドは漁業が盛んですし、豊かさでは対抗出来てませんね」
争うと言ってもルーン川を境にロンサードが一方的に侵食されていただけで、
泥沼の関係が十数年も続き疲弊するロンサードに、食料を援助したのが私達だ。
夫の嘆願で断れなかったのもあるけど、隣領が飢えれば流民で自領の治安が悪化する。
それを防ぐ理由があったとはいえ、両家は姻戚として友好関係にはあった。
「旦那が何かしらの理由で実家から切り捨てられたと仮定すりゃ、要するにロンサード側に
メルセンスを切っても良い理由があった……それか、出来たってとこか?」
「さすがですね。きっかけはエンフィールド領主の妹と、ロンサード領主の結婚だと思われます。
犬猿だった彼等ががどうして急接近したのかは分かりませんが」
そう、恐らく夫はこの政略結婚に巻き込まれる形で命を落としたのだ。
***
「なるほどな。その辺の事も理由なのか、お前がわざわざこんな所まで湯治に来るのは」
「え? ええ、まぁ、そんな所ですかね……鈍感」
「ん? 何か言ったか?」
「いいえ何も、ほら、いい景色ですよね先生。本当良い仕事しましたね」
「だろ? 下から見えないしこっからは丸見えだし監視にちょうど……ってなんだありゃ」
並んで石枠に座っていた師が身を乗り出して絶景を真下に覗き込む。
手拭いが落ちないように――落ちても構わないけど――気を付けながら隣に座った。
眼下にはクレモン渓谷を流れるブラン川の沿道を、小さな子供が走り抜けているのが見える。
悲鳴が左から右に抜けて、音の変化が届く頃には既に詠唱を終えていたヴァンが右手を翳した。
《ロックエッジ》――土精術のLv1と2を掛け合わせたそれは、
湯舟を構成する石枠の外側を薄くスライスするようにこそぎ取り、
キンッと響くように大菱の形を成して、緩やかに落下した。
ガンッガンッと至る所に衝突した鋭利な岩は、そこいらの岩肌を抉り取っては、
幾つかの落石となって、追っていたリザート系か何かの頭上に豪雨のように降り注いだ。
「ふぅ、一仕事したら腹減ったな」
そういって湯につかる師匠はあの頃から何も変わっていなかった。
最小限に最大の結果を生む事を考えながら、
過程も面白くないといけないという、歪んだ性格のままだった。
こういう所が好きだったのだ。やっぱり男は有能なだけじゃなくて、面白くないと。
「相変わらずやり方が雑ですよね……先生は。完全に下道が落石で塞がってますけど?」
「いんだよ、セントラル洞に行くような奴らが、あの程度の岩砕けなくてどうすんだ」
「そういう問題ですか……そういえばさっきの子、ヴィックに向かってましたけど、
放っておいていいんですか? 多分面倒な事になりますよ」
「トレインか? まぁ誰も見てなさそうだったし平気なんじゃねぇの?」
トレインは『引き連れる』という意味だ。
駆け出しが実力以上の獣と遭遇した時に起こりやすい現象で、特に町に引き連れた場合、
欠格や投獄もあり得る重大な犯罪行為である。
セントラル洞からヴィックまでは一本道ということもあって、起こりやすい地形ではあったが、
あんな小さな子供が往来するには相当レベル差があるようにも思う。
「先生子供好きじゃないですか……特に女の子、助けてあげないんですか?」
「俺を何だと思ってんだ……てか俺も急いでんだよ。レインフォールから休まずにここに来て、
セントラルを抜ける為に寄っただけだしな……そういやお前、この後暇か?」
せっかくだし飯でもどうだ? という誘いに、暇では無いけど乗ってしまう私なのだった。
***
「そういえば、さっきの子供見ませんね。大丈夫だったんでしょうか?」
「ん? うーん……ああ~そーだな……くぁぁぁっ 染みる!」
何かを誤魔化すように冷えたエールを、喉を鳴らして流し込む師に聞きたい事は沢山あった。
けど本当に聞きたい事は今更聞けないので、当たり障りない話に終始してしまう。
「ところで、さっきセントラルを抜けるって話でしたが、どこに行かれるんです?」
「あー……ちょっとセビリスまでな。今の俺じゃゲートを越えれねぇからここに直行したんだ。
モルアーノに抜けようと思ってんだがよ」
「それは幸運でしたね……もし央都に行ってたら多分捕まってましたよ」
「へ? なんでだ?」
「私も詳しく知りませんが……子供が攫われる事件が相次いでるとかで
商会が取り締まってるみたいです。確かロトリー商会ですね」
「有名な商会なのか?」
「央都一の大商会です。商人ギルドとも繋がってますし、官僚と癒着しているという噂を
聞いたことがあります、関わると巻き込まれるので私は近寄ってませんが」
「つっても国の食糧庫メルセンスの領主だし、しつこく誘われんじゃねぇのか?」
「元は生産ギルドの研究領から出来た領地ですからね。メルチェが居る間は……
そうそう、今はメルチェが生産統括をやってるんですよ。覚えてますか?」
「げ、マジか。覚えてるも何も……アイツに務まんのか? ヤバイだろ、あのアル中じゃ」
メルチェは私達のヴィックでの任務の後に、どこからともなくフラッと現れた変った少女で、
5年経っても10年経っても成長しない彼女を、師はいつも複雑そうな顔で見ていた気がする。
「あれで結構上手くやってるようですよ。上が適当だと下がって……どうかしました?」
「……ん? いや、なんも。時に……アイツとは会ってるか? その……フローラには」
「……いえ、3年前が最後ですね。あれから……お互いにちょっと」
いかにも含みがあるという表情で、彼は私から名前を取ったという現女王の名前を口にした。
彼女に関しては私にも上手く説明出来ないような感情が入り乱れている。
血の繋がっていない、なのに名が繋がっている若い女王は、私が直接勉学を教えた生徒でもある。
しかしそれとは別に、『私が手に出来なかった全てを手にした』ようなあの子――
フローラは、嫉妬の対象だったかもしれない。
かもしれないというのは私にも良く分からないからで、
子供が居ない私にとっては娘のような存在であったというのも、決して嘘では無い。
「そうか……でな、言いにくいんだが……フローラと似た感じの子供が、
お前の前に現れるかもしれねぇ。そん時は……出来る限りで良い、力になってやってくれねぇか?」
そして彼は、いつもこうやって人の気持ちも知らずに、私に酷なお願いをするのだ。
長らく好んで通う温泉街ヴィックに程近い秘湯の源泉を、尊敬する師と共に見つけたのは、
皮肉な偶然が重なった奇跡と呼べる出来事だった。
水棲系スポットと言われるセントラル洞からの、氾濫を監視する為に見張り台を設営する、
そんな任務で山中を下見していた私達がここを見つけた時、彼は嬉々と興奮して言った。
『ここに温せ……じゃねぇ、あれだ、休憩所を作るぞ!』
そしてそれなりの術師だった彼は、業務の合間を縫い、監視と景観に良い場所を見つけて、
源泉を引き、湧水を混ぜ、見事な《ガゼボ》を――下から見えないよう細工をした上で――
3日で作り上げてしまった。
それから私達は仲間達とここへ通って、日々の汗を流しては、くだらない事を語り合った。
あの頃の思い出はブラン川の流水よりも青く輝き心に刻まれている。
誰も来なくなった秘湯――セレスに一人浸る今でも。
ヴィックはセントラルエリア北端の街で、自領メルセンス東部リオンの街区と隣接しており、
年に数回こうして湯治に来ている。
しかし実際、ティエンヌ渓谷を馬車で揺られるのは手間以上に危険もある。
猛獣は別として、十字王道を結ぶ辺境商路は盗賊の被害が少なからず生するからだ。
護衛を付けなければならないことを鑑みても、きっともうここへは来ない方が良いのだろう。
それでも希望にすがる思いが捨てきれずにいた。
「情けないな、良い歳して」
掌ですくった湯が、指先から零れてパシャパシャと叩く音が、独り言をかき消してくれる。
何かが目尻を伝うのを手拭いで拭きながら石枠に腰かけて、熱気を涼風で冷ます。
ふぅっと、口元から漏れる温かい風を美しい自然の中に昇華させた時――
サクッサクという、草木を踏みしめる音が届いた。
濡れ髪をかき分けて眼下を覗き込んでも、音の主は分からない。
次第に近づいてくるそれは、やがて獣だろうという諦めが混じった思いに変わった。
こんな格好では何も出来ない、そもそも命を惜しむような歳でもない。
余生を一人で過ごしているだけの女で構わないなら、と思い至ってその時を待った。
そしてガラッ、という引き戸の響きに、心音が跳ね上がるのを隠せなかった。
「おおっと……先客か、すまねぇ……って、お前……もしかしてフローか?」
そう、きっとこんな風に、待ち人はある日突然ふっと現れるのだ。
だから諦められないの。
***
「まさかお前がまだここに通ってるとはなぁ……そんな近くねぇだろここ」
「そうですね。けど……好きなんですよ」
「ん? 何がだ」
「えっと……ここがですよ」
師匠の厚い背中を流しながら、ずっと前をむいて振り返らない彼に表情を作れず嘘をついた。
いや決して嘘ではない。
この場所が好きな事は本当だから、きっと半分だけ――嘘なんだろう。
「にしても、ここは変わんねぇな……ああ、お前もな、一発で気づいたぞ」
「何言ってるんですか、私もう50超えてますから。もうお婆ちゃんですよ」
「んなこたねぇだろ、今でも十分綺麗だぞ」
そうだった、この人はいつもこうやって、極自然に人の心を搔き乱すのだ。
あの頃、私はまだ20代の全盛期、それでも彼を掴む事は出来なかった。
今の言葉も嘘ではないのだろうけど、出来ればあの頃に戻って、
もう一度――この場所で聞きたいと願ってしまう。
「……はい、良いですよ先生」
「おう、ありがとうな。けど……こう、なんつか、気恥ずかしいな」
「お礼に私の背中も流してくれませんか?」
「いや、お前……そりゃマズいだろ。幾ら弟子つっても……旦那に悪ぃだろ」
「あら……知らなかったんですね。あの人なら3年前に亡くなりましたよ」
そうだったか、と静かに答えた師匠に、私は卑怯な言い方をしてしまったかもしれない。
王都から離れた彼が知っているはずもないと解った上で言うのだから。
それでも零してしまう――こんな機会は二度と来ないかも知れない、という思いが。
「……ったく、ほら、ちゃんと前隠してろよ」
「小さい頃はよく流してくれたじゃないですか、何を恥ずかしがってるんです」
「ばっ、あれはお前がガキの頃の事だろ! いつの話してんだ!」
「相変わらずこういう冗談が通じませんね。私よりずっと長く生きてるのに」
「今やお前の方が年上だしな……本当参る、これが辛いから離れたのによ」
そういって、ポリポリ頭を掻く私の愛する師――
ヴァンは不老で不死の人だった。
彼は自らを置いて居なくなっていく友を笑って見送りながら、深く心を痛めていた。
***
「……んで、聞いて良いのかアレなんだが、旦那は何で……だ? お前より若かったろ」
「まだ歳の話をしますか? 本当に女心の分からない人ですよね」
「ったく……茶化すなよ、マジで聞いてんだよ」
そう言って手巾で顔を拭く彼は30年前から何一つ変わらない姿をしていた。
「……先生は3年前のことは何か知ってますか?」
「セシルの事か? 詳しい事は何も知らねぇってか、知らせる奴もいないしな」
「そうですよね……あの時王国を揺るがすような政変があったんです」
「なんだそりゃ? セシルはそれに巻き込まれたってのか?」
「結果的にはそうですね。私もあの時は領地に居たので、王都でのことは分かりませんが」
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彼は貴族には珍しく温厚な性格で、農業に殉じた尊敬に値する人だった。
だからこそ巻き込まれた理由が分からない。
「ロンサードは西側の隣領であるエンフィードとも領地を巡って何度も争ってましたから、
何かを画策したとも思えないんです。婿入りも私を取り込む意図でしょうし」
「ロンサード?あそこ山ばっかで、今でも栄えてねぇだろ」
「エンフィールドは漁業が盛んですし、豊かさでは対抗出来てませんね」
争うと言ってもルーン川を境にロンサードが一方的に侵食されていただけで、
泥沼の関係が十数年も続き疲弊するロンサードに、食料を援助したのが私達だ。
夫の嘆願で断れなかったのもあるけど、隣領が飢えれば流民で自領の治安が悪化する。
それを防ぐ理由があったとはいえ、両家は姻戚として友好関係にはあった。
「旦那が何かしらの理由で実家から切り捨てられたと仮定すりゃ、要するにロンサード側に
メルセンスを切っても良い理由があった……それか、出来たってとこか?」
「さすがですね。きっかけはエンフィールド領主の妹と、ロンサード領主の結婚だと思われます。
犬猿だった彼等ががどうして急接近したのかは分かりませんが」
そう、恐らく夫はこの政略結婚に巻き込まれる形で命を落としたのだ。
***
「なるほどな。その辺の事も理由なのか、お前がわざわざこんな所まで湯治に来るのは」
「え? ええ、まぁ、そんな所ですかね……鈍感」
「ん? 何か言ったか?」
「いいえ何も、ほら、いい景色ですよね先生。本当良い仕事しましたね」
「だろ? 下から見えないしこっからは丸見えだし監視にちょうど……ってなんだありゃ」
並んで石枠に座っていた師が身を乗り出して絶景を真下に覗き込む。
手拭いが落ちないように――落ちても構わないけど――気を付けながら隣に座った。
眼下にはクレモン渓谷を流れるブラン川の沿道を、小さな子供が走り抜けているのが見える。
悲鳴が左から右に抜けて、音の変化が届く頃には既に詠唱を終えていたヴァンが右手を翳した。
《ロックエッジ》――土精術のLv1と2を掛け合わせたそれは、
湯舟を構成する石枠の外側を薄くスライスするようにこそぎ取り、
キンッと響くように大菱の形を成して、緩やかに落下した。
ガンッガンッと至る所に衝突した鋭利な岩は、そこいらの岩肌を抉り取っては、
幾つかの落石となって、追っていたリザート系か何かの頭上に豪雨のように降り注いだ。
「ふぅ、一仕事したら腹減ったな」
そういって湯につかる師匠はあの頃から何も変わっていなかった。
最小限に最大の結果を生む事を考えながら、
過程も面白くないといけないという、歪んだ性格のままだった。
こういう所が好きだったのだ。やっぱり男は有能なだけじゃなくて、面白くないと。
「相変わらずやり方が雑ですよね……先生は。完全に下道が落石で塞がってますけど?」
「いんだよ、セントラル洞に行くような奴らが、あの程度の岩砕けなくてどうすんだ」
「そういう問題ですか……そういえばさっきの子、ヴィックに向かってましたけど、
放っておいていいんですか? 多分面倒な事になりますよ」
「トレインか? まぁ誰も見てなさそうだったし平気なんじゃねぇの?」
トレインは『引き連れる』という意味だ。
駆け出しが実力以上の獣と遭遇した時に起こりやすい現象で、特に町に引き連れた場合、
欠格や投獄もあり得る重大な犯罪行為である。
セントラル洞からヴィックまでは一本道ということもあって、起こりやすい地形ではあったが、
あんな小さな子供が往来するには相当レベル差があるようにも思う。
「先生子供好きじゃないですか……特に女の子、助けてあげないんですか?」
「俺を何だと思ってんだ……てか俺も急いでんだよ。レインフォールから休まずにここに来て、
セントラルを抜ける為に寄っただけだしな……そういやお前、この後暇か?」
せっかくだし飯でもどうだ? という誘いに、暇では無いけど乗ってしまう私なのだった。
***
「そういえば、さっきの子供見ませんね。大丈夫だったんでしょうか?」
「ん? うーん……ああ~そーだな……くぁぁぁっ 染みる!」
何かを誤魔化すように冷えたエールを、喉を鳴らして流し込む師に聞きたい事は沢山あった。
けど本当に聞きたい事は今更聞けないので、当たり障りない話に終始してしまう。
「ところで、さっきセントラルを抜けるって話でしたが、どこに行かれるんです?」
「あー……ちょっとセビリスまでな。今の俺じゃゲートを越えれねぇからここに直行したんだ。
モルアーノに抜けようと思ってんだがよ」
「それは幸運でしたね……もし央都に行ってたら多分捕まってましたよ」
「へ? なんでだ?」
「私も詳しく知りませんが……子供が攫われる事件が相次いでるとかで
商会が取り締まってるみたいです。確かロトリー商会ですね」
「有名な商会なのか?」
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聞いたことがあります、関わると巻き込まれるので私は近寄ってませんが」
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「元は生産ギルドの研究領から出来た領地ですからね。メルチェが居る間は……
そうそう、今はメルチェが生産統括をやってるんですよ。覚えてますか?」
「げ、マジか。覚えてるも何も……アイツに務まんのか? ヤバイだろ、あのアル中じゃ」
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5年経っても10年経っても成長しない彼女を、師はいつも複雑そうな顔で見ていた気がする。
「あれで結構上手くやってるようですよ。上が適当だと下がって……どうかしました?」
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いかにも含みがあるという表情で、彼は私から名前を取ったという現女王の名前を口にした。
彼女に関しては私にも上手く説明出来ないような感情が入り乱れている。
血の繋がっていない、なのに名が繋がっている若い女王は、私が直接勉学を教えた生徒でもある。
しかしそれとは別に、『私が手に出来なかった全てを手にした』ようなあの子――
フローラは、嫉妬の対象だったかもしれない。
かもしれないというのは私にも良く分からないからで、
子供が居ない私にとっては娘のような存在であったというのも、決して嘘では無い。
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