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第二部 擾乱のパニエンスラ
42.水都に舞踊る疑念
しおりを挟む王都フランシア――花と水の園と揶揄される、
自然と建築が調和した美しい都市の中でも、簡素な美しさを誇る王城の中庭。
庭師が掃き清めた石畳を女王フローラは静かに歩く。
オックスアイデイジーとアネモネが乱れて交わる荘園に一人、佇んで噴水を見上げ仰いだ。
最上部にある台座から吹き上がる清水が空中で弧を描いて落下し、飛沫が花々を薄く濡らす。
薄青のドレスを折り込んでしゃがみ、小さな蕾を優しく手に取って芳香を軽く確かめると、
フローラは久しく落ち着かなかった心が、あるべき所へ納まったような気がした。
「護衛、も、なし……に、動き回ら、ない方、が……良い」
たどたどしい口調で不意に声をかけのは、女王護衛の為に残った褐色の大男カイルだった。
「謁見場に座ってるだけじゃ気が滅入るの……それに、ここは城の中よ」
溜息交じり苦笑いを小さく浮かべ立ち上がり、ガゼボへ入ると音も無く椅子に腰をかけた。
無言で後を付いて歩き、テーブルの横に立ったカイルは表情を変えず再度静かに口を開く。
「言われ、れば、付い……て、いく」
フローラにとっても、それが実弟であり護衛兵長代理の指示であることは理解していたが、
初対面にも関わらず何の得にもならない命を忠実にこなしている青年が、
不思議で仕方なく、申し訳なさと同時に同量の息苦しさも感じていた。
「そうね……ごめんなさい。少し一人になりたくて……貴方も座ったらいかが?」
促されるままにカイルは腰を下ろすが、体格とあっていないようで白木が軽く軋む。
フローラは頬を緩め、ポットの中身をカップに注いで、カイルのソーサーにそっと置いた。
それから自らのカップを表に向けて、ポットの口を添え――手を止めた。
「どう、し……た?」
カイルの声に呼応するように、ゆっくりと注ぎ入れ、ポットを置いてカップに口をつける。
少し冷めた庭園製ハーブティーを含んで、選んだ言葉と共に喉底に落とした。
「貴方はエリアスと共に戦ってくれたと聞きました。皇女を捕らえた時にも尽力したと……
貴方は……彼女を……どうすべきだったと思いますか?」
「……解ら、ない」
「そう……」
吹き抜けの庭園から降り注ぐ日の光は柔らかく、穏やかな風が香りを載せてそよぐ。
フローラが確認したかった事はエリアスの主張と自身の決断、その正当性、妥当性であり、
それを寡黙な大男に問いかけても、きっと独り言になるのだろうと思いながら話を続ける。
「貴方は、どうしてエリアスについて行かずにここに残ったの?」
「解ら……な、い」
「そう。いえ、解らないのは私の方なの……
貴方がヴァン様に言われてここに来たことは、リコから聞いて知っているわ。
けど、だからと言ってずっとここに居る必要は無いのよ?」
エリアスに同行を依頼されたカイルが、王都に残る事を願い出たのは僅か1週間前の話だ。
少し悩む素振りを見せ不機嫌そうに女王護衛を指示したエリアスに、二つ返事で答えてから、
就寝以外のほぼ全ての時間でフローラの傍に控えるようになっている。
人を信用していない不遇の弟が何故初対面のカイルを信じたのか、それが分からなかった。
カイルの無表情の奥に灯る何かを、エリアスも感じ取ったのかもしれない。
「……似て、いる……か、ら」
そう答えたカイルの眼差しは少しだけ光を伴って見えた。虹彩が日差しを跳ね返したのか、
虚ろな心に何かが宿ったのかは解らないが、呟きに押されるようにフローラは口を開いた。
「似てる……って、どなたに?」
しかしその返事は帰って来なかった。
ほんの少し覗かせた深遠が再び暗い靄に包まれて行くのを感じ、フローラはカップを置く。
気遣いを含んだ話の中断を、察してか無意識か――カイルは答えた。
「何を、悩んで、いる」
「……私は……あの皇女を帰した事を間違っているとは――思っていない……の」
フローラは腕を組んで見据えるカイルから視線を外して、作業する見慣れぬ庭師を眺める。
「武器を捨てて……こちらから争う事を止めれば、お互い分かり合えるのではないかしら。
私は……誰にも傷ついてほしくないだけなの。エリアスにもリコにも……貴方にも、誰にも。
武器を持てば、向けられた相手はより強い武器を持つ。そして、また強い力が必要になる……
昔、母さんが言っていたことよ。私も……そうだと思う。同じことを繰り返すだけ……」
そこまで言うと、フローラは澄んだ碧玉を、カイルの奥深い瞳に映した。
「私は……間違っている?」
カイルはカップの中に揺蕩う黄金色の液体を、輝きを吸い込むように漠然と見つめた。
「純粋、だと、思う……が、現実……は違、う」
視点を戻さずに右手の軽い重みをテーブルに預けると、カイルは粛然と続けた。
「人、は、人より、豊か、になろう、と、する。それは、止め、られない」
「で、でもそれは――」
当然の権利。幸せを追求する人として当たり前の意思、
フローラはそう伝えようとしたが、カイルの二の句がそれを寸前で遮った。
「その、為、に……は、どんな、こと、で……もする」
椅子が床を擦る音と共に立ち上がったフローラが両手を付き、テーブルに自重を預ける。
「そんなことな――」
「――俺、が、そうだった」
フローラはその言葉の証明がカイルの背に刻まれている事を――思い出し、顔を伏せた。
既に塞がっている悪意の証が、今も尚彼自身を苛んでいて、何ひとつ癒えていない事を、
フローラはストンと腰を落として飲み込もうとした。
そして少しの静寂が流れた。
「この、傷は――幼……馴染、に、つけら……れた、もの、だ」
「ど、どうしてそんなこと……」
涙を浮かべ、差し伸べられたフローラの右手を、左手で優しく制して、カイルは続けた。
「アイツ、は……良い、奴だっ、た。それ、は、本当、だ……唯一……の親友だ……った。
それ、でも、人は、少しの富……一時の、欲の為に、容易く奪う。裏、切り、容易、に殺す。
抵……抗、しない、者、は嬲ら……れ、抵抗して、も、勝たなければ――虐げ、られ、る」
フローラは下ろした手を握りしめて震えながら、絞るように紡がれる言葉を追った。
「命、友……家族。何か、を、守りたい、なら――覚、悟を、持って、戦って……戦って、
そし、て、必、ず……勝た、ないと、いけ……ない。負け……たら、全……てを失う」
カイルは初めてフローラの目を真っ直ぐに見た。そして静かに続ける。
「それ、が、出来ず、に、生まれ……たの……が《奴隷》……だ」
突き付けられた灰色の現実と庭園の鮮やかな色合いが、まるで冗談のような相違を醸す中、
フローラは深く考えた。
考えて、思って、至って、それでもなお、答えを出せずに居た。
「そのお友達は……今は……」
「もう、いない」
「そう――」
ザッという、靴底が床を蹴る音と共に駈け込んで来た衛兵が、フローラの前に膝を付く。
「伝令です! 帝国軍がイベリスに侵攻! 街は……崩壊したとのこと!」
「な、なんですって!?」
不意に吹いた風に捕らわれた花びらは、螺旋を描いてフローラの胸中の何かを乗せ中庭へ、
そして王城の空へと舞い上がって消えて行った。
***
「……お待たせしてすみません。姉上」
「ごきげんよう。誰にも見られてないかしら?」
王都の中で唯一存在を認められた――というより黙認されている色街の底に、二人は居た。
深く被ったフードを捲り上げ、後ろで結び纏められた髪を流した――シェーラ・クィーンは、
自身の雇用主である――水精司教ソフィア・カトリートに、1枚の封書を手渡した。
周囲に浮かないように自然に小さな扉を潜ったソフィアは、封を切られた宛書を見つめる。
「リーゼからですか……中は確認しましたか?」
「はい。火急の事でしたので……弟から送られて来た封書をそのまま転送したようです」
「それで……リーゼは今どちらに?」
「急ぎパルベスへ向かわせました。どうやらオフェリアが巻き込まれたようです……」
「そうですか……ついに動き出したようですね」
封書の中身――事変を伝える急報は、長距離に阻まれて不確定な要素を多く含んでいたが、
それでもソフィアにはある程度の予想は付いていた。
先日女王フローラが教会を訪れて幼い独白をした時から、こうなる事は分かっていた。
「フローラは……不思議に思わなかったようです。
帝国の皇女たるものが何故王国の奥地、何も無いレインフォールに送り込まれたのか。
その不自然さを考えれば裏が見えますが」
「姉上……あの子は優しい子ですから。私はあのままで居て欲しいと思ってます」
「そうね。汚れ仕事は穢れた私達だけで良い。けど今のままだと……あの子は苦しむわ」
「……姉上のお考えは? この後どうなるとお思いですか?」
ソフィアは封書の中身を引き出して、書き殴られた癖のある文字を読んだ。
「ここには……イベリスに侵攻とありますが、恐らく街は既に崩壊しているでしょうね……
元老長がどうなったのかは分かりませんが、出来るなら消えて居て欲しいと思っています」
「そ、それは……私も同感ですが、そのような事になりますか?」
「この内容ではそこまでは分かりませんが、皇女を手引きしたのはあの御仁だと思います。
他にも居るかも知れませんが……今最も重要なのは、戦火を王都まで持ち込まない事です」
「と……言いますと?」
「すぐにリーゼに指示を。セビリスへ向かい、ガリバル隧道を……破壊するのです」
「そ、そんなことをすればエスパニから誰も逃げられなくなります!」
ソフィアは美しく整えられた睫毛を伏せて、封書を握りしめた。
「シェーラ。物事の優先順位を間違っては行けません」
「で、ですが、まだオフェリアの現状も掴めてません! リーゼが承諾するとは……」
「あの子なら大丈夫です。何とか脱出してくれると信じています。それよりも大事なのは、
フローラに争いの空気を微塵も感じさせないこと。その前に全てを排除することです」
「そ、それは……私も異論はありませんが。で、では私が代わりに――」
「――貴女には別の依頼があるでしょう」
別の依頼――それが《廃砦の捜索依頼》である事はシェーラにも、即座に理解は出来たが、
受注したばかり、重要度も低かった為に未報告だった依頼を、既に知っている事に驚愕した。
言葉が出ないシェーラを見て、ソフィアは悪戯めいた笑みを浮かべる。
「私はこれでも王都で最大会徒を抱える水精教会の司教なのよ? 眼はどこにでもあるの。
けど安心して……別に貴女に監視を付けてる訳じゃない。少し思う所があったのよ」
「は、はぁ……で、ですが、大した内容でもありませんし、別の者に行かせても――」
「――領主の所在不明が大したことじゃないって、貴方の貴族嫌いも相変わらずですね」
「あ、いえ、別にそういう意味では……」
「何よりターニュ領主ペイロア様といえばマルセル嬢の弟君で、気弱ですが温和な方です。
前領主に比べれば王都圏の領主に最適なお方。第一、あの廃砦が何か知っていますか?」
「はい? ターニュ砦と言えば、幻影大陸観測の為に建てられたと聞いていますが……」
「そうですね。ですが……今、あそこにはターニュの前領主と息子が幽閉されています」
「え!? そ、そんな話は一度も聞いた事が……」
「それはそうです。この件は官僚と教会しか知りません。辺境ですが農地もありますから、
補給もされませんし実質流刑と同じようなものです。周辺は危険ですから出られませんし」
「危険と言ってもシニアの戦人なら往来は可能なのでは?」
「シニア戦人ならそうでしょう。しかし彼等はただの腐った貴族でしかありませんから」
「た、確かに……それで、なぜそこまであの砦を気にかけていらっしゃるのですか?」
「分かりませんか? 帝国からレインフォールへ、飛距離の短い騎竜で到達する為には、
必ず海岸沿いを中継する必要があります。そして、恐らくその最終地点が――」
「――ターニュ砦! まさか帝国兵が今あそこに!?」
「例の政変で幽閉された彼等と元老長イサークは懇意でした。もっとも尻尾切りしたのも、
結局はイサークの画策ですが。議会への復帰を餌に協力させたと考えれば辻褄は合います」
「つまり……潜入自体がイベリス侵攻の為の……陽動、と言う事でしょうか?」
小さく頷いたソフィアが感じた僅かな違和感は、この時はまだその姿を現さなかった。
一連の動きが陽動では無いと気付いた時、後悔と疑念の大渦に巻き込まれる事となる。
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