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第四部 夢幻のレミニセンス
63.虎口を脱す大山猫
しおりを挟む火竜月の6日目――死角猪が己の闇を見つめ、大山猫が夜に輝く月環を見上げる頃――
エリアスとリアーナはレネ山中の断崖に立ち、眼下を左右に二分する深い谷を望んでいた。
数刻前、鐘声を掻き消す爆音で揺れたガリバル隧道は、避難坑で仮眠を取っていた二人と、
屋台で閑談していたオフェリアとベアを、落ちた天井で二分した。
崩落が収まり、互いの安否を確認した後、
隙間から手渡された鍵束を使い奥の扉を開けて、
壁掛けのランプを捩じり取り土砂で埋まった背後を顧みる暇も無く、通路を奥へと進んだ。
先は大きな縦穴に螺旋階段が続いており、炸裂音で鼓膜が破れたと錯覚する程の静寂の中、
無言で上へ――上へと昇り、
リアーナが灯した小さな光源を頼りに、ただただ歩き続けた。
岩肌をくり抜いた坑道を抜けると、辺りは遠吠えと月明りだけが沈黙を彩っていた。
「……どこだここは。辺りには何も無さそうだが……何の出口なんだ一体」
「私が知る訳無いでしょ……前に来た事は無いの?」
「エスパニなんぞに近寄るか。政敵の根城だぞ? まぁ……普通に考えてレネ山中だろ」
「レネ山……地名を言われても知らないけど。で、どっちに行けば良いの?」
「知るか。道なりに行けばどっかしら着くだろ」
「で……道ってどれ?」
リアーナが見渡す一帯は一面の山林で、歩道らしき物は何も見当たらなかった。
「……とりあえず進むしかないだろ。こんなのは大体まっすく進めば良いんだ」
「本当なのそれ……けど他に手も無いのよね。仕方ないから付いて行くわ」
「ふん……嫌ならそこで……おい、見ろ。何となくだが薄っすら道っぽくなってないか?」
エリアスが顎で指す先は、それこそ何となく木々の合間に獣道が
――見えなくも無かった。
「……ちょっと分かんないわね。まぁ行ってみましょ。ダメなら戻れば良いだけだし」
サクサクと枯葉を踏みしだいて数刻歩くと視界は突如として開けて――断崖絶壁が現れた。
吹き上げる風にオイルランプの火が揺れて風景と心情を波立たせる。
「ねぇ……どうすんのこれ。戻る?」
「戻ってどうするってんだ……他に道らしきものは無かったぞ?」
「そうよね……進める所を進んで来ただけだし……何か無いかしら」
崖際まで慎重に進み、ランプを前に出し深淵を覗き込むリアーナの後ろに付くエリアスは、
若干照らされた景色の奥に何かを見つけた。
「……なんか橋柱みたいな物が立ってるな。橋は……見当たらないが」
「エリアス! そこ! 足元見て!」
促されるまま蹲むエリアスの眼前には、絶壁を噛むような黒鉄具に鎖梯子が垂れていた。
「こんな物が……暗くて見えなかったのか。どこに続いてるんだ? 下が見えないぞ」
「分からないけど、他に道が無いなら降りてみるしかないんじゃないかしら?」
「よし、なら降りてみろ。一応落ちないように鎖は掴んでおいてやる」
「冗談でしょ? こういうのは男の仕事って決まってるのよ」
暫しの沈黙の後、エリアスはランタンを片手に、梯子に足を掛けた。
ジャラジャラと軋む橋桁は鉄鎖で結われており、体重を支えるのに強度は充分だった。
「……おい、リアーナ! 思ったほど高くはないぞ! お前も降りてこい!」
「本当!? 信じるわよ? って、暗いからちょっと真下照らしておいて!」
半信半疑で梯子を下りたリアーナが下層に着くまで、エリアスは周辺の探索をしていた。
「残念ながら橋は落ちてるようだな。切れたロープが壁に垂れ下がってた」
「そう……困ったわね。今はもう使われてない道なのかしら?」
「いや。引き上げてみたが、先端の千切れ具合が真新しい。落ちたのは最近だな」
「益々残念ね……とにかく、行き先が無いなら結局振り出しなんじゃないの?」
「そうでもない。岩壁を削った桟道みたいなのが下に続いているようだ」
「上に登っても仕方ないし、行ってみる……しかないのよね、これ」
「そうだな。ここで待っても助けが来る訳じゃない。行くぞ」
崖をくり抜き枕木を段に並べた斜面を降り続け、数刻――
岩壁に裂け目を見つけた時には、既に長角牛が地に伏す頃に差し掛かり、
二人の疲労は限界に達していた。
しかし、裂け目から洞内へと入って眼前に現れた狭路の急斜面を見た時の絶望に比べれば、
休めば自然回復する肉体疲労は精神のそれよりマシだろう。
「で……どうすんのよコレ」
「どうするって何がだ……」
「どう見たって人が歩いて昇れる角度じゃないわよ? 一方通行なんじゃないの?」
「……ならどうする? 戻って落ちた橋のロープで下にでも降りてみるか?」
冗談でしょという顔で入口と奥を交互に見るリアーナを余所に、エリアスは徐に靴を脱ぐ。
靴紐を剣帯に絡めて結び装備一式を地面に落とすと、面倒そうに立ち上がった。
「え? なに? 素足になってどうするのよ?」
「靴だと滑るだろうからな……嫌ならそこで寝てろ。気が向いたら迎えを寄越してやる」
エリアスが急斜路に両手を付くと同時に放たれたリアーナの溜息が、洞内に満ちた。
***
火竜月の6日目――死角猪が己の闇を見つめ、大山猫が夜に輝く月環を見上げる頃――
オフェリアとベアはイベル渓谷の断崖に立ち、眼下を左右に二分する長い河を望んでいた。
数刻前、鐘声を掻き消す爆音で揺れたガリバル隧道は、屋台で休憩し閑談していた二人と、
避難坑で仮眠を取っていたエリアスとリアーナを、落ちた天井で二分した。
「っつ……くっそ……んだこりゃ。おい、オフェリア嬢、無事か?」
「痛たたた……はい……な、何とか。一体何が起こったんですか」
「分からん……壁が倒れて天井が落ちて来た。咄嗟に屋台に引っ張り込んだが……」
「あー……見事にぺしゃんこですね……店は残念ですけど、運が良かったんでしょうか?」
「運ってよりは……こいつのお陰だな」
ベアはオフェリアに被さる態勢で、自身の背に迫る壁を押し留めている大盾を親指で指す。
そこには衝立のように地面と壁に刺さり悲鳴を上げるカイトシールドがあった。
「それ……って店の看板ですか? 盾だったんですね……けどよく折れませんでしたね」
「これな。この前……ほら、店先で揉めた? 兄ちゃんが強化してくれてたんだわ」
「揉めた……? あ、もしかして、ベアさんが許可申請に付いて行った露天商ですか?」
「どっかの細工師だっつってたっけな……それより王子達は大丈夫なんかね」
仰向けになりながら避難路への僅かな空洞に向かってオフェリアが咳き込む。
「んっ……コホッ、王子! 聞こえますか! ご無事ですか!?」
「……返事が無いな。怪我くらいで済んでりゃ……いや、待て――」
上目で静止したベアに釣られて崩れた天井を見上げたオフェリアは、避難坑への通路側に、
倒れた壁と落ちた天井の境に隙間を見つけた。
微かに届く音は聞き覚えのある声だった。
「王子! 声、届いてますか!? オフェリアです!」
『……夫か! こっ……無……!』
「何ですか!? よく聞こえません! 隙間があるので探してください!」
『……って……話だ! リア……そっち……うな……る?』
「ベアさん、まだ盾は保ちそうですか? もう少し近づいてみます」
「ミシミシ言ってっけど、もうちょいイけそうだ。けど時間はあんまないぞ」
軽く頷いて膝立ちしたオフェリアは壁灯で揺れる砂塵を手で払い、僅かな音の在処を探す。
隧道の角から押し寄せた土砂が圧し潰す壁と斜めに崩れた屋根の隙間に微かな光が見えた。
「……あ! ここです王子! Ego…spero,,,sprash!」
指先から生成した水を高圧で弾いたオフェリアは、眼前の細道を滑る球を見送った――
直後、ぐぷっと何かを踏み潰したような声が届く。
『ぺっ! おい! 何しやがる! 何だこの水は!』
「あー……あはは。気にしないでください。汚くは……ないはずなので」
触媒の無い水精術には体液が利用される。勿論そこに不純物は混じらないので汚くはない。
ただ使用者の体内から水分が失われ喉が渇くという欠点と、気分の問題がある。
『ったく……おい、そっちから壁か天井、どっちか動きそうか?』
「流石にこれは……下手に動かすと崩れるかも知れませんよ」
『ならどうするってんだ。このまま助けを待つってのか?』
「来るとは思えませんね。何か脱出手段……って、王子、そちら扉埋まってますか?」
『扉? ああ、避難のか。リアーナ! ちょっとそこ開けて見ろ! そう、その扉だ』
「こちらはこちらで何とかしますので、出れそうなら――」
『――あ、いや。ダメそうだ。鍵が閉まってるみたいだ』
「鍵ですか……避難路の意味が無いですね。持ってるとすればラウル様か……ラザレ様」
出来る限り焦りを見せずに考えるオフェリアに、盾を落石で固定したベアが手を伸ばす。
「コイツを渡してみろ。王子が連れてた衛兵の兄ちゃんが置いてったもんだが」
「……何ですかこれ? 変わった色の鍵ですね。形も変ですし……」
「俺も良く分からん。なんか疲れた顔して戻って来やがったから一杯飯食わせてやったら、
お礼につって置いて行きやがった。要らねぇつったんだけどな」
オフェリアが受け取った白い鍵束は、光沢の無い非金属の棒が二本だけぶら下がっていた。
鍵輪を指に掛け、腕を隙間に伸ばし、目一杯身体を瓦礫に寄せる。
「お……王子! 届きますか!? 手を伸ばしてください!」
『何だ!? こ、こうか……? くっ 届かないぞ!?』
「どうすれば……あ! 剣! 手に持って挿しこんで貰えますか!?」
『お前は一体何がしたいんだ!? くっそ……どうだ!?』
「えっと……いけそうです! 少し刃先を上……良いです! ゆっくり引いて下さい!」
鍵輪を切っ先に引っ掛け、手を引っ込めたオフェリアは汚れた袖を払った。
「落とさないでくださいね! 落としたらもう――」
忠告が終わるよりも早く僅かな隙間は自重で落ち、最後の接点を断ってしまった。
「ああ……間に合いましたかね。まぁ向こうは向こうに任せて……私達も何とかしないと」
「それなんだがな、微かに出口側から風が入ってる。こっちの崩落は薄そうだぞ」
「本当ですか? 確かにセビリス方面から崩れてましたし、出口は無事かもですね」
微かな希望を胸に、ベアとオフェリアは僅かな空間を頼りに瓦礫の整理を始めた。
***
「だぁぁぁぁ!! もおおおお! なんでこうなるかなぁああ」
「うるせえ!! 見つかるだろうが!!」
剣虎が牙を研ぐ頃、エスパニを深夜に脱したグレイドルとリーゼは一路西へとひた走った。
無人の林道は獣以外の声も無く、数刻移動を続けてダウンビレッジの東まで達していた。
「こ、こんだけ来ればもう充分でしょ! ちょっと休みましょう!」
「あん!? ったく……情けねぇ。まぁ……イケそうか。しゃーねえ」
周囲を見渡したグレイドルはポツンと鎮座する岩場の裏手に回って倒木に腰を掛けた。
「っかー、あちぃな。これだけ走りゃ……おい、水とか持ってっか?」
「ある訳ないでしょ! こんなことになるとは思って無かったんだから!」
「でけぇ声だすなっての。追手が来るかは知らんが見つかったら終わりだぞ」
「それは……って、何でアンタが隧道爆破すんのよ。私の仕事だったのに……」
「あ? 出来なかっただろ、どう見てもよ。俺ぁどうせお尋ね者だしな? 今更だろ」
「そういう……いえ、そうね。私には無理だったか。けど……なら私が逃げる必要ある?」
「知らねぇよ。オロオロしてっから付いて来いつっただけだ。自分で決めたんじゃねぇのか」
グレイドルの言う通り、リーゼには他に選択肢が無かった。
仮にあの場所に残っていたとしても、ラザレがグレイドルとの関係を追及していただろう。
そうなった時、上役からの指示、その出所、自身の職務、何ひとつ話せる事が無い。
黙秘を続けた場合に叔父が取る手段はそう多くない。身の安全を考え逃げるしか無かった。
少なくとも南エスパニから離れ管区外に脱出しなければ、闇に葬られる結末もあっただろう。
なぜなら――ラザレは『指示の内容』を『知った上』で『望んでいた』からだ。
「はぁ……とにかく何とかして河を渡らないと。トゥールまで行ければ……」
「丁度いいじゃねぇか。俺はアパビレから来たんだぜ?」
「来たって……どうやって渓谷を渡ったの? 橋なんて無いでしょ?」
「まー、そこは運次第って所もあっけどな。アイツが帰ってなきゃ平気だ」
「アイツ? 何の話? このまま進んでも行き止まりになるだけじゃ?」
「ゴタゴタ細けぇ事は良いんだよ。つか、アンタ体重は?」
「……は?」
眉間に皺を寄せたリーゼの眼光は、さしものグレイをも萎縮させた。
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どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
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