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2. いろいろ試してみたって、許可なしですか?

いろいろ試してみたって、許可なしですか? ①

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 待てど暮らせど起きる気配を見せない沙和。
 気が付いたら沙和の隣で佇んでいた日から、眠り姫は眠ったままだ。

 闘病生活を送ってきた沙和は、抜けるような白い肌をし、扱いを間違えたら折れてしまいそうに華奢だ。
 枕に広がる髪は、見た限りではセミロングで、赤身の強い茶色のストレート。
 そしてまだ一度として開かれていない瞼を縁取る睫毛は、お世辞でも長いとも豊かとも言えないが、それでも彼には “可愛い子” だと認識されている。
 そうあって欲しいだけなのかも知れないが。

(早く起きろよな)

 宙にふよふよ浮かんで、代わり映えしない沙和を見下ろし、彼女が目覚めた時のことを色々妄想すると、自然と顔がニヤつく。
 彼はコミュニケーションに飢えていた。
 誰も彼の存在には気付かない。

(いや。そうでもなかったか)

 この病院で亡くなった同胞とは、何度か出くわしている。場所柄、生死とは密接な所だから不思議でもない。
 生者に紛れて徘徊する姿に、彼は苦い笑みを浮かべた。
 現実と幻が交錯しているような、奇妙な世界。
 他人事のように傍観しているけれど、間違いなく彼も死者だ。
 意思を持って歩いている者もいれば、呆然と起ったことを理解出来ないまま佇むもの、彷徨う者と様々だ。
 中には質の悪い者もいて、側に引っ張り込もうとする者もいた。幸いと言うべきか、沙和の傍には彼がいたので、近寄って来るものは蹴散らしてやったが。

(俺が誰だか分かる前に、沙和に死なれたら厄介だし)

 人に訊かれたわけでもないのに、言い訳している自分が滑稽だ。
 でも現実問題として、彼女から離れられない以上、何かしらの取っ掛かりを掴まない事には、浮遊霊にもなれないし、成仏することも出来なさそうだ。
 彼を引き留める何か。
 沙和なら何かを知っているかもしれない、甘い期待。

(それにしても暇だなぁ)

 不成仏霊同士で話し合ったりしない。彼らの殆どは自分の心残りしか頭になく、他者の存在など気にも留めていないようだ。

(俺の心残りって、何だろう?)

 それすらも分からないで、ただここに意識体が存在する理由。
 手持無沙汰で、沙和の頬をツンツンしてみる。
 意識を凝らせば、躰を通り抜けずに触れられることに気が付いたのは、暇過ぎて死にそうだった二日目―――もう死んでいるけど。
 朝が来て、夜が来て、また朝が来る。
 一人遊びはもう飽き飽きだ。
 我慢の限界値を突破した記憶喪失の幽霊は、七日目にしてある試みを実行に移すことにした。


 ***


『静かだな』

 そう言ったのは、何でだか取り憑かれてしまった記憶喪失の幽霊。
 彼がここに居る経緯を聞いた沙和は、苦り切った顔で彼を見た。
 彼の期待通り、姿を見ることは出来る。けれど、誰だかまでは分からない。

 年の頃は、二十代前半だろうか。随分早くに亡くなったものだと、気の毒になる。
 軽やかな天然のウェーブがかかったミルクティー色の髪。やや眦が下がった二重の双眸は色素の薄い茶色で、羨ましいくらい睫毛が長い。鼻筋はスッとして高過ぎず低過ぎず、唇は素で口角が上がって笑みを象っている。

 生きている沙和よりも、余程血色がよく見えるのは気のせいだろうか?
 なんか色んな意味で悔しい。
 生前のままの姿であろう彼をやっかみ半分で見て、沙和は首を傾いだ。

(どこかで会った事があるような、親近感はあるんだけどなぁ)

 決して彼がイケメンだから言うのではない。
 普通、幽霊に取りつかれたら、まず恐怖を覚えそうなものなのに、寧ろほっとする雰囲気を持っている。

『どこで会ったか思い出してよ』
『気がするだけだし。それより、いちいち心の中読むの止めて』
『だったら声に出せば?』
『あんまり意味ない気もする』
『はははっ』

 笑って誤魔化す彼を軽く睨み、沙和は再び声を出そうと試みた。
 結果は同じ。
 口の中はカラカラだし、声帯からは空気の漏れる音ばかり。
 彼はふむと頷いて、『ちょっと待ってな』と電動リクライニングを起こし、沙和を座らせる。ずっと横になっていたから、体勢が変わって『ちょっと楽かも』と暢気な沙和の頭をポンポンし、それからベッド脇の棚の前にしゃがみ込んだ。一番下には小さな冷蔵庫が付いていて、そこからミネラルウォータを取り出す。

『このままで飲むのは無理か?』

 そう言って沙和の前でペットボトルを振って見せ、沙和が無理だと告げるよりも早く、誰かの悲鳴に掻き消された。
 声に驚いた二人が振り返った先には、一人の看護師が入り口で腰を抜かし、蒼白になってガタガタ震えている。
 二人同時に、看護師の視線の先に目を遣った。
 彼の手の中のペットボトル。

『無理ないね』
『だな』

 きっと看護師の彼女の目には、ペットボトルが宙に浮いているように見えていることだろう。

「…ぺ……ぺ……ッ」

 すっかり怯えて、言葉がうまく繰り出せないでいる。
 そうしているうちに人が集まり出した。これは非常にまずい。
 状況を説明するにも声は出ないし、こんな非科学的なことを目撃されているのに、うまく躱せる自信などない。
 万事休すかと、騒ぎの当事者に視線を送る。すると彼は『ちょっとゴメンね』と言って、またとんでもない事を始めようとしていると、気が付いた時には後の祭りだった。

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