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2. 残念美女、野獣に転がされる

残念美女、野獣に転がされる ⑥

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 引き戸の前に陣取った京平を躱して逃げ切るのは、どう考えたって無理だ。近付いた瞬間に、餌食になる未来しか見えなくて眩暈がする。
 躰がクラリと傾いだが、何とか足を踏ん張って堪えた。

(このままじゃ京平の思う壷じゃない。どうしたら……)

 今日まで連戦連敗でなければ、或いは、と思えただろう。けれど、選択肢の少な過ぎる状況では迂闊な事は避けるべきだ。
 瀬里に妙案もなければ、京平に衝く隙もない。まったく忌々しいことに。

 上目遣いで京平を睨む瀬里の唇から、無意識の舌打ちが漏れる。それを全く気にも留めていない京平が徐に服を脱ぎ出した。
 スウェットの下から現れた引き締まった上半身に、瀬里から喉が引き攣ったような悲鳴が漏れる。京平は感情の見えない一瞥を彼女に向けるとスウェットパンツに手を掛け―――瀬里は咄嗟に両手で顔を覆い、その場にしゃがみ込んだ。

 頭上を衣服が飛んで行く気配に、ゾッとした。
 家に男が六人も居たら、裸に遭遇する事故も稀に発生する。そう言う時は決まって『汚い物見せんじゃないわよっ!!』と逆切れした瀬里の攻撃を、被害者である兄たちが一身に受けるのが常だったりするのだが、そこはそれ。身内故の慣れだ。
 なので、非常に理不尽さを感じつつも、瀬里には男の裸に免疫がある。が、見たいか見たくないかと訊かれたら、決して見たいものではない。
 しかし。彼らの裸を見たところで、目が穢されたと憤っても、一日中不快感に見舞われたとしても、差し迫った危機を感じる事はない。目の前の男と違って。

(こ…この男に羞恥ってもんはないのかーっ! …………ある訳なかった……)

 あったら瀬里の家族の目も憚らず、ベタベタすることもないだろう。

(じゃない! なけなしの羞恥心を引き摺り出せやぁ)

 微塵もないかも知れない、そんな考えが頭を過る。いやいやと頭を振って打ち消そうとする瀬里の手首がむんずと掴まれた。

「…………ぅ…ぎゃぁぁぁぁぁ…んぐっ」

 引き上げられて、顔を覆っていた手が離れた。無意識に状況判断しようとした双眸が開かれ、瀬里にはない物体が視界を掠めていく。それが一体何だったのか、脳が理解するまで数秒。理解した瞬間、この世の終わりとばかりの絶叫が轟き、京平の胸に消えて行った。
 顔を押し潰すように抱きしめられ、腕の中でジタバタと藻掻く。

(し、死ぬ――――っ、顔ぉ、潰れるぅぅぅっ)

 この男の腕の中で窒息死だけは免れたいと、必死な瀬里の腰に今度は右腕が回され、ぐっと引き寄せられた。密着する下腹を擦りつけるような京平の動き。酸素を求めて藻掻く瀬里の反応が遅れたのは、どうしようもなかっただろう。
 彼女の頭を抑え込んでいた腕が弛み、耳朶に生温かい空気が触れる。京平の吐息交じりの微かな声が耳に忍び込んできて、反射で首を竦めながらも顔を上向けた。

「……ちょっと! 窒息するか…………や、放してっ」

 文句を言ってやろうと繰り出した言葉が、途中で怯えを含んだものに変わった。
 瀬里の下腹に当たってモゾモゾと蠢くモノが刻一刻と硬度を増し、彼女に熱と拍動を伝える存在に嫌でも気付かされた。それが何なのか、考えるだけで嫌悪と恐怖に襲われる。兎に角、京平から離れないとと彼の胸に手を当てて突っ張った。
 男の少し肌理の粗い肌の質感と隆起した筋肉の硬さが、瀬里の掌に伝わってくる。そして俄かに正気付く。

(このまま離れたら見たくないものが……でも、くっ付いてるのも気持ち悪い。あ、目を瞑ってればいいじゃん。ってそれじゃ逃げらんないじゃないっ。どっちにしても精神がガツガツ削られてく……どうしよぉ。なんか良い手……)

 瀬里が進退極まった事実に気が付いて、思考をグルグルさせていると、不意に溜息が耳に飛び込んだ。怪訝に眉を寄せて、左肩に顔を埋めている京平に怒りを刷いた目を向けた。

「はぁ……抱きてぇ。いいか?」
「いっ、いいわけないでしょっ」  

 ひっくり返った情けない声が出て、内心しまったと思いつつ平静を装う。京平はくすりと笑い、瀬里の額に口づけを落とすと「だよなぁ」小さくボヤいた。先刻まで頭を抑え込んでいた左手がぽすぽすと瀬里の頭を撫で叩き、彼女は引っ張った袖口でキスされた額を拭いながらちょっと安堵していたら爆弾が投下された。

「ゴムないしな」
「そーゆー問題!?」
「外出しでも俺は構わないんだが」
「あたしは構うわよ!」
「ん? 中出しオーケーってことか?」
「違うッ!」
「じゃ、素股で」
「だーかーらっ。なんでヤること前提なわけ!?」
「ヤるって瀬里の口から聞くと、ムラッとするな」
「するんじゃないっ!」

 京平との会話は疲れる、とガックリ肩を落とした。

(ゴリラと意思の疎通ができる飼育員には、心底尊敬するわ)

 こんな状態で、果たして三ヶ月も保つのだろうか。
 乾いた笑いが漏れて来る。

「……だから! なんで脱がそうとする!?」

 自分の世界にちょっと片足突っ込んでたら、京平がいそいそと脱がしに掛かっていた。慌ててトレーナーを引っ張り下ろすと、今度はハーフパンツに手が掛かる。それを渾身の力で阻止すると、やれやれとばかりに京平が肩を竦めた。

「だって濡れるだろ」
「いいわよ、濡れたって!」

 言ってから、しまったと思った。

(…………詰んだ)

 口元がひくっとする。
 ニヤリと笑った京平が「言ったな」と瀬里の腰に手を回して抱え上げた。

「言質取るまで長かったなぁ。どれ。しっかり洗ってくれよ?」
「いやぁぁぁぁぁっ」

 ジタバタ暴れる瀬里の背後で、扉の閉まる音が無情に響いた。  

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