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2. 残念美女、野獣に転がされる

残念美女、野獣に転がされる ⑬

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 ***


 遠くで呼んでいる声がする。

(……うる、さ……)

 声にイラッとするが、どうしても目が開かない。
 酷く怠い。
 全然疲れが取れていないのはどうしてだ、と虚ろな頭で考えたところで答えが見つかる筈もなく、抜けていない倦怠感と自分を呼ぶ声に憤りさえ感じる。
 瀬里を起こそうとしていた声が、何やら文句を言い出した。

(……誰だぁ……うるっ…さい、なぁ……こっちは、疲れて、んの……よ)

 うとうとしながら心中で文句を返しつつ、布団の中にもぞもぞと潜り込めば、傍を無遠慮に歩く気配がして、バンッと叩きつける音がした。途端に瀬里の目がパチッと開く。
 反射的に飛び起きて、辺りを見回した。

 窓が大きく開け放たれ、カーテンが揺れている。心地良い風が頬を撫で、無意識にその風を肺に深く取り入れると、瀬里は寝起きの強張った頬を緩めてふにゃりと微笑んだ。
 緩く癖のある茶色の髪の先を風に踊らせ、瀬里によく似ているけれど彼女よりも柔和で、中性的な面立ちの少年が柳眉を顰めて瀬里を見返していた。

「淳弥ぁ、おはよ~ぉ」

 窓辺でこちらを窺っている唯一の弟に、いつもの様に挨拶する。
 なのに。
 満面の笑顔で挨拶を返してくれる筈の弟は、渋面を作って深い溜息を吐くのだ。

(……な、ぜ?)

 何か淳弥を怒らせるような事をしてしまっただろうか?    
 ぼんやりした頭を必死に巡らせる。
 が、記憶にない。ないものの急に不安になる。 
 それが顔に出ていたのだろうか。淳弥がもう一度溜息を吐いて口を開いた。

「せっちゃんさぁ、服着てないの気付いてる?」
「え? ……え――――っ!? な、なんでっ!?」
「それ僕に訊く?」

 淳弥の指摘で我が身を見下ろして絶叫を上げた瀬里に、やれやれと言わんばかりに肩を竦めるが、尤もなのでぐっと言葉を呑む。確かに淳弥に訊くのは見当違いだろう。
 咄嗟に上掛けを引っ張って肩から包まった。

(なんでなんでなんで!?)

 混乱する余り、弟に裸を見られたショックや羞恥が念頭からぶっ飛んだ。
 目が服を探してウロウロする最中、飛び込んでくる情報に瀬里の顔色がだんだん悪くなる。どう見ても自分の部屋ではない。

「あ、あれ?」

 引き攣った笑みを浮かべ、こてんと首を傾げて淳弥を見た。

「せっちゃん、まだ寝惚けてる?」
「う……うん。そうかも。ここが何処だかわかんない」
「はあぁぁぁぁ」

 淳弥の心底呆れ返った溜息に瀬里は肩をビクリと竦めた。
 兄弟の中でただ一人例外で仲の良い弟から、そこはかとなく漂う見放された感が怖い。

(な、なぜだ? これはそんなにマズイ事なのか?)

 淳弥の憐れんだ眼差しに心臓がバクバクする。
 瀬里から離れた淳弥の視線を反射的に追いかけ、肩越しに振り返って一瞬息が止まった。追って変な汗が噴き出てくる。
 どうやら間違いなく拙かった……ようだ。
 半分魂が抜けかけてる瀬里を見て、淳弥の手がよしよしとばかりに頭を撫でる。

「京平先輩、何やらかしてんですか」
「何ってナニだろ」
「ナニって何っ!?」
「記憶がぶっ飛ぶほど気持ち良かったんだろ?」

 淳弥は開け放った襖のへりに寄り掛かっている京平に半眼で問い、何だか偉そうに返す京平。それに思わずツッコんでしまった瀬里に止めの台詞を吐いて、京平がニヤリと笑う。
 京平の赤い舌先がチロリと唇から覗いた。その仕草がやけに淫靡で、朝方の行為を思い出した躰が熱を持って疼く。無意識に膝を擦り合わせて、瀬里は愕然とした。

(や、やだ。何やってんのよ)

 思ってもみなかった躰の反応に、青くなっていいのか赤くなっていいのか。ぷるぷる震える瀬里を見て、京平が満足そうな笑みを浮かべて頷いている。

「先輩、手ぇ早っ」
「ん? 別に早くないだろ。苦節二年、ちょいか。充分我慢したと思うぞ?」
「いやいやいや。せっちゃんココ来て二十四時間経ってないし」
「殊、瀬里に関しては些細なチャンスも逃さない主義なんでな」
「そこは見逃しなさいよっ!」

 頬をヒクッと引き攣らせた淳弥のツッコミにも平然と、京平が腕を組んで踏ん反り返った。二十四時間経っていたらいいのか、という淳弥へのツッコミは取り敢えず脇に置いといて、枕投げと共に京平にツッコんだ。キャッチされて敢えなく終わったが。
 京平は枕をベッドの定位置に戻し、淳弥の肩に手を置いた。ぐっと顔を近付け淳弥の耳元で悪い顔をする。

「好きな女をモノにしたいってのは、当然の心理で本能で浪漫だ。淳弥も身に覚え有るだろ?」
「そ、そうだけど」
「淳弥の彼女、摂津子ちゃんっていったか? 彼女に一切の不埒な行為はしてないと、お前は言えるのか?」
「うっ……い、言えません」
「だろ?」
「ちょっと淳弥っ!? 簡単に懐柔されちゃダメ!」

 瀬里の悲鳴じみた批難に、淳弥はちょっとバツの悪い顔をする。そんな弟に「てか、摂津子ちゃんに手出ししたの!? いつの間に」と畳み掛けた。話の矛先をまんまと淳弥にすり替えた瀬里である。
 しかし。デリケートな話題に触れて欲しくないのはお互い様で。

「今は僕のことは関係ないでしょっ」
「あたしは最後までしてないもん……多分」
「多分? 多分って何?」
「多分は多分よ」

 途中から記憶が定かじゃないので、ごにょごにょした物言いになる。すると淳弥は半眼を京平に向けた。

「先輩?」
「おう。素股な素股。それより淳弥。時間いいのか?」
「そうだった! イレギュラーな事態にすっ飛んじゃってたよ」

 そう言って淳弥は出入り口に放置してあったショッパーを瀬里の前に突き出した。
 首を傾げて弟を見上げる。

「なに?」
「制服持って来た」
「なんで?」
「もしかして忘れてる? 編入試験」
「!!」
「その様子だとすっかり忘れてたみたいだね」
「やだ。行きたくない。転校なんかしない」

 上掛けをぎっちり巻き込んでそっぽを向く。
 断固拒否の態でいると頭上から淳弥の嘆息が降ってくる。ついチラ見したら、しょんぼりと肩を落とした姿が目に入って瀬里は呵責を煽られた。
 狡い、とボソリ呟く。
 恨めしげに弟を見上げるが、哀しげな眼差しに憤りがシュルシュルと萎んでいく。瀬里は昔からこの弟に弱いのだ。淳弥が幼稚園に入るまで、妹だと信じ込んでいたせいかもしれない。男の子のシンボルが付いていたにも拘わらず、だ。
 まあ一種の刷り込みである。
 淳弥が憂いを含んだ溜息を吐いた。

「はあぁ……。せっちゃんと、同じ高校通えると思って、僕は嬉しかったのに。せっちゃんはそうじゃなかったんだね」
「そんなことないよ。淳弥と同じ学校サイコー。小学校以来だもんねっ」
「だよね! はい。じゃあ早く着替えてね?」
「……あ、あれ?」

 チョロく丸め込まれた。
 唖然としている瀬里ににっこりと無邪気に微笑む淳弥。ずいっと差し出されたショッパーと弟を交互に見やって、徐々に瀬里の顔付きが渋くなる。
 共学というのは頂けないが、淳弥と同じ高校なのは吝かではない。
 しかし。
 同時に天敵とも一緒、というのがどうにも釈然としない瀬里である。
 ムムムッと淳弥を睨め付けていると、不意に横から腕が伸びてきて、あっという間に京平に拘束された。肩に掛けた上掛けを前でしっかり巻き込んでいたから、完全に動きが封じられた形だ。

「……ちょっとぉ!」
「お前ら仲良すぎだろ」

 抗議の声をサラッとスルーし、腕に閉じ込めた瀬里を淳弥の視界から隠すと、彼女の頭に頬擦り―――通り越して自分の頭まで擦り付けてくる。

(ま……マーキング?)

 京平が頭を擦り付ける様子は、所有を主張する匂い付け行為にしか感じない自分はきっと間違っていないと思う。
 尤も、同じマーキングと称されるキスマークよりは断然良いのだけど、どちらにしろイラッとするのは一緒だ。

「やめんか、鬱陶しい!」

 スリスリしている京平に頭突きを食らわせると、ちょっとビックリしたようで目を瞬いていた。
 淳弥は堪らずといった風情で吹き出して、慌てて口を押さえて顔を逸らしたけれど、肩は小刻みに震えている。その様子を見て、瀬里は少し安堵した。
 小さい頃から一緒に仕事をし、家族の誰よりも時間の共有をしてきた淳弥は、自他共に認めるお姉ちゃんっ子だ。当然、瀬里もそんな弟が可愛い。

(狭間家に出向が決まっても何も言わないから、淳弥にまで裏切られたのかと思ったじゃん。良かった良かった)

 しかし、笑ったのを快く思わない男は、腹いせで淳弥の脚を蹴り飛ばす。

「いたっ! ……くぅーっ。八つ当たり反対っ」
「ふんっ」

 脛を擦る淳弥を一顧だにしない京平は鼻であしらい、頭突きをかました瀬里の頭を撫でている。

「自分の頭撫でなさいよ」
「なんで? 打つけた所痛いだろ」
「平気だってば」

 包まっていた掛布から腕を抜き出して京平の手を払っても、しつこく構ってこようとする。揉み合っているうちに肩から掛布がハラリと落ちた。

「「「……」」」

 慎ましやかな二つの膨らみが露わになって、自然と三つの視線が注がれる。
 ニヤニヤしている京平と、あ~あと表情が語っている淳弥を見て、もう一回京平に目を戻すのと同時に、硬く握った拳を鳩尾目掛けて繰り出した。
 ヒラリと躱されたが、元より想定内。
 包まり直した掛布が落ちないようにしっかり手で押さえ、蹴りのラッシュで京平を部屋の外に追い出すと、すかさず襖をバチンと閉めた。
 襖の向こうで爆笑してるのが癇に障るが、この際細かいことは気にしない。

 くるりと踵を返し、苦笑している淳弥にニッコリと微笑む。再び差し出されたショッパーを渋々受け取って、中を覗き込んだ。クリーニングから返ってきたままの見慣れた制服を見て、吐くともなしに溜息が漏れる。

「やっぱ行かなきゃダメ?」
「行かなきゃ中退扱いじゃない? ママさん喜々として転校手続きしに行ったし」
「あ~~~ぁ」
「せめて高校くらいは卒業した方が良いんじゃない?」

 高学歴の家族の中で、中卒扱いは確かに少々肩身が狭いかも知れない。

(流石に高校中退はママさんが許す訳ないしなぁ。我を通そうとしたら、延々と泣かれそうだし。それはヤダなぁ)

 力が演劇に集中したいから高校に進学しないと言った時のことを思い出して、思い切り苦い顔になる。
 高本一家は総じて利加香に弱い。泣き落としが駄目なら篭城と、捨て身の作戦に出た母に敵うはずもなく、親兄弟の冷ややかな態度に力は早々に観念した。
 力と同じ轍は踏みたくない。
 とは言え、京平と同じ高校はどうにも気が進まないなぁ、と言外に淳弥を見ると彼は眉を聳やかした。

「学年違うんだし、一年我慢すれば先輩は卒業しちゃうんだから、僕と同じ学校行こ?」

 瀬里が包まる掛布をツンツン引っ張って、こてんと首を傾げる。
 こうしたら瀬里がお願いを聞き入れると、知り尽くした弟のあざとさに一言もの申したいところだが―――心の中で叫んだ言葉は『ちくしょーっ。うちの弟が可愛すぎる!』である。
 どうして妹じゃなかったのだろう、とこればかりは本気で神様を恨む。

「…………わかったわよ」

 不承不承答えたのに、淳弥に良い顔で微笑まれてふやけた笑みを返した。

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