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《1号室ー忘却少女と雀の悲劇 》

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 目を覚ますと、見知らぬ天井が目に入った。
 酷く気分が悪い。頭が割れるようにズキズキと痛む。汗で湿った服が肌に張り付き、更に最悪な気分だ。
 とにかく状況を確認しようとベッドから上半身を起こし、辺りを見回した。
 四角く白い部屋の中。黒いカーペットが敷かれ、小さなテーブルやチェストといった洋風な家具が置かれている。テレビや小さいテーブルも置いてあることから、どこかホテルの一室である事が分かった…のだが、私は自分の目を疑った。何度も見間違いでは無いかと思い、目を擦っては再びその光景を見る。
 普通、部屋の床に対して家具が置かれているのだが、どう見ても壁に刺さっていた。いや、壁どころか天井に逆さに置かれている物もある。というか、私がいるこのベッド自体が壁に張り付いている事に気がついた。それも何故かというと、すぐ隣の壁にカーペットが敷かれているからだ。

「あァぁ~…落ち着け私ィ。冷静に思いだせぇ……」

 悪夢でも見ているのだろう。
 俯いた顔に手を当てて、重たい頭を支えながら考える。
 私の名前は伊坂雀《イサカスズメ》。21歳の大学生で、家族構成は父と母、それと3歳下の妹がいる4人暮らしだ。
 確か昨晩は友達の家で飲み会をやって、帰る途中で…。

「…ダメだ。なんにも思い出せない……」

 友人の家から出た後の記憶が全くなく、昨晩の行動については何も思い出せなかった。それと、先程からずっと頭が痛いのは二日酔いのせいだろうか?次の日に響くほど飲んだ記憶は無いのだが…。症状といい。気分の悪さといい。十中八九二日酔いで間違いないだろう。

「うぅ~、頭痛い。み、水が欲しいぃ~…」

 気になることは多々あるが、今は頭が痛すぎてそれどころでは無い。とにかく喉が乾いた。ぐわんぐわんする脳ミソを正常な物と取り替えたい…。
 フラフラとした足取りでベッドから片足を出した所で、私は更に気がつく。冷蔵庫は、天井に逆さに張り付いている。
 どうやって冷蔵庫まで辿り着こうかと考えを巡らせるが、直ぐに辞めた。手を伸ばしたとしても天井までは届かないし、そもそもそんな事をする気力もない。
 なら、洗面所は無いかと部屋を見渡すが、それらしき場所はこれまた天井の隅に逆さに配置されていた。何か台になるような物があれば手が届くかもしれないが、前述したようにそんな事をする気力はない。
 ここまで考えた時点で床にバタリと倒れこむ。
 目の前にはアンティークの壁掛けランプがあった。まるでチューリップの花のように留め具から伸びた鉄の茎の先に付いているランプは、床と平行になるように設置されている。ここがちゃんとした壁だったら正しい向きになるが、生憎カーペットが敷かれている床が今は壁となっており、ランプが設置されている壁が床となっている。
 何が言いたいのかと言うと…適当な事を考えて居なきゃ頭が痛すぎて辛すぎるということだ。
 次第に視界が掠れていく。頭の痛みが薄れていき、思考にモヤがかかるかのようにボーッとしてきた。
 あぁ、私はこのまま死ぬのだろう。二日酔いで死ぬのかは分からないが、なんかそんな気がする。

「いいえ、それは脱水症状です」

「脱水症状かぁ…。なら死ぬかもしれない…え?」

 天から声が届く。
 ついに幻覚が聞こえ始めたと思ったが、その声は現実のものだった。

「その汗の量とその症状。二日酔いではなく熱中症でしょう。ワタクシは医者ではございませんが、とりあえずこれを飲んで頂ければ症状は和らぐかと」

 凛としたよく通る女性の声と共に、目の前に水と錠剤が乗せられたお盆が置かれた。水は分かるが錠剤は…痛み止めだろうか?一緒に出されたのだから飲めという事だろう。
 彼女の顔を見るよりも先に、言われるがまま錠剤を水で流し込む。コップ一杯の水であるが、これ程まで体に染み渡る飲み物を今まで味わったことは無い。そして、薬の効果はほんの数秒で現れた。先程まで頭が割れそうな程響いていた頭痛だが、まるで嘘だったかのようにスーッと消えて無くなった。

「まだ痛みますか?」

「え、嘘。凄い!もう痛みが無くなった!」

 信じられないくらい体が軽くなり、視界も物凄くクリアになる。
 私はその場で立ち上がり、初めて彼女の姿を確認した。
 シルクのように靡く長い白銀の髪。まるで人形のような小さな顔には金色の瞳がはめ込まれ、華奢な体を白黒のメイド服が包み込んでいる。小さな体だがスラリとした体つきに白く透き通るような肌で、薄紅色の唇が引き立っていた。

「どうかなさいましたか?」

 つい見蕩れてしまう程の美しさだ。だが、彼女の言葉で意識が戻される。
 可愛い。触りたい。肌がスベスベしてそう。いろんな洋服を着せてみたい…。
 心の中で欲望が幾つも浮かんでは消えるが、先ずは現実を確かめなければならない。

「み、水と薬をありがとうございます。あの…。ここはどこですか?」

 まだ理性はあったようだ。ちゃんと言うべき事が口から出てきた。
 私の言葉に、彼女は手を口に当ててコホンと咳払いをする。

「これは大変失礼致しました。では、改めてご挨拶です」

 彼女はそういうと長いスカートの裾を両手で摘み上げ足を交差させ、深く丁寧にお辞儀をした。全く無駄な動作がない可憐な所作に、私はまた目を奪われる。

「ワタクシの名前はジョセフィーヌと申します。当ホテル幽世館のメイドでございます。以後、お見知り置きを。イサカ スズメ様」

 上目遣いの彼女と目が合った瞬間、背筋に何かが走った。
 それが何なのかは分からない。嫌な予感とかいい予感とか、恐怖とか興奮とかそういった言葉では表せないような…。言うなれば、人間としての本能が何かを感じ取った。

「なんで、私の名前を知ってるんですか…?」

「それはもちろん、当ホテルのお客様ですので。お客様の名前を把握するのは従業員として当然でございます」

「ホテルに泊まった記憶が、無いのですが…」

「それはもちろん。皆さんその様におっしゃいます」

「この…。部屋がめちゃくちゃなのは?」 

「当ホテル自慢の部屋です。少々変わっていますが、内装は従業員でもお客様でもなくホテルが決めるもの。そのようにご了承ください」

「全然分からないんですけど…。じ、じゃあホテルならメイド服なのはおかしくないですか?」

「それはもちろん、アナタの好みに合わせた結果です」

「それは嬉しい。でも違うッ!」

「冗談ですよ」

 ジョセフィーヌは全ての問に眉一つ動かさずに答える。まるで、この異常な光景が当たり前であるかのように。
 何か他に質問したい事がある気がして、人差し指を意味もなく空中で回しながら考える。

「あっ、今は何時ですか?」

 無理やり捻り出したのは特に関係のない事だった。いや、時間の確認は大切だ。別に今日は大学休みだし、週末金曜だからって事で昨日は飲み会やったわけだけど、もしかしたら緊急の連絡があるかもしれないし。

「只今の時刻は7時3分です。…そういえば、お食事の準備が出来ている事を伝え忘れていました。宜しければいかがですか?」

「え、朝食ですか?」

 朝ごはんは食べない派だ。子供の頃から食べる習慣がなかったというのもあるけど、朝は食欲が湧いていないからだ。食べようとしても喉を通らないような感覚が嫌で今も朝を抜いている。断ろうとも思ったが、私の気持ちとは裏腹に腹の虫が大きく鳴った。

「…ホテルの案内も兼ねて、食堂の場所をお教えしましょう。無理にとは言いませんが、人間にとって食事は大事な行為です。パンを一口でも食べる事をオススメします」

「じ、じゃあいただきます…」

 何とか音を止めようとお腹を押さえるも、ずっとグーグー鳴いている。
恥ずかしすぎて今すぐ消えてしまいたい気分だ。とりあえず朝食を食べてさっさとチェックアウトしよう。だがその前に。

「この部屋からどうやって出るんですか?」

 床に壁掛けランプが設置され、壁にカーペットが敷かれ、天井には逆さに家具が置かれているこの室内。先程は気が付かなかったが、天井の家具の影に隠れるように扉がついていた。まさかあそこから出入りする訳ではないだろう。

「それは勿論、玄関からです」

 予感は的中した。彼女が指を指す先には先程見た扉がある。
 一体どうやってあそこから出るんだろうか?上から誰かがロープか何かを垂らしてくれるのだろうか?

「ワタクシが先に行きますので、合図をしたらその場でジャンプしてください」

 疑問を口にするよりも先に、ジョセフィーヌはその場で高く飛び上がり空中で綺麗に身を捻ると、そのまま天井へと落下する。
 長いスカートとシルクのような長髪が弧を描き、膝を折り曲げ勢いを吸収しながら華麗に着地する。無駄がなく、羽の様に軽やかな動きだ。そして何よりも驚愕したのは、天井に逆さに立っている事だ。

「さぁ、どうぞ」

「いやいやいやいやいやいや。それ軽く言う事じゃないでしょ!」

 何故彼女は『当たり前の事』であるかのようにサラりと言うのだろうか。目の前で起こった出来事は明らかに常識から逸脱している。
 この部屋がおかしいのは『そういった内装』とか『そういったデザイン』と言われれば納得出来るかもしれないが、人が重力を無視して逆さに立っていることだけは説明がつかない。見てた限りでは何か仕掛けがあるようには思えなかった。

「やはり無理がありましたか。では、壁を歩いて見てください。難しく考える必要はありません。言葉の通り、壁を歩いて、ここまで来てください」

 彼女の顔を見てれば冗談で言ってるのでは無い事が分かる。至って真面目に話しているのだろう。
 正直、いくら真剣に言われても壁を歩け何て困惑しかないのだが、彼女が冗談を言うような性格には見えないため、恐る恐る壁を踏みしめる。
 特に何かある訳でもなかった。ただ、まるでこの部屋自体が私の動きに合わせて回転しているかのように、壁を歩いていた。

「うそっ!?本当に壁を歩いてる!」

 先程まで床だった場所が壁となり、ランプが正しい向きになったかと思うと今度はベッドが壁に張り付いている奇妙な配置になった。
 私の体に何か不思議な力が宿っているわけではないのだろう。かと言って、重力が変わったとかそういう事でも無さそうだ。まるでそれが世界にとって『当たり前』であるかのように、私は壁を歩いて天井に足を踏み入れた。

「お疲れ様です。こちらは、サービスのドリンクです。先程まで冷蔵庫に入っていたので冷えてますが、温かい方がよろしかったでしょうか?」

 そう言われて渡されたのは、ペットボトルのお茶だった。良く見慣れた緑色のラベルには『緑茶』という文字が大きく書かれていた。
 正直、壁を歩いた実感が無さすぎてお茶の種類とか温度とかどうでも良すぎる。飲んだとしても今は味を感じる自信がない。
 ひとまずお礼を言ってお茶を受け取ると、彼女は「着いてきてください」といい、そのまま床に設置された扉をくぐった。
 恐る恐る扉に近づき中を除くと、白い壁が広がっていた。雰囲気から見るにここは廊下だろう。ジョセフーヌはすぐ手前の壁に立っている状態でこちらを見ていたが、私の状況を察したのか、こちらに近付き手を伸ばして来た。

「捕まってください」

「ありがとうございます…」

 扉を抜けた先から重力の向きが手前の壁へと変わる。慣れない感覚に苦戦するも、這いずるようにして何とか廊下に出て、冷静に周りを確認出来るようになりやっと正しい重力の向きになった事が分かった。ジョセフィーヌが立っていた場所は壁ではなく、正しく床だった。
 先程から自分が認識していることが全て疑わしい。夢にしてはリアルすぎるし、現実にしては常識外れだ。だが私が現状に疑問を持ったところで何かが変わるわけではないのだろう。今はただ、彼女を頼りに後をついて行くしかない。

「この場所は非常に迷いやすいので、離れずに着いてきてください。迷われると少々面倒なので」

「分かりました。気をつけます…」

 そんなに広いホテルなのだろうか?もしかして、私は酔った勢いでとんでもなく高い場所に宿泊してしまったのかもしれない。
 金銭面を考えて軽く血の気が引いた。高級ホテルだと一泊だけでも何万もする。そんな大金を学生が持ち歩いている訳もなく、支払えなくはないかもしれないがかなりの痛手となるだろう。

「あ、あのぉ…。お金の事なんですがぁ…」

 やはり金銭の事は先に言っておいた方がいいだろう。現状がよく分かっていない以上、少しでも先に問題を解決してしまった方がいいと思ったからだ。 ここで思い出したが、自分がどんな荷物を持っていたのか全く覚えがなかった。
 内心で焦りまくっている私を他所に、彼女は淡々と言葉を返してくる。

「お支払いについてでしょうか?当ホテルはお客様から金銭を一切受け取っておりませんので、ご安心ください」

「…え?」

 思いがけない答えに、思わず口から間抜けな言葉が出た。
 金銭を一切受け取ってない?そんな事が有り得るのだろうか?もしくは、別の対価を要求されるのかもしれない。

「疑問に思われるのは当然でしょう。このホテルの事情は少々特殊でして…。どうしてもと言われるお客様からは何かしらの対価を受け取ることもありますが、基本はご宿泊される全てのお客様に無料でホテル内の設備をご利用していただけることになっております」

「それって、食事もですか?」

「もちろんでございます。ちなみに、今日のオススメは━━━」

 不意に彼女は、廊下の曲がり角でピタリと足を止めた。そのまま動かずにどこかを黙って見ている。
 何となくだが、不機嫌そうにも見えた。

「どうかしましたか?」

「いえ、少しお見苦しいモノが見えたので…」

 妙に歯切れの悪い言葉が返って来る。先程出会ったばかりだが、私はその返答が彼女らしくないと感じた。
 一体あの先に何があるのだろうか。
 私も彼女が立っている場所まで足を進め、同じく視線を向ける。その先にあったのは、エントランスらしき空間の中央に集まる見たこともない小さな半透明の生物と、さらにその中心にいる着物姿の背の高い男性が、ボーリングのような遊びをしている光景であった。
 男性が真剣な表情でバスケットボール大の球を構えて転がすように投げると、綺麗に並べられたピンを全てなぎ倒した。その瞬間、半透明の生物たちがいっせいに『フォー!!!』という奇妙な鳴き声を上げた。

「よし!これで連続ストライクの記録更新だ!」

 各々が片手や両手を上げて…とにかく場は盛り上がっているらしい。
 別の意味で奇妙な光景に呆気に取られていると、いつの間にか目の前にいたはずのジョセフィーヌが男性の側まで近付き、その場で華麗なドロップキックを決めた。

「ぐほぁ!?」

 ヒールの踵が脇腹に綺麗に刺さり、そのまま男性は蹴り飛ばされてエントランスの奥へと転がって行き、壁に背中からぶつかった。

「な、何をするジョセフィーヌ…」

 腰を擦りながらヨロヨロと立ち上がる男性に、ジョセフーヌは毅然とした足取りで近づいて行く。
 まるでゴミでも見るかのような冷たい目だ。明らかに人に向けられる視線では無い。

「いえ。この場所には相応しくない物が見えたので、お客様にお見苦しい物体を見せてはいけまいと対処しただけです」

「その中に蹴り飛ばすという選択肢が入っているなら考えを改めた方がいい…」

「何度も口で言っているのに繰り返すのなら、直接体に叩き込んだ方が早いでしょう」

 彼女は深くため息をつきながら額に手を当てた。
 どうやら目の前にいる人物は悩みの種らしい。私もさっきの冷たい視線を向けられたいが、人としての何かを失いそうな気がしたので心にとどめておく。

「とりあえず何でもいいので、お客様にご挨拶をしてください」

 そう言ってジョセフィーヌは私の方へと視線を向ける。私の存在に気がついた男性は乱れた着物を整え、姿勢を正し、こちらに近づいて来た。
 背が高い…180cmくらいはあるだろうか?
 クセがついた、背中にまで届く長さの黒い長髪。前髪も鼻先までかかり、金縁の丸メガネの奥には酷いクマが出来たつり目と、じっとこちらを見つめる三白眼の黒い瞳があった。
 背筋にぞくりと悪寒が走る。
 まただ。先程ジョセフィーヌに見られた時と同じ感覚。
 緊張で体が強ばり動かなくなった。
 目の前で止まった男性は、片手を前に回し軽く頭を下げた。

「ようこそお越しくださいました。私の名前は幽世方 楓。当ホテル幽世館の支配人兼見習いでございます」

 これが私と彼の、初めての出会いだ。
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