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1・サンショウとハーブティー
サンショウとハーブティー・6
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翌日からは頑張って早起きするように心がけた。三人分の朝ごはんを作り、洗濯機を回し、保育園の仕度をして莉々子の仕度もして、自分の仕度もして、洗濯を干す。
莉々子を保育園に送り届けると、一日の仕事を終えたような達成感を覚えた。だけど一日は始まったばかりだ。
残業しなくてもすむように、猛然と仕事をこなし、帰ったら有麻と協力して食事を作り、莉々子をお風呂に入れ、寝かしつける。
目の前のことを必死でこなしているうちに、気がつけば週末が訪れていた。
温かな土曜日だった。午前中は家の掃除に精を出し、冷蔵庫の中のものでサンドイッチを作ると庭で遊んでいた莉々子に声をかける。
「ご飯だぞ、天気いいから外で食べよう」
「わーい、ピクニックだ」
離れのウッドデッキには、真鍮製のテーブルとイスがある。そこにサンドイッチの皿をならべ、コーヒーのポットとオレンジジュースも用意する。
庭の手入れをしていた有麻も席について、庭を眺めながらサンドイッチをつまむ。
春たけなわだった。ハナモモがピンク色の花で庭の一角を染め、レンギョウとユキヤナギの黄色と白、コニファーの表面は、金の粉を振りかけたように黄金色に輝いている。
芝は柔らかな黄緑色に輝き、レンガで囲まれた花壇には、スイセンやプリムラやヒヤシンスが並んでいる。コンテナの中にはパンジーやビオラが、フリルのついたドレスを着た少女のように咲き群れていた。
この景色を含めてここが、自分にとってのホームなんだなと思う。
花達はそれぞれに、胸をくすぐるようなささやきを交わし、時には小鳥のように美しい聲を聞かせてくれる。
サンドイッチを食べ終えた莉々子は、おままごとの続きを始めた。
「まりあ君、ユキヤナギのお花とってもいい?」
「ユキヤナギがいいって言ったらいいよ」
時々荒れ放題の庭の前を通りかかると、家主を罵るような聲を耳にすることもあったが、ここの庭で有麻への不満を聞いたことはなかった。有麻は植物の生長と健康を第一に考えて、剪定を行う。病気や枯れで太い枝を落とさなければならない時には、木を相手に懇切丁寧に事情を説明した。
もう有麻には、彼らの聲は聞こえないというのに……。
胸の底がひりりと痛み、有麻を視界に入れないように、莉々子の姿に目を向ける。
ユキヤナギに許可をもらった莉々子は、白い小さな花をプチプチと摘んで、お人形の髪を飾り立てていた。時々周りの花とおしゃべりしては、楽しそうに声を立てて笑っている。おもちゃのカップやお皿を置いて、どうやらティーパーティーを開いているらしい。
(やっぱりここで、莉々子を育てていきたいな)
庭の植物に囲まれて、伸び伸びと過ごす莉々子を見ていると、その思いが強くなっていく。
植物の聲が聞こえることは、決していいことばかりではない。秀治自身何度も厄介ごとに巻きこまれてきたし、それで傷つけられたこともあった。彼らも人と同じで、善ばかりではなく、悪も存在するのだ。
だからこそ莉々子には、今のうちにこの場所で味方を増やしてほしかった。彼らとの関わり方を覚え、距離の取り方を学んでいってほしかった。
(もし、雪乃が戻ってこなかったら……)
思わずそう考えた自分に、嫌気がさした。
雪乃からの連絡がないまま、一週間が過ぎてしまった。
恐る恐る雪乃の実家に電話して探りを入れてみたものの、雪乃が戻った気配はなかった。メッセージも相変わらず既読がつかないままだ。
(警察に、届けを出さなきゃならないかな)
いよいよ本気で、雪乃なしの生活を考えていかなければならないのかもしれない。
今の仕事をしながら子育てするのは、やはり負担だと感じていた。秀治の務め先は、社長を始めとした上の社員は昔気質の人間が多く、いまだに家事や育児は女性がするものだという考えにとらわれている。そういう風潮の会社で、子供の世話があるので帰りますとは言いにくい。
自分で喫茶店を開くのなら、それなりに時間も融通が効くのではないだろうか。会社に莉々子を連れて行くわけにはいかないが、お店なら邪魔にならなければ大丈夫だろう。
「莉々子、お散歩行こう」
日曜日も朝からいい天気だった。早々と洗濯を干し終えて、秀治は莉々子を連れて散歩に出かけた。
莉々子にはたくさんの知り合いの木がある。それらを一本一本巡り、花が咲いてるかどうか確認し、ちょっとした世間話をして、またねと手を振る。秀治も今日は腕時計をはずして、莉々子と木のおしゃべりにつきあった。
秀治は別段、木や花が好きなわけではない。だから彼らと話せる力が、さほどありがたいとも思わない。
だけど莉々子を見ていると、この力は神様からのプレゼントなのかもと思えてくる。莉々子にとっては、どこへ行っても友達がいるという感覚なのだ。しかもその友達は、その場所から動くことなく、自分を待っていてくれる。
秀治が願うのは、莉々子が力のことで傷つくことなく、この性質のまま真っすぐに育っていってくれることだ。
雪乃の理想とは、それはきっと相いれないものだ。
この町のメインストリートと言える、商店街の端へと二人は辿り着いた。秀治の散歩の目的は、かつて働いていた喫茶店を見ることだった。
もし、まだ空き店舗のままだったら……。その時は、店の持ち主であるマスターに会いに行こう。今更だけど、喫茶店をやらせてほしいと、掛け合ってみよう。
店が近づいて来る。莉々子と繋いだ手に、思わず力をこめてしまう。「痛い」と顔をしかめられ、「ごめん」と謝る。
見えたのは、店の前にはためくのぼりだった。釜茹でパスタ専門店、の文字が風にあおられ踊っている。店の前に立って、秀治はがっくりと膝をつきそうになった。店はガラリと雰囲気を変え、パスタ専門のレストランになってしまっていた。
「ダメだったか……」
「パパ、どうしたの? お店開いてるよ?」
「いや、いいんだ。食べに来たわけじゃないから」
気落ちしたまま家に帰ると、有麻がパスタを茹でていた。
「何で、パスタなんだよ!」
思わずきれてから、八つ当たりしてどうすると我に返る。
「パスタ嫌いだったか?」
「悪い。気持ち的に嫌いになっただけだ。食べるのは平気だ」
冷凍しておいたというトマトで、ソースもできていた。
「夏場だったら、庭のバジルをたっぷり載せられるんだけど、今日はなしだ、はいどうぞ」
御園生の庭の隅には、ちょっとしたハーブ園もあり、そこでバジルも採れるのだ。
ホカホカと湯気の上がるパスタには何の罪もないので、ありがたくいただくことにする。
「トマトって冷凍すると、皮を剥くのが楽なんだよ。冷凍したほうが、すぐに煮こめるし」
「へえ、知らなかった」
「それで、パスタを何で嫌いになったんだ?」
秀治は真っ赤になった莉々子の口を拭いてやっているところだった。放っておくと、おもしろがって秀治の服で拭いたりするのだ。
「例の喫茶店、パスタ屋になってた」
「ああ、そういえば、オープンのチラシを見た気がするな。あそこだったのか」
二口分パスタを口に運ぶ間が開いて、有麻が言った。
「ずいぶん、がっかりしてるみたいだな」
「まあな」
「そんなに、やりたかったか。喫茶店」
「何か、わーっと一人で盛り上がっちゃっただけだよ」
「やりたいんなら、離れが空いてるよ」
「は……なれ?」
思いがけない言葉に、秀治の思考はついていかない。
「もともとガーデンパーティ用に作られたところだから、ドアはついているし、ウッドデッキもある。厨房設備はないけど、それくらいの投資は覚悟してるだろ」
ゆるゆると、秀治の思考も回り始めた。確かに有麻の言うとおりだ。離れならカフェをやれる程度の広さがあるし、テラス席も作れる。ここの庭を眺めながらお茶を飲めるというのは、それだけで付加価値がある。
「いいのか? 他人が家の敷地に入ってくるってことだぞ」
「庭の木や花には触らないよう、禁止エリアには入らないよう、お客さんに徹底してくれ。それができるなら、いいよ」
いつの間にか空になった皿を前に、秀治は考え続けた。本当にやれるのかどうか。夢物語で終わらせるのではなく、現実的に実現可能かどうか。
建物は内装と設備工事が必要だろう。裏口をカフェの入り口にすれば、母屋のエリアへ客が行くこともない。
離れにはテーブルがまだ残っているので、手入れすれば充分に使えるだろう。棚の中には食器類もあったはずだ。
お世話になったマスターは、アルバイトの秀治に社会勉強と言って、ひと通りの店の経営について教えてくれていた。メニューの価格の決め方や、どこで利益をあげるべきかも秀治は知識として知っている。
店のメインとなるコーヒー豆は、マスターが懇意にしていた焙煎工房から仕入れればいい。だけどコーヒーだけでは、お客は呼べない。
フードメニューを充実させるか。しかし秀治が自信を持って出せるのは、無水トマトカレーだけだ。他にできるのは、ホットサンドくらいだろうか。
「はい、食後のお茶だ」
フワリと湯気を立てるお茶のカップを、有麻が置いていってくれる。何気なく口をつけた秀治は驚いた。
「これ、ハーブティーか?」
「そう、カモミールティー。後、他にも何かブレンドしてるって言ってたかな」
「苦くない。おいしい」
「ブレンドの仕方がいいのかな」
「お前が作ったのか? これ」
「いや、違う。ご近所にハーブを育てて、自分でハーブティー用のブレンドを作っている人がいるんだよ。ハーブの育て方で相談に乗ってたから、これはそのお礼でもらったハーブティーだ」
まるで天啓のようだと思った。店のメニューに悩んでいるところに、このハーブティーを差し出されるなんて。
「他にも、種類はあるのかな」
「ローズヒップとかも扱ってたと思うけど」
「ちょっと、その人を紹介してくれないか?」
ガバッと立ち上がると、オレンジジュースを飲んでいた莉々子が、驚いたように秀治を見上げた。
「え、まさか、今から?」
「約束入れないと、会えないような人か?」
「いや……、どっちかというと、何も言わずに行ったほうがまだ会えそうな気もするけど」
「よし、じゃあ行こう。近所なんだろ?」
「ちょっと待て、秀治。まず、何をするつもりなのか教えてくれないか?」
「ああ……」
頭がカフェのことでいっぱいになっていた秀治は、有麻の言葉でふいに冷静になった。
「カフェのメニュー考えてたんだ。コーヒーメインにするにしても、目玉に何か欲しいだろ。この庭の景色にハーブティーって、すごく合うと思ったんだ。ハーブティーって、薬みたいなイメージがあったんだけど、これはリンゴみたいな香りがして、かすかな甘みもあって、すごくおいしいと思った。これを、店で出したい」
「ならそれを、そのまま柴田さんに伝えてみろ。気難しい人だから、一筋縄じゃ行かないと思うけど」
柴田隆というのが、その人の名前だった。
莉々子を保育園に送り届けると、一日の仕事を終えたような達成感を覚えた。だけど一日は始まったばかりだ。
残業しなくてもすむように、猛然と仕事をこなし、帰ったら有麻と協力して食事を作り、莉々子をお風呂に入れ、寝かしつける。
目の前のことを必死でこなしているうちに、気がつけば週末が訪れていた。
温かな土曜日だった。午前中は家の掃除に精を出し、冷蔵庫の中のものでサンドイッチを作ると庭で遊んでいた莉々子に声をかける。
「ご飯だぞ、天気いいから外で食べよう」
「わーい、ピクニックだ」
離れのウッドデッキには、真鍮製のテーブルとイスがある。そこにサンドイッチの皿をならべ、コーヒーのポットとオレンジジュースも用意する。
庭の手入れをしていた有麻も席について、庭を眺めながらサンドイッチをつまむ。
春たけなわだった。ハナモモがピンク色の花で庭の一角を染め、レンギョウとユキヤナギの黄色と白、コニファーの表面は、金の粉を振りかけたように黄金色に輝いている。
芝は柔らかな黄緑色に輝き、レンガで囲まれた花壇には、スイセンやプリムラやヒヤシンスが並んでいる。コンテナの中にはパンジーやビオラが、フリルのついたドレスを着た少女のように咲き群れていた。
この景色を含めてここが、自分にとってのホームなんだなと思う。
花達はそれぞれに、胸をくすぐるようなささやきを交わし、時には小鳥のように美しい聲を聞かせてくれる。
サンドイッチを食べ終えた莉々子は、おままごとの続きを始めた。
「まりあ君、ユキヤナギのお花とってもいい?」
「ユキヤナギがいいって言ったらいいよ」
時々荒れ放題の庭の前を通りかかると、家主を罵るような聲を耳にすることもあったが、ここの庭で有麻への不満を聞いたことはなかった。有麻は植物の生長と健康を第一に考えて、剪定を行う。病気や枯れで太い枝を落とさなければならない時には、木を相手に懇切丁寧に事情を説明した。
もう有麻には、彼らの聲は聞こえないというのに……。
胸の底がひりりと痛み、有麻を視界に入れないように、莉々子の姿に目を向ける。
ユキヤナギに許可をもらった莉々子は、白い小さな花をプチプチと摘んで、お人形の髪を飾り立てていた。時々周りの花とおしゃべりしては、楽しそうに声を立てて笑っている。おもちゃのカップやお皿を置いて、どうやらティーパーティーを開いているらしい。
(やっぱりここで、莉々子を育てていきたいな)
庭の植物に囲まれて、伸び伸びと過ごす莉々子を見ていると、その思いが強くなっていく。
植物の聲が聞こえることは、決していいことばかりではない。秀治自身何度も厄介ごとに巻きこまれてきたし、それで傷つけられたこともあった。彼らも人と同じで、善ばかりではなく、悪も存在するのだ。
だからこそ莉々子には、今のうちにこの場所で味方を増やしてほしかった。彼らとの関わり方を覚え、距離の取り方を学んでいってほしかった。
(もし、雪乃が戻ってこなかったら……)
思わずそう考えた自分に、嫌気がさした。
雪乃からの連絡がないまま、一週間が過ぎてしまった。
恐る恐る雪乃の実家に電話して探りを入れてみたものの、雪乃が戻った気配はなかった。メッセージも相変わらず既読がつかないままだ。
(警察に、届けを出さなきゃならないかな)
いよいよ本気で、雪乃なしの生活を考えていかなければならないのかもしれない。
今の仕事をしながら子育てするのは、やはり負担だと感じていた。秀治の務め先は、社長を始めとした上の社員は昔気質の人間が多く、いまだに家事や育児は女性がするものだという考えにとらわれている。そういう風潮の会社で、子供の世話があるので帰りますとは言いにくい。
自分で喫茶店を開くのなら、それなりに時間も融通が効くのではないだろうか。会社に莉々子を連れて行くわけにはいかないが、お店なら邪魔にならなければ大丈夫だろう。
「莉々子、お散歩行こう」
日曜日も朝からいい天気だった。早々と洗濯を干し終えて、秀治は莉々子を連れて散歩に出かけた。
莉々子にはたくさんの知り合いの木がある。それらを一本一本巡り、花が咲いてるかどうか確認し、ちょっとした世間話をして、またねと手を振る。秀治も今日は腕時計をはずして、莉々子と木のおしゃべりにつきあった。
秀治は別段、木や花が好きなわけではない。だから彼らと話せる力が、さほどありがたいとも思わない。
だけど莉々子を見ていると、この力は神様からのプレゼントなのかもと思えてくる。莉々子にとっては、どこへ行っても友達がいるという感覚なのだ。しかもその友達は、その場所から動くことなく、自分を待っていてくれる。
秀治が願うのは、莉々子が力のことで傷つくことなく、この性質のまま真っすぐに育っていってくれることだ。
雪乃の理想とは、それはきっと相いれないものだ。
この町のメインストリートと言える、商店街の端へと二人は辿り着いた。秀治の散歩の目的は、かつて働いていた喫茶店を見ることだった。
もし、まだ空き店舗のままだったら……。その時は、店の持ち主であるマスターに会いに行こう。今更だけど、喫茶店をやらせてほしいと、掛け合ってみよう。
店が近づいて来る。莉々子と繋いだ手に、思わず力をこめてしまう。「痛い」と顔をしかめられ、「ごめん」と謝る。
見えたのは、店の前にはためくのぼりだった。釜茹でパスタ専門店、の文字が風にあおられ踊っている。店の前に立って、秀治はがっくりと膝をつきそうになった。店はガラリと雰囲気を変え、パスタ専門のレストランになってしまっていた。
「ダメだったか……」
「パパ、どうしたの? お店開いてるよ?」
「いや、いいんだ。食べに来たわけじゃないから」
気落ちしたまま家に帰ると、有麻がパスタを茹でていた。
「何で、パスタなんだよ!」
思わずきれてから、八つ当たりしてどうすると我に返る。
「パスタ嫌いだったか?」
「悪い。気持ち的に嫌いになっただけだ。食べるのは平気だ」
冷凍しておいたというトマトで、ソースもできていた。
「夏場だったら、庭のバジルをたっぷり載せられるんだけど、今日はなしだ、はいどうぞ」
御園生の庭の隅には、ちょっとしたハーブ園もあり、そこでバジルも採れるのだ。
ホカホカと湯気の上がるパスタには何の罪もないので、ありがたくいただくことにする。
「トマトって冷凍すると、皮を剥くのが楽なんだよ。冷凍したほうが、すぐに煮こめるし」
「へえ、知らなかった」
「それで、パスタを何で嫌いになったんだ?」
秀治は真っ赤になった莉々子の口を拭いてやっているところだった。放っておくと、おもしろがって秀治の服で拭いたりするのだ。
「例の喫茶店、パスタ屋になってた」
「ああ、そういえば、オープンのチラシを見た気がするな。あそこだったのか」
二口分パスタを口に運ぶ間が開いて、有麻が言った。
「ずいぶん、がっかりしてるみたいだな」
「まあな」
「そんなに、やりたかったか。喫茶店」
「何か、わーっと一人で盛り上がっちゃっただけだよ」
「やりたいんなら、離れが空いてるよ」
「は……なれ?」
思いがけない言葉に、秀治の思考はついていかない。
「もともとガーデンパーティ用に作られたところだから、ドアはついているし、ウッドデッキもある。厨房設備はないけど、それくらいの投資は覚悟してるだろ」
ゆるゆると、秀治の思考も回り始めた。確かに有麻の言うとおりだ。離れならカフェをやれる程度の広さがあるし、テラス席も作れる。ここの庭を眺めながらお茶を飲めるというのは、それだけで付加価値がある。
「いいのか? 他人が家の敷地に入ってくるってことだぞ」
「庭の木や花には触らないよう、禁止エリアには入らないよう、お客さんに徹底してくれ。それができるなら、いいよ」
いつの間にか空になった皿を前に、秀治は考え続けた。本当にやれるのかどうか。夢物語で終わらせるのではなく、現実的に実現可能かどうか。
建物は内装と設備工事が必要だろう。裏口をカフェの入り口にすれば、母屋のエリアへ客が行くこともない。
離れにはテーブルがまだ残っているので、手入れすれば充分に使えるだろう。棚の中には食器類もあったはずだ。
お世話になったマスターは、アルバイトの秀治に社会勉強と言って、ひと通りの店の経営について教えてくれていた。メニューの価格の決め方や、どこで利益をあげるべきかも秀治は知識として知っている。
店のメインとなるコーヒー豆は、マスターが懇意にしていた焙煎工房から仕入れればいい。だけどコーヒーだけでは、お客は呼べない。
フードメニューを充実させるか。しかし秀治が自信を持って出せるのは、無水トマトカレーだけだ。他にできるのは、ホットサンドくらいだろうか。
「はい、食後のお茶だ」
フワリと湯気を立てるお茶のカップを、有麻が置いていってくれる。何気なく口をつけた秀治は驚いた。
「これ、ハーブティーか?」
「そう、カモミールティー。後、他にも何かブレンドしてるって言ってたかな」
「苦くない。おいしい」
「ブレンドの仕方がいいのかな」
「お前が作ったのか? これ」
「いや、違う。ご近所にハーブを育てて、自分でハーブティー用のブレンドを作っている人がいるんだよ。ハーブの育て方で相談に乗ってたから、これはそのお礼でもらったハーブティーだ」
まるで天啓のようだと思った。店のメニューに悩んでいるところに、このハーブティーを差し出されるなんて。
「他にも、種類はあるのかな」
「ローズヒップとかも扱ってたと思うけど」
「ちょっと、その人を紹介してくれないか?」
ガバッと立ち上がると、オレンジジュースを飲んでいた莉々子が、驚いたように秀治を見上げた。
「え、まさか、今から?」
「約束入れないと、会えないような人か?」
「いや……、どっちかというと、何も言わずに行ったほうがまだ会えそうな気もするけど」
「よし、じゃあ行こう。近所なんだろ?」
「ちょっと待て、秀治。まず、何をするつもりなのか教えてくれないか?」
「ああ……」
頭がカフェのことでいっぱいになっていた秀治は、有麻の言葉でふいに冷静になった。
「カフェのメニュー考えてたんだ。コーヒーメインにするにしても、目玉に何か欲しいだろ。この庭の景色にハーブティーって、すごく合うと思ったんだ。ハーブティーって、薬みたいなイメージがあったんだけど、これはリンゴみたいな香りがして、かすかな甘みもあって、すごくおいしいと思った。これを、店で出したい」
「ならそれを、そのまま柴田さんに伝えてみろ。気難しい人だから、一筋縄じゃ行かないと思うけど」
柴田隆というのが、その人の名前だった。
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