妻が家出したので、子育てしながらカフェを始めることにした

夏間木リョウ

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3・桐とタルト

桐とタルト・10

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 お茶会も終わり、引き上げようとしたところで秀治は、克也が桐の切り株のそばに佇んでいるのに気がついた。
 有麻がそうしたように、克也もまた在りし日の桐の木の姿を追うように、空へ目を向けている。秀治の姿に気づくと、上を指さした。
「毎年五月になると、花をつけていたんですよ。この桐の木」
 秀治はうなずく。
「家の屋根よりも高いところに花をつけてね、藤よりも少し濃い紫色で、きれいなものでした」
 桐の花は秀治も知っている。ずいぶん高い位置で咲くので、近くよりも遠くからのほうが目につく花だ。
「人の気持ちって、わからないものですね。私は有麻さんに言われるまで知りませんでした。お袋が桐の木を植えた理由も、妻の本当の気持ちも」
「近くにいると、意外と見えないものですよ」
 秀治も空に視線を向けて、見えない桐の花を見ようと試みる。
「桐の花って、近くより遠くからの方が気づきやすいじゃないですか。そういうものじゃないですかね」
「ああ……なるほど」
 秀治はさりげなく、桐の切り株に手を触れる。腕時計ははずしている。
 今日のできごとに満足したのか、桐の木は何の言葉も発しなかった。本来の形とは違っても、祥子の役に立てることには変わりないのだから。
 祥子に与えられたのは、きっかけだけだ。
 それを元に歩き出せるかどうかは、祥子しだいなのだ。

 開店パーティまでの一週間。秀治はカフェ開店のための最終準備に追われていた。
 レジの操作の確認、電子マネーやクレジット決済の処理方法。コーヒー豆の焙煎工房とも打ち合わせを重ね、店オリジナルのブレンドコーヒーが出来上がった。
 庭にはお客さんが入れる場所を決め、景色の邪魔にならないように、小道の両脇にガラス製の星の飾りのついたポールを立てた。そこより先は立ち入り禁止の旨と、花や木には触れないように、芝生と小道以外には踏みこまないようにという注意書きを、店内に貼り出しておく。
 そして土曜日。開店パーティの日がやって来た。
 秀治は朝ごはんも食べずにカレーの仕こみと、スコーンを焼く作業をしながら、テーブルの上を整えていく。今日は立食パーティなので、テーブルは店の真ん中にまとめて、お客さんが好きに料理を取れる形にする。ウッドデッキへのガラス戸は開け放し、デッキに直接座れる形にしてあった。
 開店時間が近づいて来ると、お世話になっている人達が庭へと入って来る。ハーブティーを卸してくれる柴田さん、コーヒー焙煎工房の店主、秀治の師匠とも言えるバイトをしていたカフェの元オーナー。
 お客様を入り口で迎えるのは、莉々子の仕事だ。レモン色のワンピースでおしゃれして、今日は特別にツルバラの小花で冠を作り、頭に飾っている。お客様に口々に服と冠をほめられて、莉々子はご機嫌だ。
 お客様を迎えてあいさつやら飲み物の準備をしながら、秀治は絶えず庭の入り口を気にしていた。
 祥子はお菓子を持ってきてくれるだろうか。雪乃は来てくれるだろうか。
 開店時間が過ぎ、近所の方々もチラシを手に訪れて来た。今日はスコーンだけで乗り切るしかないかと、心でため息をついた時だった。
 どこかで車のドアの閉まる音がした。秀治と同様に庭の小道の先を気にしていた有麻が、何かに気づいたように駆け出す。
 しばらくして、小道から現れたのは祥子だった。余程慌てているらしく、長い髪のあちこちに小道のそばに咲いているコデマリの花びらをつけている。
「す、すみません。久しぶりで、やっぱり手際が悪くて、遅れてしまいました」
 秀治はまずは祥子の手にしたケーキ箱を受け取った。今にも箱を引っ繰り返しそうな慌てようだったからだ。
「大丈夫ですよ。まだ始まったばかりですから」
 祥子に続いて克也、有麻とがそれぞれケーキ箱を手にして庭に入って来る。
 入口から店内に足を踏み入れた祥子は、カフェの内装と、そこから見える庭の景色とに目を輝かせた。秀治も芝生の向こうに目をやる。
 梅雨が始まる前のこの時期の庭が、一年で一番美しいと秀治は思っている。
 カフェの開店に合わせたように、ツルバラは満開となっていた。生垣を覆うように小ぶりなモッコウバラがクリーム色の花をつけ、薄紅や薄紫色のツルバラが花壇の後ろで存在感を示している。カーブしながら表の門の方へ伸びていくレンガの小道沿いには、キャットミントが涼し気なブルーの花を揺らし、レースのようなオルラヤの花と柔らかな緑の葉が作る景色は、どこかの国のいなかの風景を切り取ったようだ。
「素敵なお店……。こんな景色を見ながらお茶が飲めるなんて、贅沢ですね」
 祥子のもらした言葉に、ご近所のかたがたもうなずいてくれる。
「そうそう。生垣越しに素敵なお庭だなって眺めてたんだけど、堂々と中に入れる機会ができて、うれしいわ」
 自分がほめられたわけでもないのに、うれしさで胸の中が温かな綿あめのようなもので見たされていく気がする。
 秀治は受け取ったケーキ箱からタルトを取り出し、大皿に移すとテーブルに並べていった。
 まずは輪切りのオレンジの載った、チーズクリームらしきタルト。それから、莉々子と約束していたアップルパイ。これは、生地で見事な網目模様がほどこされていて、祥子の器用さと技術の高さがわかる。そして最後は、カットされたイチゴが芸術的に配置された、タルトだ。
 テーブルに皿を置くと、女性客から感嘆の声が上がった。祥子自身がナイフを手にして、小さく切り分けては配ってくれる。
「店長さんもどうぞ」
 祥子に店長と呼ばれて、照れくさくなったが、これから自分はこの店で何度もそう呼ばれるのだろう。
 秀治はオレンジのタルトを一切れもらった。一口食べると、クリームチーズとオレンジの酸味が合わさって、口の中に爽やかさが広がる。クリームは口どけよく、タルト生地はさくさくとして、その食感の違いもいい。もう一口食べると、クリームの中に仕込まれたオレンジソースが出てきた。オレンジ風味が強くなり、また違う味が楽しめる。
「おいしいです。やっぱり、俺の舌は正しかったですね」
 自画自賛するような秀治にちょっと苦笑いして、祥子は「あの」と言った。
「このスコーンですけど」
「はい」
「チョコチップの方は甘い生地のアメリカンスタイルなので、これで構わないと思います。でも、プレーンはジャムを添えて提供するんですよね」
「は、はい」
「イングリッシュスタイルのスコーンでしたら、もっとザクザクとした食感にしたほうがいいです。それに、クロテッドクリームは必須です」
 やはりお菓子のこととなると、祥子の熱の入り方は違うようだ。わずかにたじろぎながら、秀治は言った。
「あ、あの、それだったら、祥子さんにお願いしてもいいですか?」
「え?」
「このカフェで、一緒に働いてもらえませんか?」
 思い切ってそう頼みこむと、祥子はさっきまでの圧の強さはどこへ行ったのか、また小動物のように身を縮こませた。
「わ、私、接客は苦手なんです。ケーキ作るしか取り柄がなくて」
 そのまま後ずさりする祥子の背を押してくれたのは、ご近所の奥様方だった。
「あら、素晴らしい取り柄だわ」
「ねえ、このタルト、すごくおいしい。見た目もきれいだし、イチゴとクリームのバランスが最高」
「祥子ちゃんのタルトが食べられるんなら、私もこのお店の常連になるわよ」
 お隣の宮村婦人にまでそう声をかけられて、祥子の背が伸びるのがわかった。
「お姉ちゃんのアップルパイ、すっぱくなくてサクサクでおいしい」
 莉々子の声が最後の一押しになったようだった。祥子が覚悟を決めたように、秀治に向き合う。
「慣れるまで接客は、俺一人でやりますから、どうでしょう」
「こ、こんな私ですが、よろしくお願いします」
 ガバッと頭を下げた祥子に、店中の人々がわっと拍手をした。輪の外から克也が安心したように微笑む姿が見えた。
 庭へ目をやった秀治は、小道沿いのコニファーが揺れるのを見た。新しいお客さんが来たのかとウッドデッキに出てみると、木の陰から覗く雪乃と目が合った。
 雪乃は反射的に背を向けて小道を駆け出していく。慌てて追いかけた秀治が呼び止めようとしたところに風が吹き、裏口付近に咲くコデマリの枝が大きく揺れ、雪乃の行く手をふさいだ。
(グッジョブ!)
 心の中でコデマリにお礼を言い、秀治は雪乃の手をつかむ。
「せっかく来たんだから、入っていって」
「でも、莉々子に合わせる顔がなくて……。有麻さんにだって、申し訳なくて」
「莉々子に合わせる顔なら、ここにある」
 秀治が両手で雪乃の頬を包むと、雪乃は一瞬キョトンとし、こらえきれなくなったように笑い出した。
「パパー、今ママの声しなかった?」
 秀治の背後から莉々子が駆けて来る足音がする。秀治は小道の脇に避けて、その時を待った。
「ママ!」
 雪乃を見つけた莉々子が全速力で駆けてきて、雪乃に向かって飛びついていく。
 秀治は目の前に落ちたバラの冠を拾って、雪乃に抱きついて離れない莉々子の頭にかぶせてやった。
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