出来物

耽創

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 幸せな夢であったのかもしれません。
 始まりは夏休みが始まって四日後でした。八月中途半端な長さの前髪が汗で額にひっつく、かすかに蝉の声が聞こえる七時三分でした。少年はベッドから起き上がろうと目を開けようとしました。髪の毛先が右目に入り、チクリとしたので思わず反射で目をつむり、右手で髪を払いのけました。窓を開けると少し冷たい風が顔に当たりました。寒さに震えると少年は左目の上に違和感を感じました。涼しさを感じる体に反してその一点だけじんじんと熱を感じるのです。
 大きなたんこぶでした。それに触れるとドクドクとテンポのよい脈を感じるのでした。額をどこかでぶつけた覚えはありません。母親に見せると、
「あんた寝相悪いから、どっかでぶつけたんじゃないの。気をつけてよ~。自分で貼れそ? ほら。貼りなさい」
 と冷却シートを渡されました。ぶつけた覚えのない少年としては、ぞんざいな扱いを受け、いい思いはしませんでした。しかし目の上のたんこぶがこうもしっくりくるとは思いもしませんでした。気になりだしたらそればかり気になるので、静かに母からシートを受け取りました。頭に広がる唐突な冷たさに小さな頭痛を感じました。汗ばんでひっつくパジャマに苛立つ朝でした。
 少年の大きなたんこぶに毛が生えてきたのはその一週間後でした。最初は見間違いかと思ったのです。しかし、少年は夜目がきくほど視力が良いので、まじまじと見たそれが毛であると把握せざるを得ませんでした。犬の毛のような、人の赤ん坊の生えたての髪の毛のような毛でした。触ったのに触感を感じない毛でした。形にも変化がありました。狐の顔に見える不気味な形になっていたのです。たんこぶに養分を与えるように血管が浮き上がっていました。
「やあ主人。しばらく住まわせておくれ」
 狐のたんこぶがしゃべりだしたのは夕方でした。
「うっわ、気持っち悪」
「失礼な人間だな。いや、失礼しているのはこちらなのだから文句は言えまいか」
 礼儀正しいたんこぶでありました。奇妙でしたが、緊張が一気に解けたので、少年はこぶと話し合おうと思いました。
「えっと。誰? いつ離れてくれる」
 ふん……と、たんこぶは考えているのか息を吐きながら黙りました。耳を塞いで話すみたいに、たんこぶの声はこもって聞こえました。
「名前は野狐だ。浮世ではこのように人間の出来物としていたずらしたりしている。いたずらの結果得た養分を食べたりな。出来物というよりこぶになってしまったが。滞在期間は……すまない主人。私の腹が満たされるまでとしか言えない。私は食事が下手だが、主人が望むのなら早く食べることを心がけよう」
「怖いんだけど。俺の何食べるの」
「いらなくなった才能や感情を少々」
 少年は力強く机に頭を打ち付けました。
「なんだ主人、痛まんぞ私は。いらないものが惜しいのか」
「いらないかは俺が決めるべきだろうッ」
 語尾を痛みで揺らしながら、少年は叫びました。野狐は溜息をつきます。
「思い出せもしないものを欲張るのは強欲が過ぎるぞ。整理整頓をするだけというのに」
 野狐は何がダメなんだと言わんばかりです。あまりに悪気がないので少年は歯がゆく感じながらも黙りこくりました。 
 八月中旬になってもまだたんこぶは食事をしたり些細ないたずらを仕掛けてきました。そのころになると少年は脳に響いている咀嚼音にも慣れていました。
 狐の顔が現れてからすぐ家族にたんこぶを見せました。母親も、父親も、姉も、見えているのは初めに見せたただのたんこぶのようです。最初に見せたこぶが大きかったので、治りが遅いことも指摘されませんでした。
 人間生活をよく認知しているのかたんこぶは少年が眠る間は食事をしませんでした。また、家族といるときもたんこぶは話しかけてきませんでした。
「随分配慮してくれるんだね」
 ある日の十時頃、勉強の一休みにと、少年は伸びをし終わってからたんこぶに話しかけました。たんこぶは食事をやめ
「昔憑いた女が、私のせいで狂人扱いされて、本当に狂ってしまって死んでしまったんだ。あの頃はところかまわず憑いた人間に話しかけていたもんだ。主人が死なないよう私だって勉強したのさ。あっ……と」
 と。少年の頭の中ーー脳内でしょうーーに、じわー……とあたたかさを感じました。その感覚は自身が胃の中の物を出したときと酷似していました。
「きぃったね。吐いたんか」
 と言うと
「すまないご主人。なんせ美食家でな。一旦全部食べて、好まんのは捨てるのだ」
 記憶を吐き出している、と少年が認識した瞬間のことです。昔の記憶が、先程感じた吐瀉物と同じくじわーと広がっていきました。忘れてしまっていた小学生の記憶です。
「んあ、ああ……。……。えらく昔の記憶の中から食べているんだね」
「主人にとっていらんものだといっただろう。それに、最近の記憶の中から食べてしまうとだな。吐いたときに主人の記憶がごちゃ混ぜになるんだと。昔のから食べると、忘れていたものを突然フッと思い出したような感覚になるそうだ。前の主人が言っていた」
 言われてみると、そのとおりです。無垢から見える風景や感情をまた実感できて、少しだけ心が綺麗になった気がしました。
 八月下旬となると少年の見ているものに変化が起きました。見ているものに現実を感じなくなったのです。見るもの全てがテレビ越しのように他人事に感じるのです。自分自身の目を通して見ていないようでした。かわりに、たんこぶによって吐かれるあたたかい記憶や思い出したくもない感情がぐるぐるぐるぐる少年の頭を支配していました。鮮明なフラッシュバックによって少年は過去に縛られていました。ベッドに横たわり、魂が抜けたように一日を過ごしました。
「……。おい美食家。もう食うのはやめてくれないか」
 窓を閉めているので外の音は聞こえません。食べにくいのでしょうか。ズルズルと、さながらみそ汁を飲み干した後、底に残ってしまった具を吸い込むようにたんこぶは音を立てて食べています。
「……うるせえ」
「すまないご主人。なかなかここの記憶が取れなくて……」
「こことか言われてもわかんねえよ。せめて俺に優しいもの吐きやがれ。いや、吐かんでくれ……」
 皆が差す中、雨の中を苛立ちとともに帰った日が広がっていき、怒りに満ちます。テストの点が上がったことを思い出し、自然と笑みがこぼれ、嬉しさに満ちます。次々と色んな思いと日々に脳を支配されます。喜怒哀楽を刹那の単位で繰り返すのは気持ち悪いのです。 
 ガハハと野狐は笑います。
「出来物のおかげで出来物になるのだ。面白かろう」
「……どういうこと」
 少年は笑う気にはなりません。しかし野狐はずっと楽しそうです。まるで親に今日あった楽しいことを言いたくて堪らない幼稚園児のようです。
「忘れたとこから挫折や成功を引っ張り出してきて人間を成長させる寸法さ」
「余計なお世話すぎる。……ただ頭をパンパンにして化かしやすくしたいだけだろう。最近何に対しても人事に思えるんだ。頭を働かせなくしてるんだろ」
 頭の中でブーイングが鳴り響きます。少年はこれを肯定と確信しました。
「鈍らんご主人だな。参った。ご主人の方がよっぽど出来物かもしれん」
 野狐は今までで一番勢い良く息を吐きます。
「化かせん主のとこにいても無駄だ。もっと良い馬鹿を見つけるよ。世話になった」
 気色悪さの中、野狐の声を微かに聞きながら、少年は気を失いました。

 気味も性格も悪い狐のいなくなった頭はすっきりとしていて、忌々しい突起は次第に皮膚に戻っていきました。妖怪からお墨付きのようなものを貰った少年ですが、いかんせん嬉しいと感じるようで、しばらくはむしゃくしゃしたそうです。
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