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○3章 旅館のあり方
-15『追想』
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◆
その生き物を、俺ははじめ、熊だと思った。
なにしろ自分の二倍くらいはある大きな体格に、毛むくじゃらで、鋭い牙や爪を持っていたのだから。
テレビのニュースや物語で出てくる熊は凶暴で、人間を襲ってくる。だからとても恐い生き物なのだと思っていた。
でも、俺が出会ったそれは、ひどく怪我をして弱っているようだった。
身体中から大量の血を流し、もはや命は長くなく風前の灯だと、幼い俺でも簡単に察しがつくほどに。
「大丈夫?」
俺はたまらず声をかけていた。
次の瞬間にはその生き物の大きな牙で食い殺されるかもしれないというのに、俺はどうしてかそいつが放っておけなかった。
生き物は下半身を滝つぼに浸し、おそらくそこから這い出ようとしたのだろう上半身を力なく外に伸ばして倒れこんでいた。
傷口からは血が絶え間なく流れて赤い血溜まりをつくらせている。
その血のほとんどは生き物の腹部にある、腕が通りそうなほどの大きな縦傷からだった。
「どうしよう」と慌てふためいていると、ふと俺はあることに気づいた。
滝つぼの水が光っているのだ。
「ほたる?」
それはまるで蛍の光のようだった。
水面を覗き込む。
しかし蛍の姿は見当たらない。
けれど、その蛍光色に満たされた空間の中に、蛍がいるのだと俺は思いこんだ。
洞窟は薄暗かったが、その明るい水のおかげで傷の様子もよく見えた。母親に傷口の手当をしてもらったことを思い出し、水をすくって洗ってあげることにした。
俺は驚いた。
どういう訳か、光る水を生き物の傷口にかけてやると、かければかけるほど、見る見るうちにその傷が塞がっていったのだ。
まるで魔法の水だった。
絵本やゲームで見た、一瞬で傷が治る魔法の水。
とても興奮した。
こんなこと、現実でありえるのだろうか、と。
それは、夢のような光景だったに違いない。
生き物はやがて滝つぼから自力で出てこれるくらいに回復した。
「なにか辛いことでもあったの?」
俺は尋ねた。
世間をまだしらない子どもの、ままごとのような背伸びの言葉だった。
生き物は何も言わず、まるでこちらを値踏みしているように、その真っ黒な瞳で俺を見つめていた。
「僕の家、温泉旅館なんだ。そこなら辛いことも忘れていっぱい休めるよ。だからおいでよ」
確か、そう言った記憶がある。
その後は俺がずっと一方的に話をしてて、生き物は何も返事をする素振りを見せなかったけれど、嫌がって逃げることもなく傍で体を休め続けていた。
そんな夢物語のような時間を、ふと、俺は走馬灯の一つに思い出していた。
◆
唇になにか温かいものがあたっているような感触を覚えた。
体中が濡れて冷えているせいで、その感覚がひどく心地よく思えた。
重い瞼をゆっくりと持ち上げる。そこは真っ暗で何も見えなかったが、すぐに、目の前を見慣れたものが視界を覆いつくした。
アーシェの顔だった。
人間の姿の彼女が隣に座り、横たわった俺の顔を覗き込んでいた。
息がかかるような距離で目が合い、途端にアーシェの顔が真っ赤に染まる。
「お、起きたなら起きたって言いなさいよ」
「無茶言うなって」
ごほ、ごほ、と咳き込む。
深く飲み込んでしまっていたのか、少量の水を吐き出した。
「って、そうだ。魔道具は?」
暴走していたそれのことを思い出し、咄嗟に身体を起こす。
気づけば魔道具は俺の真横で無残にも壊れてしまっていた。
すっかり機能を停止し、沈黙している。
「暴走は止まってる……のかな?」
俺は安堵に息をついた。
全身の節々に痛みがあったが、どういうわけか、あれほどの衝撃を受けても身体はなんともない様子だ。手足を見渡しても傷一つ残ってはいない。
あの爆発で無事であるとは到底思えなかあった。
アーシェだって、どういうわけか先ほどの憔悴が嘘のように平然とした顔つきをしている。
「そうだ、アーシェ。お前、マナが尽きかけてたんじゃ……」
「ええ、そうよ」
まるで些末事のようにアーシェは淡々と答える。彼女は立ち上がると、
「あれのおかげ、かしらね」と指を差した。
その方向にあったのは、あの洞窟の滝つぼだった。
やっと俺は、また川で流されてここにたどり着いたのだと把握する。三度も流されるとはなんとも情けない話だ。
彼女が指差した滝つぼに目をやる。
ついさっき見たはずのその場所は、しかしまったく別の様相へと変貌していた。
「なんだ、これ」
思わず息を漏らすほどの光景がそこにはあった。
――蛍光。
まるで蛍の光のように淡く輝く光が、ほんのりと、滝つぼを包んでいたのだ。
いや、正確には滝つぼに溜まった川の水が光を含んでいるようだった。
「すごい」と感嘆の声を漏らす俺の隣でアーシェが言う。
「さっき、川の中で魔道具が大量のマナを放出させたでしょ。それが溶け込んでいるのよ」
「この水に、マナが?」
言われてみれば以前に純度の高いマナを見せてもらった時と同じ光だ。
「そんなの、可能なのか?」
「普通は不可能よ。水には本来、マナを保有できる元素は含まれていないわ。だから水にマナをくっつけても一緒になることはない。けれどもここの水はどういうわけか、マナが触れると混じるように溶け込むみたい。他の水と何が違うのかはわからないけれど、不思議だわ」
物珍しそうに眺めるアーシェの様子からも、よほど怪奇な現象なのだろうということがわかる。
だが、この滝つぼにたまっている川の水にそんな特別な何かがあるのだろうか。他の、普通の水と違う点なんて。
思案していると、ふと、俺はある微かな臭いを感じてひらめいた。
「もしかして、温泉……か?」
この川の上流は源泉が湧き出ているあたりから流れている。
温泉というのは地層の中の成分を地下水が吸収しながら湧き出たものだ。
つまり同じ地層がある近辺の地下水ならば温泉と同じ成分を多少なり含んでいてもおかしくはない。
「温泉の中に、マナと結合して保有させる特徴を持った成分があるというわけね」
「あくまで憶測だけど」
「いいえ、あり得そうだわ。私たちは温泉を、ただの水を沸かしただけのものと思っていたわ。けれども違う。なにかしらの成分によってマナを含んでいる。マナは生命の源なの。直接身体に触れれば触れるほど、それを受けた人間は生命力を溢れさせる。湯浴みで肌に感じれば自然とマナの補給にも繋がって生命力の強化に役立たされるということね。そうであるのならば、人々が温泉を好む理由もわかるわ。それに――」
アーシェが自分の脇腹を服の上から優しくさする。
俺も、暴発を受けてできたはずの傷が身体にないことを改めて確かめる。
マナは生命力。
それを取り入れられるということは、傷すらも治せるということか。
まるで魔法だ。
いや、まさしく自然にある魔法なのだろう。
温泉が湯治などに使われる所以も、それならば深く理解ができる。
マナの存在を知らずとも、その恩恵を俺たちはずっと受け続けていたわけだ。
「すごいな」
「ええ、すごいことよ」
たまげた思いで俺は、マナの光に包まれた幻想的な滝つぼを眺めていた。
マナは水の流れに押し戻されないらしく、はるか上流にもマナが浸透していったのだろう。流れ出る滝にも輝きを宿し、さながら天の川のようにどこまでも続いているようだ。
世界中のどんな絶景にも劣らぬほどの神秘的な光景だと思った。
悲しいことがあっても忘れさせてくれるような、心までも癒してくれるかのような、そんな優しさにあふれた景色だった。
「……あれ?」
ふと、俺は今更ながら気づく。
薄暗いせいでよく見えていなかったが、アーシェの頭にまるで狐耳のような尖がりがあった。髪と同じ銀色だ。
「おまえ、その耳」
俺が指を指して指摘すると、アーシェは咄嗟に腕で隠した。
「なんで、魔法で隠してたのに」と彼女らしからぬ様子で慌てふためいている。マナが一度枯渇したせいだろうか。
「こ、これは違うのよ」
「なにが違うんだよ。隠さなくていいじゃねえか」
「……だって」
恥ずかしそうに顔を伏せながらアーシェは指をもじもじといじる。
「私の身なりでこんな耳がついてたら、まったく威厳がないでしょ」
なんだ、そういうことか。
幼い容姿に獣耳なんて、とても可愛らしいように思うが。
たしかに背も低く童顔な彼女だが、威厳なんて必要なのだろうか。
なんだか途端に肩の力が抜け、俺はふふっと笑みをこぼした。
「ありがとうな、アーシェ」
「ど、どうしたのよ。急に」
「いや。とりあえず言いたくなってさ」
俺が言うと、アーシェは気恥ずかしそうにそっぽを向いてしまった。
それからしばらく、俺とアーシェは目の前の美しさに呑まれてしまったかのように、ぼうっと蛍光を眺め続けていた。
その生き物を、俺ははじめ、熊だと思った。
なにしろ自分の二倍くらいはある大きな体格に、毛むくじゃらで、鋭い牙や爪を持っていたのだから。
テレビのニュースや物語で出てくる熊は凶暴で、人間を襲ってくる。だからとても恐い生き物なのだと思っていた。
でも、俺が出会ったそれは、ひどく怪我をして弱っているようだった。
身体中から大量の血を流し、もはや命は長くなく風前の灯だと、幼い俺でも簡単に察しがつくほどに。
「大丈夫?」
俺はたまらず声をかけていた。
次の瞬間にはその生き物の大きな牙で食い殺されるかもしれないというのに、俺はどうしてかそいつが放っておけなかった。
生き物は下半身を滝つぼに浸し、おそらくそこから這い出ようとしたのだろう上半身を力なく外に伸ばして倒れこんでいた。
傷口からは血が絶え間なく流れて赤い血溜まりをつくらせている。
その血のほとんどは生き物の腹部にある、腕が通りそうなほどの大きな縦傷からだった。
「どうしよう」と慌てふためいていると、ふと俺はあることに気づいた。
滝つぼの水が光っているのだ。
「ほたる?」
それはまるで蛍の光のようだった。
水面を覗き込む。
しかし蛍の姿は見当たらない。
けれど、その蛍光色に満たされた空間の中に、蛍がいるのだと俺は思いこんだ。
洞窟は薄暗かったが、その明るい水のおかげで傷の様子もよく見えた。母親に傷口の手当をしてもらったことを思い出し、水をすくって洗ってあげることにした。
俺は驚いた。
どういう訳か、光る水を生き物の傷口にかけてやると、かければかけるほど、見る見るうちにその傷が塞がっていったのだ。
まるで魔法の水だった。
絵本やゲームで見た、一瞬で傷が治る魔法の水。
とても興奮した。
こんなこと、現実でありえるのだろうか、と。
それは、夢のような光景だったに違いない。
生き物はやがて滝つぼから自力で出てこれるくらいに回復した。
「なにか辛いことでもあったの?」
俺は尋ねた。
世間をまだしらない子どもの、ままごとのような背伸びの言葉だった。
生き物は何も言わず、まるでこちらを値踏みしているように、その真っ黒な瞳で俺を見つめていた。
「僕の家、温泉旅館なんだ。そこなら辛いことも忘れていっぱい休めるよ。だからおいでよ」
確か、そう言った記憶がある。
その後は俺がずっと一方的に話をしてて、生き物は何も返事をする素振りを見せなかったけれど、嫌がって逃げることもなく傍で体を休め続けていた。
そんな夢物語のような時間を、ふと、俺は走馬灯の一つに思い出していた。
◆
唇になにか温かいものがあたっているような感触を覚えた。
体中が濡れて冷えているせいで、その感覚がひどく心地よく思えた。
重い瞼をゆっくりと持ち上げる。そこは真っ暗で何も見えなかったが、すぐに、目の前を見慣れたものが視界を覆いつくした。
アーシェの顔だった。
人間の姿の彼女が隣に座り、横たわった俺の顔を覗き込んでいた。
息がかかるような距離で目が合い、途端にアーシェの顔が真っ赤に染まる。
「お、起きたなら起きたって言いなさいよ」
「無茶言うなって」
ごほ、ごほ、と咳き込む。
深く飲み込んでしまっていたのか、少量の水を吐き出した。
「って、そうだ。魔道具は?」
暴走していたそれのことを思い出し、咄嗟に身体を起こす。
気づけば魔道具は俺の真横で無残にも壊れてしまっていた。
すっかり機能を停止し、沈黙している。
「暴走は止まってる……のかな?」
俺は安堵に息をついた。
全身の節々に痛みがあったが、どういうわけか、あれほどの衝撃を受けても身体はなんともない様子だ。手足を見渡しても傷一つ残ってはいない。
あの爆発で無事であるとは到底思えなかあった。
アーシェだって、どういうわけか先ほどの憔悴が嘘のように平然とした顔つきをしている。
「そうだ、アーシェ。お前、マナが尽きかけてたんじゃ……」
「ええ、そうよ」
まるで些末事のようにアーシェは淡々と答える。彼女は立ち上がると、
「あれのおかげ、かしらね」と指を差した。
その方向にあったのは、あの洞窟の滝つぼだった。
やっと俺は、また川で流されてここにたどり着いたのだと把握する。三度も流されるとはなんとも情けない話だ。
彼女が指差した滝つぼに目をやる。
ついさっき見たはずのその場所は、しかしまったく別の様相へと変貌していた。
「なんだ、これ」
思わず息を漏らすほどの光景がそこにはあった。
――蛍光。
まるで蛍の光のように淡く輝く光が、ほんのりと、滝つぼを包んでいたのだ。
いや、正確には滝つぼに溜まった川の水が光を含んでいるようだった。
「すごい」と感嘆の声を漏らす俺の隣でアーシェが言う。
「さっき、川の中で魔道具が大量のマナを放出させたでしょ。それが溶け込んでいるのよ」
「この水に、マナが?」
言われてみれば以前に純度の高いマナを見せてもらった時と同じ光だ。
「そんなの、可能なのか?」
「普通は不可能よ。水には本来、マナを保有できる元素は含まれていないわ。だから水にマナをくっつけても一緒になることはない。けれどもここの水はどういうわけか、マナが触れると混じるように溶け込むみたい。他の水と何が違うのかはわからないけれど、不思議だわ」
物珍しそうに眺めるアーシェの様子からも、よほど怪奇な現象なのだろうということがわかる。
だが、この滝つぼにたまっている川の水にそんな特別な何かがあるのだろうか。他の、普通の水と違う点なんて。
思案していると、ふと、俺はある微かな臭いを感じてひらめいた。
「もしかして、温泉……か?」
この川の上流は源泉が湧き出ているあたりから流れている。
温泉というのは地層の中の成分を地下水が吸収しながら湧き出たものだ。
つまり同じ地層がある近辺の地下水ならば温泉と同じ成分を多少なり含んでいてもおかしくはない。
「温泉の中に、マナと結合して保有させる特徴を持った成分があるというわけね」
「あくまで憶測だけど」
「いいえ、あり得そうだわ。私たちは温泉を、ただの水を沸かしただけのものと思っていたわ。けれども違う。なにかしらの成分によってマナを含んでいる。マナは生命の源なの。直接身体に触れれば触れるほど、それを受けた人間は生命力を溢れさせる。湯浴みで肌に感じれば自然とマナの補給にも繋がって生命力の強化に役立たされるということね。そうであるのならば、人々が温泉を好む理由もわかるわ。それに――」
アーシェが自分の脇腹を服の上から優しくさする。
俺も、暴発を受けてできたはずの傷が身体にないことを改めて確かめる。
マナは生命力。
それを取り入れられるということは、傷すらも治せるということか。
まるで魔法だ。
いや、まさしく自然にある魔法なのだろう。
温泉が湯治などに使われる所以も、それならば深く理解ができる。
マナの存在を知らずとも、その恩恵を俺たちはずっと受け続けていたわけだ。
「すごいな」
「ええ、すごいことよ」
たまげた思いで俺は、マナの光に包まれた幻想的な滝つぼを眺めていた。
マナは水の流れに押し戻されないらしく、はるか上流にもマナが浸透していったのだろう。流れ出る滝にも輝きを宿し、さながら天の川のようにどこまでも続いているようだ。
世界中のどんな絶景にも劣らぬほどの神秘的な光景だと思った。
悲しいことがあっても忘れさせてくれるような、心までも癒してくれるかのような、そんな優しさにあふれた景色だった。
「……あれ?」
ふと、俺は今更ながら気づく。
薄暗いせいでよく見えていなかったが、アーシェの頭にまるで狐耳のような尖がりがあった。髪と同じ銀色だ。
「おまえ、その耳」
俺が指を指して指摘すると、アーシェは咄嗟に腕で隠した。
「なんで、魔法で隠してたのに」と彼女らしからぬ様子で慌てふためいている。マナが一度枯渇したせいだろうか。
「こ、これは違うのよ」
「なにが違うんだよ。隠さなくていいじゃねえか」
「……だって」
恥ずかしそうに顔を伏せながらアーシェは指をもじもじといじる。
「私の身なりでこんな耳がついてたら、まったく威厳がないでしょ」
なんだ、そういうことか。
幼い容姿に獣耳なんて、とても可愛らしいように思うが。
たしかに背も低く童顔な彼女だが、威厳なんて必要なのだろうか。
なんだか途端に肩の力が抜け、俺はふふっと笑みをこぼした。
「ありがとうな、アーシェ」
「ど、どうしたのよ。急に」
「いや。とりあえず言いたくなってさ」
俺が言うと、アーシェは気恥ずかしそうにそっぽを向いてしまった。
それからしばらく、俺とアーシェは目の前の美しさに呑まれてしまったかのように、ぼうっと蛍光を眺め続けていた。
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