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第8話『アンドロメダの涙』 Side宗也

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 三十分もしないうちに菜摘が部室へと戻ってきた。

 それを皮切りに、俺たちは今後の事について話をした。
 と言っても智幸さんのおかげで全てはあっさりと決まっていった。

 活動は今後も続けていく。
 壊れたカメラは修理に出し、戻って来るまでは代用品を探すことになった。初めて買ったカメラらしく、智幸さんなりに思い入れがあるらしい。

 事を話す智幸さんは終始笑顔を浮かべていた。
 気を遣ってくれているのだと俺でもよくわかった。

 その好意に甘え、今日の話し合いは終わりを迎えた。
 いろいろと話をしたりしていると気がつけば夕方になっていた。

 部室の扉を閉めて、俺たちは職員室に鍵を持っていった。部室を使った日の日課だ。俺か菜摘、どちらかが必ずおこなっている。

 今日は菜摘の番だ。
 率先して、彼女がそれを申し出ていた。

 鍵を返しに職員室へと入った菜摘を、手前の廊下で待つ。同じように鍵を返しに来る生徒で珍しく職員室はごった返しているようだった。吹奏楽やコーラス部の子たちだろうか。土曜日だというのに、熱心な事だ。

「野原、いま帰りか?」

 待ちぼうけていると、廊下の奥から顧問の本宮先生がやってきた。口許の白い髭をさすりながらにこやかに近づいてくる。白髪の髪は綺麗にまとめられ、背広と良く似合っていた。

 カメラが壊れた事は本宮先生には言っていない。あまり大事にしたくなかったからだ。どうせ部費も出ないのだし無理に伝えない方が良いだろう、と菜摘が提案したのだった。

「はい。下校時刻ですし」
「もう忘れ物は無いように、って伝えておいてくれよ」
「忘れ物、ですか?」

 俺は首を傾げた。

 忘れ物。
 もしかすると、美晴のことだろうか。
 カメラが壊れた日、下校時刻ぎりぎりで騒いでいた覚えがある。

「下校時間を完全に過ぎてしまってから言われるといろいろと面倒なんだ。お前たちが部活を頑張ってくれてるのならそれでいいんだが、こっちも一応は規則でな」
「はあ。秋川にもちゃんと言っておきます」

 呆けたように俺が答えると、本宮先生は怪訝に顔をゆがめた。

「秋川? 俺は別に秋川の話をしているわけじゃないんだが……」

 かみ合っていないことに気付き、二人して互いの目をぱちくりと見合った。

「まあ、とりあえず伝えておいてくれ」
「あ、待ってください」

 顔をしかめながらも、そう言って職員室に入ろうとする本宮先生を、俺は思わずひきとめていた。




 やがて鍵を返し終わった菜摘が戻ってきた。行こうか、と彼女は言い、一人きりで手持無沙汰になっていた俺も頷いて廊下を歩きはじめた。

 職員室からそのまま駐輪場へ向かうと美晴が待ってくれていた。智幸さんもすでに自転車にまたがって笑顔で迎えてくれている。

「じゃあ、帰ろうか」

 智幸さんの声にみんなが頷き、俺たちは一斉に校門を出た。

 四人で二列に並び、坂を下っていく。完全下校時間の迫った通学路には、俺たちの他にも数名の生徒が歩いていた。

 学生服の中に、一人だけシャツにジーンズというラフな格好で、智幸さんは周囲から明らかに浮いている。それに気付いたのか本人も肩を縮めて俯くように自転車を走らせていた。

 民家がちらほらと増え始め、食欲をそそるような芳しい香りが漂ってくる。信号を待っている間、ハンバーグかな、と智幸さんは真剣な表情で考えていた。

 やがて、二車線道路の交差点で菜摘と別れた。ここからは道が違う。

 次の信号のない大きな十字路でも、美晴と別れた。また月曜日、と手を振る美晴に、俺も軽く手を振り返す。

 智幸さんと二人きりになった。

「智幸さん。あの、俺……」
「あとはもう、きみたちの問題だ。僕はこれ以上口を出せないよ」

 県道の脇を走り抜ける。

 呟くように言葉を吐いた俺に、智幸さんは振り向かないまま答えた。だけどその声は弾んでいるようだった。

「そうやって迷ったり苦しんだりすることで、人って成長していくのかな。いっぱい経験して、いろんなことを知って。大人だとか子どもだとかは、正直に言って、生きる上ではそう大切な事でもないんじゃないかって思うよ。ま、そう言う僕は、まだまだろくな就職先すら見つけられない子どもなんだけどね」

 最後に、自分をあざけるように笑いながら、智幸さんは俺の少し前を走り続けた。

 俺が自転車を前に進めようと速度を上げると、近づいたはずの後輪はまた僅かに遠ざかっていった。追いつけそうで、追いつけない。

「それじゃあ、また。次に会うのは火曜日かな」

 町中の商店街へと入る交差点で、智幸さんは自転車の速度を緩めた。

 智幸さんの家は商店街を抜けた先だ。ここでお別れになる。

「お疲れさまでした」

 歩道の脇に自転車を停め、俺は智幸さんを見送った。

 長く続く街路は夕陽の赤に染められている。最後まで変わらない笑みを浮かべながら、智幸さんは商店街へと自転車を進める。よれよれのシャツを被ったおおきな背中は次第に小さくなっていった。

 人気のない交差点には、俺だけが残された。

 街灯に明かりが灯りはじめ、夕闇を呼び寄せる。夕飯時だというのに活気のない商店街の軒先を見て、俺は軽く息をついた。

「俺たちの問題、か」

 地面から浮かせた足を柵にかけて自転車を停めたまま、空を見上げた。

 金星があった。
 赤から深い青へと移っていく自然のグラデーションの中に、ぽつりと光っていた。なによりも強く輝いていた。

 そこには確かに、金星がある。

 だけど俺が求めている星はどこにあるのかもわからない。そんな不確かなものを俺はみつけようとしているのだ。

 急に現れては、はた迷惑なほどの光をまき散らす。どこかの誰かさんみたいな、それを。

 突然、スマートフォンが鳴った。
 おもむろに画面を開く。メールの着信だった。

 本当に短い内容。

『☆』

 言葉でも何でもない、たった一つの記号。
 それだけが大きな空白の中にぽつりと置かれている。

 送信元は、天乃菜摘だった。

 ついさっき別れたばかりの、菜摘だった。

 どういう意味だろう。
 気味の悪い震えが全身を伝った。

 なにかあったのかもしれない。もしくは、彼女なりのちょっとした遊びなのかもしれない。俺をただからかっているだけ、とか。

 何かを意味するのか、しないのか。

 わからない。俺は、どう応えればいい。

 とりあえず、様子を見るように俺もメールを送り返した。どうした、とだけ言葉を添えて。

 だけど、五分待っても、十分待っても、その返事は来なかった。

 やはりからかっているのだろうか。遊んでいるんだ。俺の反応を見て。きっと俺の返信を見て、くすくす笑っているに違いない。

 ――なんて思えられたら、どれだけ楽なんだろう。

 イヤな予感しかしなかった。
 おそらく、智幸さんや本宮先生に話を聞いてしまったからだろう。

 菜摘はきっと、俺に何かを伝えようとしている。そして思いつく先もあった。

 その感覚を信じるべきか、信じないべきか。

「ったく、なに迷ってんだよ。オレらしくもない」

 俺はスマートフォンの画面を閉じ、ハンドルを強く握りしめた。歩道に足を付けて強く蹴りだす。ゆっくりと動き出した車体を、俺は百八十度反転させた。

 来た道を引き返す。
 まだやるべきことが残っている。そんな気がしたから。

 夢を叶えるために、どうしてもやらなければならないことだ。

 ひらすらに自転車を走らせ、学校へと続く坂をのぼっていく。
 足がつりそうなほどに全力でペダルをこぎ続けた。

 水のような汗が額を流れ、半袖のカッターシャツに染みこんでいった。




 夜の学校は真っ暗だった。

 電気の消された廊下は不気味に薄暗く、奥へと向かうにつれて、赤褐色のリノリウムの床が深い黒を滲ませていく。

 窓から射しこむ月明かりと定期的に置かれた消火器の赤色灯だけが、俺の視界をどうにかひらいてくれていた。

 足音を忍ばせて進んでいく。せわしなく動く心臓の音すら、廊下のはるか向こうまで届いていそうな気がした。

 完全下校時刻はとうに過ぎてしまっている。
 誰かに見つかれば面倒な事になるだろう。

 申請している部活動の生徒以外はみんな帰宅しているはずだが、教師はまた別だ。職員室で残業をする人もいれば、顧問として遅くまで出回っている人もいる。そのうえ用務員のおじさんがたまに巡回するため、あまり目立った行動は取りづらかった。

 息をひそめて向かった先は、部室棟の最上階。我らが天文部の部室だ。

 運よく、誰とも遭遇する気配すらなくたどり着くことができた。

 部室棟はどの部屋も明かりが灯っていなかった。

 大きな唾を呑みこみ、俺はそっと部室のドアノブを掴んだ。ぬめっとした。手汗にまみれてしまっている事にやっと気付く。思わずもれそうになった苦笑を、俺は口を閉じてこらえた。

 扉に鍵はかかっていない。
 ひんやりとする鉄製のドアノブを回し、俺はゆっくりと部室の扉を開けた。

 薄暗い部屋の中、猫のような丸い瞳が俺の目線とぶつかった。
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