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第1部 イシャータの受難
第3話 Exchange【交換条件】
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N区のそれほど長くないギンザ通りという商店街を抜けると十字路にさしかかる。さほど客の入ってないパン屋の向かいにはあまり警官の立っているところを見たことのない交番があり、イシャータはその脇に座り込んでいた。
先ほど蹴られた横腹がうずく。
『このまま今夜も何も食べらないのかしら──』
ぐったりと項垂れそんなことを考えていると、ふいに聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。
「イシャータさんじゃないですかあ! どうしたんですか、そんなとこで?」
イシャータの後輩格であるナナだった。彼女はアメリカン・カール種のロングヘアーであり、そしてもちろん“飼い猫”であった。
「ナ、ナナじゃない! ごきげんよう」
イシャータは咄嗟に立ち上がり、力の限り空元気をしてみせる。
「なんだか元気ありませんね?」
ナナはやや後ろに折れ曲がったカール種特有の耳をピクピクと動かした。
「ううん、ちょっとね……いや、ホラ、私、その……そう! ダイエットしてるのよ。だからお腹が、その……」
「やだぁ~イシャータさんたら。それ以上スリムになってどうすんですかぁ? あ~あ、私もシャムに生まれたかったなぁ」
食べ物を恵んでくれなんて口が裂けても言えない。そんなことをするくらいなら飢え死にした方がよっぽどマシだ。イシャータはそう思った。
「あ、御主人様が呼んでるから行かなきゃ。また遊びましょうね。ごきげんよう」
「ナ、ナナ!」
「?」
ナナはきょとんと首を傾げると、その悪意なき瞳でじっと見つめ返してきた。
「う……そうね、また遊びましょ」
ナナは舌で口の周りをペロリと舐め、走り去った。
もうすぐ夜がやってくる。皆が活動し始めると食料の争奪戦はさらに過酷さを増すだろう。かといって、明日になるとますます体力が落ちるのは目にみえて明らかだ。だいいちこのままでは空腹で眠ることさえできない。
あまり気が進まないがイシャータは最後の手段に出ることにした。
▲▼▲▼▲▼
「はて? どこからか高級スペアリブの匂いがするな」
ギノスはポリバケツを漁りながら言った。
「お嬢様は御帰宅の時間じゃねえのか?」
「まったく、あんたたちってどこに行けば残飯にありつけるのか肌でわかってるのね。ホンっト感心するわ」
それはイシャータが今できうる渾身の皮肉、そして本音のハーフ&ハーフだった。
「近寄んるんじゃねぇっつってんだよ!」
「な、なによ! ノラがどんなもの食べてんのか見たいだけじゃない」
ギノスの夜目がナイフのようにギラリと光る。野良猫に『ノラ』など、黒人を『ニガー』と呼ぶようなもんだ。怒らせてどうする。
「…………なかすいてん…………」
「?」
「だから……」
イシャータはもう全てがどうでもよくなってきた。
「おなかすいてんのよ!!!」
あまりに想定外の言葉にギノスは目を丸くした。はたしてこの言葉のどこに皮肉が隠されているのかを注意深く探してみる。だが、どうにもピンとこない。
二匹は共に次の言葉を頭に張り巡らせつつも、互いに相手の出方を待った。
「つまり……」と、同時に同じ言葉を選択したが、その続きを先に征したのはギノスの方だった。
「つまり、なにか? おまえさんはこれが食いたいってそういうことか?」
「た、たまにはね。ノラが……普通のネコがどんなもの食べてんのか……社会勉強ね、つまり、その──」
そんなとぎれとぎれのイシャータの言葉にギノスの嗅覚は訝しげなもの、そして何かしらの快楽的要素を嗅ぎとった。
「はは~ん。なるほどね」
「な、なによ」
「見てみろよ、このあたりの鳥の骨なんかまだきっちり肉までついてる。柔らかくて、じんわり口の中に広がっていくような……ん~、この味──」
イシャータはごくりと喉を鳴らした。
「首輪だな」
「へ?」
「そのチリンチリン不快な音を鳴らす赤い首輪と交換ってのはどうだ?」
イシャータは戦慄した。
これは御主人様がくれた大切なものだ。いやそれ以上に物心ついた頃から一緒に育ってきた、いわば体の一部ともいっていいものだ。今となっては全ての思い出がこの首輪に詰まっていると言っても過言ではない。今となっては──
「…………」
今となっては──何なのだ? これを付けていれぱ御主人様は私のもとに戻ってきてくれるというのか?
(それは……ない──)
イシャータは奥歯をかみしめた。
「……わかった。いいわ」
イシャータは口と爪を使ってすっかり痩せて細くなった自分の首から器用にそれを外した。首輪の下の皮膚が生まれて初めて冷たい外気に触れたような気がした。
それを口で拾い上げ、ギノスの方に放り投げる。
ギノスは勝ち誇った顔でイシャータを見つめ、足元に転がる赤い首輪をしげしげと眺めると、それをおもむろに太い後ろ足でぐしゃりと踏みつけた。
イシャータの細い体がビクリと震える。まるで自分自身の体が踏みつけられたようだった。
ギノスはその圧倒的優位を満喫するとフンと鼻を慣らし、右の前足でイシャータの首輪をそのままドブに払い落とした。イシャータは思わず顔をそむけた。
「俺様は約束は守る質だ。あとは好きにするがいいさ」
ギノスは愉悦の限りを尽くすとそう言って踵を返した。
月。
汚れきった体。
荒らされたゴミ袋。
ドブに沈みかけている自分の首輪。
どれもこれもが、リアリティに欠けている。
イシャータはとぼとぼとゴミ袋に近付くと前足を突っ込み、食べられそうなものを引っ張り出した。三日振りの食事だというのに全く味などしない。
だが、次第に増殖してくる屈辱感の中、イシャータは鳥の骨や魚、野菜、果物、果ては食物かどうかさえわからないものまで、無我夢中で貪り始めた。過去の首輪と引き換えにした、明日を生き延びるためのその食料をがむしゃらに、ガツガツと、貪り続けた。
そして誓った。
『この悔しさを決して忘れてなるものか──』と。
先ほど蹴られた横腹がうずく。
『このまま今夜も何も食べらないのかしら──』
ぐったりと項垂れそんなことを考えていると、ふいに聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。
「イシャータさんじゃないですかあ! どうしたんですか、そんなとこで?」
イシャータの後輩格であるナナだった。彼女はアメリカン・カール種のロングヘアーであり、そしてもちろん“飼い猫”であった。
「ナ、ナナじゃない! ごきげんよう」
イシャータは咄嗟に立ち上がり、力の限り空元気をしてみせる。
「なんだか元気ありませんね?」
ナナはやや後ろに折れ曲がったカール種特有の耳をピクピクと動かした。
「ううん、ちょっとね……いや、ホラ、私、その……そう! ダイエットしてるのよ。だからお腹が、その……」
「やだぁ~イシャータさんたら。それ以上スリムになってどうすんですかぁ? あ~あ、私もシャムに生まれたかったなぁ」
食べ物を恵んでくれなんて口が裂けても言えない。そんなことをするくらいなら飢え死にした方がよっぽどマシだ。イシャータはそう思った。
「あ、御主人様が呼んでるから行かなきゃ。また遊びましょうね。ごきげんよう」
「ナ、ナナ!」
「?」
ナナはきょとんと首を傾げると、その悪意なき瞳でじっと見つめ返してきた。
「う……そうね、また遊びましょ」
ナナは舌で口の周りをペロリと舐め、走り去った。
もうすぐ夜がやってくる。皆が活動し始めると食料の争奪戦はさらに過酷さを増すだろう。かといって、明日になるとますます体力が落ちるのは目にみえて明らかだ。だいいちこのままでは空腹で眠ることさえできない。
あまり気が進まないがイシャータは最後の手段に出ることにした。
▲▼▲▼▲▼
「はて? どこからか高級スペアリブの匂いがするな」
ギノスはポリバケツを漁りながら言った。
「お嬢様は御帰宅の時間じゃねえのか?」
「まったく、あんたたちってどこに行けば残飯にありつけるのか肌でわかってるのね。ホンっト感心するわ」
それはイシャータが今できうる渾身の皮肉、そして本音のハーフ&ハーフだった。
「近寄んるんじゃねぇっつってんだよ!」
「な、なによ! ノラがどんなもの食べてんのか見たいだけじゃない」
ギノスの夜目がナイフのようにギラリと光る。野良猫に『ノラ』など、黒人を『ニガー』と呼ぶようなもんだ。怒らせてどうする。
「…………なかすいてん…………」
「?」
「だから……」
イシャータはもう全てがどうでもよくなってきた。
「おなかすいてんのよ!!!」
あまりに想定外の言葉にギノスは目を丸くした。はたしてこの言葉のどこに皮肉が隠されているのかを注意深く探してみる。だが、どうにもピンとこない。
二匹は共に次の言葉を頭に張り巡らせつつも、互いに相手の出方を待った。
「つまり……」と、同時に同じ言葉を選択したが、その続きを先に征したのはギノスの方だった。
「つまり、なにか? おまえさんはこれが食いたいってそういうことか?」
「た、たまにはね。ノラが……普通のネコがどんなもの食べてんのか……社会勉強ね、つまり、その──」
そんなとぎれとぎれのイシャータの言葉にギノスの嗅覚は訝しげなもの、そして何かしらの快楽的要素を嗅ぎとった。
「はは~ん。なるほどね」
「な、なによ」
「見てみろよ、このあたりの鳥の骨なんかまだきっちり肉までついてる。柔らかくて、じんわり口の中に広がっていくような……ん~、この味──」
イシャータはごくりと喉を鳴らした。
「首輪だな」
「へ?」
「そのチリンチリン不快な音を鳴らす赤い首輪と交換ってのはどうだ?」
イシャータは戦慄した。
これは御主人様がくれた大切なものだ。いやそれ以上に物心ついた頃から一緒に育ってきた、いわば体の一部ともいっていいものだ。今となっては全ての思い出がこの首輪に詰まっていると言っても過言ではない。今となっては──
「…………」
今となっては──何なのだ? これを付けていれぱ御主人様は私のもとに戻ってきてくれるというのか?
(それは……ない──)
イシャータは奥歯をかみしめた。
「……わかった。いいわ」
イシャータは口と爪を使ってすっかり痩せて細くなった自分の首から器用にそれを外した。首輪の下の皮膚が生まれて初めて冷たい外気に触れたような気がした。
それを口で拾い上げ、ギノスの方に放り投げる。
ギノスは勝ち誇った顔でイシャータを見つめ、足元に転がる赤い首輪をしげしげと眺めると、それをおもむろに太い後ろ足でぐしゃりと踏みつけた。
イシャータの細い体がビクリと震える。まるで自分自身の体が踏みつけられたようだった。
ギノスはその圧倒的優位を満喫するとフンと鼻を慣らし、右の前足でイシャータの首輪をそのままドブに払い落とした。イシャータは思わず顔をそむけた。
「俺様は約束は守る質だ。あとは好きにするがいいさ」
ギノスは愉悦の限りを尽くすとそう言って踵を返した。
月。
汚れきった体。
荒らされたゴミ袋。
ドブに沈みかけている自分の首輪。
どれもこれもが、リアリティに欠けている。
イシャータはとぼとぼとゴミ袋に近付くと前足を突っ込み、食べられそうなものを引っ張り出した。三日振りの食事だというのに全く味などしない。
だが、次第に増殖してくる屈辱感の中、イシャータは鳥の骨や魚、野菜、果物、果ては食物かどうかさえわからないものまで、無我夢中で貪り始めた。過去の首輪と引き換えにした、明日を生き延びるためのその食料をがむしゃらに、ガツガツと、貪り続けた。
そして誓った。
『この悔しさを決して忘れてなるものか──』と。
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