イシャータの受難

ペイザンヌ

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第2部 ヴァン=ブランの帰還

第17話 Whisper from the past【過去からの囁き】

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 ギリーは昨夜からどうも様子がおかしい。佐藤はそう考えていた。

『何が』かといえばよくわからないのだが、あまり姿を見かけないし現れたかと思えば貝のように口をつぐんだままだし──

 今朝だってそうだ。

「おはよう」と、挨拶しても、その顔に浮かんだのはまるで社交辞令の様な笑みだけで、さっとどこかへ行ってしまった。

 そもそも出会って三日ほどしか経ってないわけだからギリーの心の内などわかるはずもないのだけれども、何というのか笑顔の種類が違うのだ。

──何故だろう?

 佐藤はギリーを探しつつも、今度顔を合わせた時もまたあのとってつけた笑顔だったらどうしようという恐れをどこかで抱いていた。

 いっそのことこのまま見つからない方がいいような気さえした。

 だから和室でギリーの白い毛並みが視界に入った時も佐藤は思わず一度部屋の前を慌てて素通りしてしまったのだ。佐藤は立ち止まり、思わず頭をプルプルと振る。

──そんなことあれへん。ギリーはボクのこと友達や言うてくれたやないか。きっと虫の居どころが悪かったか、眠たかったんか、昨日の歯磨き粉が残ってただけや。

 自分にそう言いきかせると、佐藤は 勇気を振り絞ってギリーが一匹佇む和室の中へと足を踏み入れた。

「あ~、ギ、ギリー」

 ギリーはゆっくりとこちらを振り向いたが、その表情は佐藤が振り絞った小さな勇気に対して見返りがあるほどのものではなかった。

「ぐ、偶然やね。こんなところで会うなんて」

 アホなこと言うとるなぁ──と、佐藤は自分でもそう思ったが、咄嗟に出てくる言葉が他に思い付かなかった。

「写真……」

 ギリーは床に広げたミニアルバムにポンと足を乗せた。

「お婆さん、私たちの写真をホラ、こんな風にちゃんと整理しててくれたんだね」

 そこにはこれまでここで暮らしていた猫たちの写真が収められていた。それを見た佐藤はハッとなった。

『そうや、ボク、自分のことばっかり考えとった。ギリーはお婆さんが死んでもうて哀しがっとるんやないか……』

 ようやくこんがらがった糸がほどけたような気がして佐藤の心に少し晴れ間が浮かぶ。

「へ、へぇ~、そうなんやぁ。ど~れどれ、ボクの写真もあるんかいな?──って、あるわけないやろっ! ……ハ、ハハ……」

 ちゃうやん。
 佐藤はまた思考を巡らせる。

──ここで言わなあかんのは『お婆さん、本当にみんなのこと想っててくれたんだね……(標準語)』とか、そういう気のきいた台詞やないのけ?

 そんな思いが頭の中でさっきから二周も三周もしている。そしてこうも思った。『なんで、こんな一言一言が重いんやろ』と。さらには何故か『あのヴァン=ブランって奴やったらこんな時、なんて言うんやろ?』そんなことが思わず頭に浮かんだ。

「その傷どうしたの。 大丈夫?」

 そうかと思えばギリーはこんな優しい言葉をかけてくれる。佐藤はそのたび完成途中のビルを壊し、新たに土台から建設しなければならない気分だった。

「ちょ、ちょっとな。ハッシュのアホがけったいなこというさかいこらしめてやったんや!」

 そしてオスというものは何故か言わなくてもいいことまで意気揚々て語ってしまうのである。

「でもな、ボクが勝ったんやで! まあ、ぜんぜんあいつなんか相手にもならへんけどな」
「そう…… 」

 そして大抵の場合、オスがメスに期待する言葉はこうだ。

(──まぁ、すごいのね、サトー!)
(──素敵、見直しちゃった、サトー!)

 そんな類の言葉である。

「喧嘩はよくないよ、サトー。私、乱暴な猫ってあんまり好きじゃないな……」

 そう。そして大抵の場合、そんな幻想は無惨にも打ち崩されるのである。

 もはや改めて土台を築く気力すら失った佐藤を残し、ギリーはそのまま和室を出ていこうとした。すると──

 いつから聞いていたのか、ヴァン=ブランが戸口に座り込んでこちらを見ているではないか。

「そんなことはないぞ。オスにとって闘いは必要不可欠だ」
「ヴァン……」

 ギリーの口はそう動いたように見えたが果たしてそれが声になっていたのかは微妙なところであった。場の空気の揺れが収まらぬうちにギリーはその場から逃げるように走り出していた。

 ヴァン=ブランは「ふむ」とうなると、そのままずかずかと部屋の中に入ってきた。

「サトーとかいったな。今朝はいい闘いっぷりだった。おまえはなかなか筋がいい」
「そらどうも……」
「?」

 佐藤は軽くため息をついた。

「はは~ん」
「な、なんですのん?」
「さては、おまえ」
「だ、だからなんやねんな、もう。気持ち悪いな」

 ヴァン=ブランはあっはっはと笑った。

「うん、ギリーはいいメスだぞ。純粋だし、性根が優しい。ちと、子供っぽいところもあるがそこもまた魅力だ」
「ボ、ボクは別に!! ちゃいまんねんな、その……」
「オス同士だ。隠すことはなかろう。……ん?」

 ヴァン=ブランは足もとのアルバムに目をやった。

「婆さんのやつ、こんな写真を後生大事に持ってたのか。こりゃ懐かしいな! 見ろ、俺がまだおまえくらいだった頃の写真だ」

 色褪せたその写真にはこまっしゃくれた顔をした腕白ざかりのヴァン=ブランが写っていた。

 もう一枚はギリーとのツーショットだ。写真の中のヴァン=ブランは欠伸をしながらギリーの頭の上に前足を乗っけている。一方、ギリーは納得のいかない顔でヴァンを見上げていた。

「たいていの連中もそうだが、ギリーも俺が拾ってきたんだ。熱中症でぶっ倒れてたのを見つけてな。ギリーのやつ、まだオスかメスかの区別もつかないな、こりゃ傑作だ」

 そうやって器用にページをめくっていくヴァン=ブランと一緒になって写真を眺めていた佐藤はに気付いてしまった。

 ヴァンが映っているほとんどの写真には決まって隣にギリーの姿があったのだ。

 網戸にせみがとまった。

 大きな熊蝉くまぜみだった。

 佐藤はいつかのギリーの言葉を思い出していた。

(私、歌の上手な猫って好きよ──)

 あれは………。

──ボクのことやあらへんかったんや。

 佐藤の心の何処かにこれまで存在しなかった感情が音をたてて芽生え始める。そして、その音は熊蝉の鳴き声を掻き消すほどに、今、急速に大きさを増しつつあった。

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