王女殿下の死神

三笠 陣

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本編 王女殿下の死神

序 王族の少女と魔術師の少年

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「魔術というのは、興味深いな」

 普段はくらい瞳をした幼い少女が、その時ばかりは目を好奇心で輝かせていたのをリュシアンはよく覚えている。
 もう何年も前の話だ。
 週に必ず一度、リュシアンはエルフリードと呼ばれる同い年の少女と会うことになっていた。会うたびに、彼は彼女に新しく覚えた魔術を披露していた。
 ロンダリア連合王国に数少ない、“魔導貴族”の称号を持つエスタークス伯爵家に生まれたリュシアンにとって、魔術とは日常の一つであり、特段珍しいものではない。
 しかし、生まれつき魔力を持たない多くの人間にとって、魔術というのは神秘の宝庫であるらしい。
 いや、それは魔術師たちも同じだ。彼らは魔術を崇高なるもの、偉大なるもの、神聖なるもの、と捉えている。
 それはつまり、リュシアンの認識の方が世間一般からずれていることだ。

「う~ん、そうかなぁ?」だからこの時も、彼は少女の言葉に首を傾げた。「僕にとっては、科学の方が興味深いけど」

「お前は変わった魔術師だな」

 くすりと、少女は小さく笑った。その顔を綺麗だと、リュシアンは思う。
 幼いながらも凛々しく引き締まった面立ち、長く艶やかな黒髪、そして男勝りとも思える格式ばった口調。自分と同じ八歳だというのに、エルフリードは随分と大人びていた。
 いや、本当はそう演じているだけなのだと、リュシアンは知っている。そのことを幼いなりに理解していた。それは、彼女を取り巻く環境からすれば仕方のないことなのかもしれない。
 エルフリードがいつまでも子供のままでいることを、彼女の周囲が許さないのだ。
 そして、リュシアンはそれがひどく気に入らなかった。彼女をそうさせてしまった大人たちが、彼は嫌いだった。

「しかし、科学の方が興味深いと言う割には、私に会うたびに魔術の腕は上達しているようだぞ」

 エルフリードはそうしたリュシアンの心の内を知っているのか知らないのか、彼の前だけでは年相応の態度を見せる。この時も、相手の成長を子供らしい素直さで褒めていた。

「うん、鍛錬と研究を欠かすと、父上がうるさいからね」

「ああ、お前の父親は確かに生粋の魔術師そのものだからな」

「そうそう、一日中屋敷の研究室に籠っていても平気な人間だからね。困ったもんだよ」

 リュシアンは父親が嫌いな訳ではなかった。ただ、もう少し自分のことも構ってほしいという、子供なりの甘えと反抗心があるだけだ。

「そういうリュシアンは、どんな魔術師になりたいのだ?」

「僕の将来は、魔術師で決定な訳?」

 まだ将来というものを、この時のリュシアンははっきりと意識したことはなかった。だからそれは、自然な疑問でもあった。

「私の決定だ。何か不満か?」少しだけ悪戯っぽく、彼女は笑う。「魔術について語るお前は、すごく楽しそうだぞ?」

 少女の指摘に、リュシアンははにかむような笑みを見せた。

「……うん、楽しいよ、すっごく」

「ほら、私の見立ては間違いではないだろう?」

 少女は勝ち誇ったように胸をそらした。そんな幼い振る舞いを見せてくれることが、リュシアンには嬉しかった。

「魔術も科学も、自分の知らない世界を知ることは何でも楽しいんだ」

 だからついつい、リュシアンも本音を口にしてしまう。科学に興味があるなど、魔術信奉者の父親が聞けば顔をしかめるだろう内容である。

「だから正直、僕は自分の未来のことがよく判らないんだ。一応、家を継いで魔術師にならなきゃならないことは判っているんだけど」

 自身の曖昧さを恥じるように、かすかに頬を赤らめてリュシアンは続ける。

「伯父さんみたいな外交官も面白いんじゃないかって、最近じゃ思ってる。それで世界中を回って、今まで見たこともない国を渡り歩く。あるいは、世界中の魔導遺跡を調べて回るのも面白いかもしれない」

 なりたいものは決まっていない。でも、やりたいことは沢山ある。
 子供故の無邪気な好奇心を、リュシアンは熱っぽくエルフリードに語ってみせた。
 楽しそうなリュシアンにつられて、少女も自然と笑みを深くする。

「私はもう決まっているぞ」

 今度は自分の番、とばかりに、自慢げにエルフリードは言った。

「軍人だ。十歳になったら士官学校の入学資格が与えられる。そこから騎兵科で三年間在学し、十三で少尉任官だ」

 少女の発言に、リュシアンは驚くよりも納得してしまった。もともと、剣術を得意としている子だ。軍人に興味を持ったとしても、何ら不思議ではない。
 だが果たして、彼女の周囲はそれを許すだろうか? ふと、リュシアンは疑問に思ってしまった。

「君なら、きっとすごい軍人になれるよ」

 本心からなのか、慰めからなのか、本人も判らぬままそんなことを口にしていた。

「……礼を言う」

 エルフリードは夢を認めてくれたことがよほど嬉しかったのか、顔を赤らめてそう言った。逆にそれは、彼女の周囲がその夢を認めていないことの裏返しでもあるのだろう。リュシアンはそれが悲しくてならなかった。

「だから、お前がその目で見届けてくれ」

 まっすぐにリュシアンの目を見つめながら、エルフリードは言った。真剣な口調だった。

「私の行く末を、お前が、私の傍で。私もお前の傍で、お前がどんな夢を描くのか、見届けてやる」

 それは幼い少女の、心からの願いであり、宣誓であった。
 多分、自分はこの時のエルフリードの表情を、声を、一生忘れることはないだろうと、リュシアンは思った。なぜなら、自分だってそう在りたいと願っていたのだから。

  ◇◇◇

 自分がここまで心を許している人間は、リュシアンという少年だけだろうとエルフリードは思う。
 最初は、あの男の子も他の貴族やその子弟たちと同じ、凡百の連中だと思っていた。自分のところに来る連中は皆、愚にもつかない世辞を述べては去っていく。
 お付きの侍女たちは自分のことを気に掛けてくれているようで、その実、自分をロンダリア連合王国の王女という記号でしか見ていない。
 リュシアンと初めて出逢ったのは、六歳の時。
父親であるマルカム三世の誕生日を祝う煌びやかな宮中晩餐会の席上でのことだった。
 外務次官を務める伯父に連れられた、自分と同年齢の子供。
 最初は、その程度の認識しかなかった。
 くすんだ茶色の髪に赤紫の目。社交の場に慣れていないのか、いささか頼りなさげな表情を浮かべていた顔。
 これが将来、魔導の大家エスタークス家の当主になれるとは到底思えなかった。
 本当は無視を決め込みたかったのだが、そういう訳にもいかなかった。何故なら、その同年齢の男の子は、自分の婚約者候補だったからだ。
 外務次官クルーアリン公ライオネル・ド・モンフォートは実に巧みな男だった。実子のいない彼にとって、妹が嫁いだエスタークス伯爵家の一人息子は、政略結婚のための道具なのだ。
 伯父に紹介されている間も、リュシアン・エスタークスという男の子は自分から積極的に発言することはなかった。ただ伯父の陰に隠れるようにして、こちらを見ているだけであった。
 だが、そうしたリュシアンの態度は、エルフリードにとっては好都合に思えた。
 自分はあの時、この魔術師の息子との結婚によって得られる利点を、幼いながらに必死に考えていた。
 まず、魔導の大家エスタークス家との繋がりが出来る。それを介してモンフォート公爵家との繋がりも。
 リュシアンという男の子の態度を見る限り、仮に将来的に結婚することになっても、御しやすそうである。
 モンフォート公爵には実子がいないため、彼はリュシアンに公爵家を継がせることを考えているという。だから最終的には、モンフォート公爵家にも自分の影響を及ぼすことが出来る。
 それは、幼心にある野心を抱いているエルフリードには魅力的な将来像に思えた。
 このリュシアン・エスタークスという貴族の息子を、自分の下に繋いでおきたい。お気に入りの玩具に対するような、子供じみた支配欲と独占欲。
 それがこの時、エルフリードが初対面の男の子に対して抱いた感情であった。





 それからエルフリードは、魔術に興味があるという口実でリュシアンを週に一度、呼び出すことにした。
 父親である国王も、魔導の大家の息子が他の貴族、いや最悪、他国の貴族との繋がりを得ることを恐れたのか、リュシアン・エスタークスを婚約者候補の筆頭にしていた。
 リュシアン本人以外の人間たちの奇妙な利害関係の一致により、王女と魔術師の息子は関係を深めていくこととなった。
 最初の出逢いから数日後、再び邂逅を果たしたエルフリードは、この頼りなさそうな男の子に上下関係を叩き込むことを目指した。
 出来る限り相手が萎縮するように、王女としての威厳を込めて自分の前で魔術というものを披露するように命じたのだ。

「いいけどさ」

 おどおどした調子でこちらの言うことに従うのかと思っていた相手は、だが怪訝そうな口調でそう言ってきたのだ。

「魔術に興味がある、っていう割にはどうしてそんなに昏い目をしているの? せっかく綺麗な顔をしているのに、勿体ないよ」

 そこには一切の世辞も、下心も何もなかった。何の衒いもなく、ただ思った通りの感想を言っただけ。
 それはある意味、エルフリードにとって新鮮なものだった。

「……これは生まれつきだ。気にするな」

 意外すぎる反応に一瞬言葉に詰まりながら、エルフリードは極寒の声でそう命じた。

「あと、世辞は要らん。不愉快だ」

「お世辞じゃないよ。髪だって綺麗だし、うらやましいくらいだよ」

 自分の髪は、長く癖のない黒髪だ。
 今でこそ長くさらりとした黒髪は自分の自慢だが、その時はただ鬱陶しいだけのものでしかなかった。だから、自分の髪を気に入る切っ掛けを作ったのはリュシアンなのだ。
 彼は自分のくすんだ茶色で、跳ねっ気のある髪を気にしていた。だから君の髪が羨ましい、とリュシアンは言ったのだ。

「……お前は、他の奴らとは違うな」

 眉にも頬にも、まして瞳にも感情を映すことなくことなく、エルフリードはそう言った。彼女は六歳という年齢にしては濃すぎるほど陰鬱な雰囲気を纏った少女だった。

「私の機嫌を取ることしか頭にない侍女や、世辞を言うしか能のない貴族どもとは違う。お前は誇っていいぞ」

 どこまでも冷ややかに鋭く、エルフリードはリュシアンをそう評した。
 だが、リュシアンには物怖じした様子がまるでなかった。思えば、最初の会話でも、この男の子は自分を恐れる素振りは見せていなかった。

「……君がそんなに昏い目をしている理由が判ったよ」

 ただこの少年は、ちょっと悲しそうな顔で微笑むのだ。

「でも、やっぱり僕と同い年の女の子がそんな目をしているのは許せないな」

「……お前に私の心配をされる必要はない」

 それは、今までずっと一人きりで過ごしてきた自分なりの意地だった。
 自分の心は自分だけのものだ。誰かに心を開く必要などない。そう思っていた。

「違うよ、君が心配なんじゃない」リュシアンはにっこりと、人を安心させるような柔らかい笑みと共に言った。「単に、僕が許せないだけなんだ」

「……」

 幼いながらに、彼の言うことが詭弁だと判った。自分の心に干渉されることが怖かったが、不思議とその笑みのおかげで拒否感はなかった。

「だからさ、僕が君を絶望から救う。この世界は君を絶望させるだけじゃない。世の中には面白いこと、楽しいことがたくさんあるんだよ。僕がそれを教えてあげる」

 それは二人の間で最初に交わされた約束。リュシアンの一方的なものであったとしても、確かにそれは、二人が交わした神聖な約束だったのだ。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

 あるいはそれは、幸せな夢であったのかもしれない。
 眠りと覚醒の狭間を漂いながら、リュシアンはそう思った。

「リュシアン、起きろ」

 聞き慣れた声が、自分を呼んでいる。

「起きろと言っている、リュシアン」

「……ああ」

 と、気怠い声で返事をして、リュシアンはゆっくりと目を開けた。光に目が慣れ始め、ぼんやりとした視界が少しずつはっきりとしてくる。
 エルフリードが、自分の顔を覗き込んでいた。長くさらりとした黒髪が、リュシアンの顔にかかっている。少し、くすぐったいと思った。

「それで、どうしたの、エル?」

 長椅子に寝たままの姿勢で、リュシアンは訊いた。

「どうしたの、ではない」エルフリードはいささか不機嫌そうな口調で言う。「まったく、真っ昼間からだらしなく眠りおって。それで、ファーガソンの狐めがお前を呼んでいるぞ」

「そう」

 リュシアンが緩慢な動作で起き上がろうとすると、エルフリードが腕を引っ張ってそれを助けた。

「まったく、主人に起こしてもらう従僕など、世界広しといえどお前だけであろうよ」

 怒りの色のない、怒った声でエルフリードは上体を起こしたリュシアンを見下ろした。

「うん、ありがとう」

 その声は、どこか感情を置き忘れたかのように茫洋と響いた。ただ寝起きだからというだけではない空虚さが、リュシアンの声にはあった。
だが、エルフリードの顔に不快の色はない。
 長椅子から体を下ろしたリュシアンが立ち上がると、視線の高さが逆転する。同年代の男性に比べればリュシアンの身長は低いのだが、それでもエルフリードの頭が彼の鼻の下あたりに来る程度には、身長差があった。
 出会った当初は同じくらいの身長だったことを考えると、夢の所為か、時の流れを感じてしまう。
 リュシアンもエルフリードも、今年で十六になる。最初の出会いから、すでに十年の歳月が経っている。
 あの時、昏い瞳をしていた少女は今、かつての目標であった士官学校入学を果たし、現在は陸軍大学校に在籍している身である。
 それに比べて、自分はどうなのだろう……。

「……夢見が悪かったのか?」

 疑問というよりはほとんど確認めいた口調でエルフリードは訊いた。リュシアンが表情らしい表情を失ってなお、彼女はこの幼馴染にして婚約者で、そして今では部下でもある少年の心の機微を敏感に捉えることが出来ていた。

「いや」リュシアンは小さく首を振った。「ただ、懐かしい夢を見ていただけだよ」

「そうか」

 それ以上、エルフリードは追及しなかった。過去のことはどうしたって、リュシアンにとって苦痛でしかないことを判っているからだ。

「私はこの後、宮中での午餐会に参加せねばならん。南ブルグンディアの宰相が来ているのだ。我が王国がかの国と友好関係にあることを内外に示すための、下らん式典だな」

 エルフリードは話題を実務的なものに変えた。

「取りあえず、私が午餐会から帰ったら、あの狐から何を言われたか詳細に報告しろ」

 王女としてのエルフリードは、自分の権限が侵されることをひどく嫌う人物だった。自身の婚約者であり専属魔導官であるリュシアンに関することになると、その傾向はいっそう顕著に表れる。

「ふん、今日はファーガソンのことといい、午餐会のことといい、不愉快なことばかりだな」

「俺の件は判るけど、午餐会は王族としての義務だからね。諦めるしかないよ」

「別に、王族の義務を果たすことに否やはない。私が不愉快なのは、わざわざ煌びやかな女物の衣装を身に纏わねばならんことだ」

 心底不満そうな口調だった。

「まあ、そんなことだろうと思ったけどね」

 剣術を修め、騎兵科将校でもある彼女は、男物の衣服を好む。それゆえ、女物の衣装に身を包むことへの苦手意識が激しかった。
 今だって、女性的な体の膨らみに乏しく、長い黒髪以外に女性的な特徴のない彼女は、まるで少年のような出で立ちである。

「でも、エルならどんな服でも似合うと思うよ」

 抑揚に乏しい淡々とした声だったが、エルフリードはその言葉で幾分機嫌を取り戻したようであった。
 彼女は小さく溜息を吐き、言った。

「お前がそう思ってくれていることを唯一の慰めとしよう」

 もう一度、エルフリードは溜息をついた。

「では、私はもう行くぞ。侍女どもが衣装を持って待機しているのでな。ああ、ファーガソンの方はあえてゆっくり向かって構わんぞ。存分に待たせてやれ」

 後半は嫌味の籠った口調で言うと、エルフリードは扉の外へ消えてしまった。
 わざわざリュシアンを起こすためだけに来たらしい。彼女に付いている侍女に任せればいいようなことだが、エルフリード自身がやりたかったのだろう。
 あるいはそれは、彼女の支配欲の表れだろうか。
 それならそれで、リュシアンは構わなかった。
 長椅子の背もたれに掛けてある、漆黒の大外套を取る。
 全身をすっぽりと覆うことの出来る大きさのそれを纏いながら、もう少し夢の余韻を楽しんでいたかったなと、リュシアンは何となくそう思った。
 鏡に映る白髪赤眼の少年の姿はきっと、あの頃の自分が望んでいた未来像ではないのだから……。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
  あとがき

 本作はもともと、魔術もアリの異世界架空戦記を目指して構想していたもので、設定の部分、ヒロインが陸軍大学校に在籍していた頃の部分を、中編小説として執筆したものになります。

 多くのライトノベル系小説では、ヒロインの婚約者は主人公との恋路を妨害する敵役として描かれていますが、今回はあえて主人公とヒロインは婚約者の設定にしました。
 婚約者となったからこそ救われる人間がいてもいいではないかという思いと、「恋愛」という概念が近現代以降の世界観でしか通用しないものだと考えたからです。
 主人公とヒロインの間に恋愛感情があるのかどうか、正直、筆者にも判りかねています。
 ただ、どちらかというと、共依存関係のようなものを目指して描写しています。

 さて、主人公たちが属するロンダリア連合王国ですが、イギリス、オランダといった近世に海洋覇権を確立していった国家をモデルとしています。割合としてはイギリスが大きいですけれども、大陸国家という設定です。
 技術レベルは、十九世紀中頃程度。ただし、魔導技術の存在によって一部、現実世界とは技術発展の速度に違いが出ています。
 そして、ロンダリアと海洋覇権を巡って対立するヴェナリア共和国のモデルは、中世のヴェネチアです。
 こうしたことを、追々、作中でも描写していこうと思います。
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