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過去編 王女殿下の初陣
1 魔術師到着
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子供の頃、世界はもっと面白いものだと思っていた。
世界は未知に溢れていて、興奮と驚きを与えてくれる存在だと思っていた。父のように魔術師としてこの世の真理を解き明かし、伯父のように外交官となって見知らぬ異国の地を巡る。
そんな未来を思い描いていた。
その未来は自分の中で確かに色を持っていた。
そんな未来を見せてあげたいと思う少女がいた。
世界のことを理解していない子供の、無知で無邪気で愚かな妄想だ。夢と呼ぶことすらおこがましい、幻想に過ぎない。
幻想はいずれ、現実の前に消え去ってしまう。そんなことも理解出来なかったからこそ、子供は子供なのだろう。
そして現実は、子供のそうした幻想が続くことを、決して許そうとはしないのだ。
◇◇◇
「着いたぞ、エスタークス魔導官」
列車の停止する軽い衝撃と共に、リュシアン・エスタークスは目を覚ました。
少しばかり跳ねっ気のある白髪に、赤い瞳をした小柄な少年だった。そしてその体躯を、不釣り合いと思えるようなフード付き大外套で包んでいる。フードの下に隠された顔は、いささか不健康に感じるほどに青白かった。
「ああ、そう」
寝起き直後の緩慢な動作で、彼は首を振って座席から立ち上がった。リュシアンの座席の正面では、軍服に身を包んだ長身痩躯の男性が網棚から行李を降ろしていた。肩には、参謀の証である飾緒を吊っている。
「オークウッド大佐殿、お持ちいたします」
すでに片手に行李を下げていた少佐の階級章を下げた若い軍人がそう言う。
「構わん、自分の荷物くらい自分で持つ。貴官は参謀本部の一員であって、私の従兵ではなかろう」
参謀飾緒を吊った大佐―――アラン・オークウッドは、部下であるエリオット・ライアン少佐に向かって軽く手を振った。
「それにしても、鉄道というのは便利だな。王都からアレンシア州まで、十時間で到着してしまうとは」しみじみとした口調で、目の前の参謀は言う。「エスタークス魔導官、貴官もそうは思わんかね?」
「そうだね。寝ている内に着けるのはいい。翼竜だとこうはいかないから。体も冷えるし」
抑揚に乏しい淡々としたリュシアンの言葉に、参謀は苦笑を浮かべた。そのまま、オークウッド、ライアン、リュシアンの順で客車を降りる。
後続の客車からは武装した兵士たちが次々と駅へと降り立ち、将校たちの号令の下に整列、点呼を受けていた。
オークウッド大佐はちらりとその光景を見て、リュシアンたちに向き直る。
「さて、ライアン少佐、エスタークス魔導官。我々も仕事に取り掛かるとしよう」
◇◇◇
ロンダリア連合王国西部国境の州、アレンシア。
国境に近い中世の街並み残る地方都市の一ホテルを接収して、ロンダリア陸軍西部方面軍は前線司令部を設置していた。
「参謀本部の一大佐が、私に何の用だね」
司令官執務室としている一室で、西部方面軍司令官フィリップ・チェスタートン大将は不機嫌と警戒感の混じった表情でオークウッドとライアン、そしてリュシアンを迎えた。
「それと、そこの子供は何だね?」チェスタートンは白髪赤目の少年に目を向ける。「ここは子供の遊び場ではないぞ」
「彼は魔導貴族エスタークス伯爵家当主リュシアン・エスタークス卿です」オークウッド大佐は相手の感情を無視するように、事務的な口調で答えた。「まあ、参謀本部といえど魔術の専門家は少ないもので」
「ふん、『王室陸軍最良の叡智』とは名ばかりか。このような子供に頼るなど」
「彼は若干十四歳にして、陛下より勅任魔導官に任じられた者です。子供と侮るわけにはいきますまい。ああ、機密保持ならご心配なく。この少年はこれでも、王室機密情報局長ハリー・ファーガソン准将の下で働いておりますので」
「そのようなことはどうでもよい」
自分で尋ねておきながら、チェスタートンは強引に話を遮った。
「現在、我が西部方面軍は作戦行動中である。参謀将校の前線視察に付き合っていられるほど暇ではないのだ」
チェスタートンの口ぶりからは、オークウッドらを早く追い払いたい思惑が透けて見えていた。
不拡大方針を無視し、独断専行で軍を動かしたことに後ろめたさは感じていないようであったが、それでもオークウッドらが自分たちの行動を掣肘しようとしていることは感じているらしい。
「ご心配なく。私たちに残された時間もそれほど多くはありませんので」
事務的な口調を崩さずに言ったオークウッドは、リュシアンに目配せをした。リュシアンは外套の内側から、証書などを丸めて入れるための筒を取り出し、中に入っていた書類をチェスタートンに示した。
「陛下より、閣下の伯爵位を剥奪するように言われております」オークウッドは言う。「さらに、それに合わせて軍務省からは閣下の西部方面軍司令官の職を解き、予備役に編入するとの通達も承っております」
今度は、オークウッドが軍務省陸軍局人事部の辞令書を示した。
「一介の大佐が、何の根拠があってそのようなことを言うのだ」
怒りと不満を押し殺した声と共に、チェスタートン大将はオークウッドを睨みつける。
「根拠は明白ではありませんか?」茶番劇を演じる役者のような声で、オークウッドが言った。「閣下は軍令に違反された。それ以上の根拠が必要ですかな?」
「私は、陛下から軍をお預かりしているのだ。腰抜けの政治家どもの妄言に従う理由はない。いったいいつから、参謀本部は政治屋の代弁機関に成り下がったのか!?」
それは追い詰められた者の逆上ではなく、むしろ出来の悪い生徒と叱りつける教師のような調子であった。
「そもそも、我ら貴族とは陛下より領地と兵権を預けられた存在である! それに対して政府や議会が介入するのは、統帥権の干犯であり、これは陛下に対する大逆罪と言わねばならない! オークウッド大佐、貴官にはその自覚があるのか!?」
ホテルの主人が設えたのだろう趣味の良い広間に、軍人の大音声が響き渡る。リュシアンはちょっとだけ眉をしかめて五月蠅そうな表情を作った。
「最早そのような時代は終わったのですよ、チェスタートン大将閣下」
オークウッド大佐は首を振りながら、冷静に反論した。
「確かに陛下は統治権と統帥権を持つお方であらせられる。だが、その大権は陛下を輔弼する任を負った内閣とそこに属する大臣を通して我ら臣民に示されるものであり、一介の軍司令官が示すものではないのです」
大陸歴五〇〇年代前半は、各国で近代的な国家制度が整えられつつある時代であった。
当然、そこには新しい体制・価値観に馴染めない古い人間たちが存在する。
近代的軍事制度の一つである参謀本部は、ロンダリア連合王国では約三〇年前の軍制改革の際に設置された組織であった。それ以前の軍隊というのは、各領地を支配する貴族が連隊を創設し、それらの部隊が国王に直結する制度となっていた。
このフィリップ・チェスタートンという貴族軍人も、幼少期から青年期にかけてはそうした時代を生きてきたのである。そして、そうした旧来型貴族の価値観を持つ将軍は、往々にして参謀本部という新設の組織を軽んじる傾向があった。
チェスタートンが参謀本部の不拡大方針を無視した原因は、そこにあったのだ。
しかし、彼の言うような統帥権は、もはや存在しない。貴族が軍の中心的存在であった時代は、チェスタートンの青年時代にすでに終わりを迎えていたのである。
もちろん、今でも軍には多数の貴族が存在している。従軍は、ある意味で貴族の義務であり、誇りでもあるからだ。しかし彼らは士官学校などで教育を受けた者たちであり、家業の延長線のような形で連隊運用に携わっていた前近代的な貴族ではない。
「閣下を軍令違反の咎で拘束させていただきます。憲兵!」
オークウッドが叫ぶと、扉の外で待機していた憲兵隊が雪崩れ込んできた。あっという間に、チェスタートン大将(今や予備役ではあったが)は拘束されていく。
「貴様、西部方面軍は作戦行動中であるぞ! 暴戻なる北ブルグンディアの輩どもに、国土を明け渡すつもりか!?」
「軍隊というのは、常に誰かが死ぬことを前提にした組織です。司令部がまるごと全滅したらばともなく、閣下の身一つくらいであれば作戦行動に支障は生じません」
冷徹に言い放ったオークウッドの言葉を最後に、チェスタートンは部屋の外に連れ出されていった。
「……案外、呆気なかったね」
どうでもようさそうに、リュシアンは言った。
「まあ、多少抵抗したところで、どうにかなるものでもあるまい」
「それもそうか。で?」
相変わらず、感情を感じさせぬ素っ気ない口調でリュシアンは続きを促した。
「これより参謀本部は、西部方面軍に対する“作戦指導”を開始する。ライアン少佐」
「はっ!」
「君は方面軍司令部の参謀連中を集めてくれ。参謀本部の作戦構想の伝達が必要であるし、彼らの中にも拘束すべき者がいる」
すでに参謀本部では、チェスタートンだけでなく、彼の独断専行を煽った一部の功名心の強い参謀たちの存在も掴んでいた。そうした人間たちを放置していては、指揮系統を混乱させるだけである。
そして、そうした情報をもたらしたのが、国王直属の情報機関、王室機密情報局であった。
「はっ、ただちに招集いたします!」
ライアン少佐は敬礼すると、廊下を駆けていった。
「今回の件は、旧時代的な価値観しか持たん貴族軍人へのいい見せしめになるだろう」
「ほんと、大佐もファーガソンもそうだけど、大人って謀略が好きだよね」
皮肉でも呆れでもなく、ただ観察するような表情をリュシアンはオークウッドに向ける。
「エスタークス勅任魔導官、貴官もいずれ判るようになるさ」
「だろうね、いつまでも子供でいられるわけでもないし」
先ほどとは違い、妙に実感の籠った、そして何かを呪うような陰鬱な声だった。
「さて、ここからは参謀本部作戦課の腕の見せどころだな」
気負いのない調子で、オークウッドはリュシアンに語り掛ける。彼は、参謀本部第一部第二課(作戦課)課長の地位にあるのだ。
彼は参謀総長、そして第一部長の代理として、この地に送り込まれた人間であった。
西部方面軍と第二十三師団の独断専行によって拡大した国境紛争、その事態を重く見たロンダリア国王マルカム三世は軍務大臣に対して、敵に占領された地域の奪還のための軍事行動を命じたのである。
ただし、この際もロンダリア側の主張する国境線を過度に越えることは戒めるよう、国王から軍部に対して注文が付けられている。
軍務大臣を始めとする内閣も、国王の方針に賛成であった。突発的な国境紛争から全面戦争に突入するような事態は避けなければならない。
国王と内閣の意向を実現するため、西部方面軍の統制回復と“作戦指導”を名目とした指揮権の掌握。
それが、オークウッドの目的であった。
一方のエリオット・ライアン少佐は作戦課の少壮課員であり、今回はオークウッドの補佐として同行していた。
「姫のことは?」
「慌てるな、エスタークス勅任魔導官」参謀本部の大佐は、少年に向かって苦笑を浮かべた。「貴官が姫殿下のことを気にするのは判るが、貴官に勝手に動かれるわけにもいかんのだ」
「俺は姫の専属魔導官でもあるからね。あまりあんたたちの行動が遅いと、勝手に動くよ」
「さっきの光景を見ていて、それを言うかね?」
呆れた視線を、オークウッドは目の前の少年に向ける。
チェスタートン大将が拘束される場面に立ち会って、その直後に単独行動を宣言するとは。
よほど姫殿下が大切か、よほど太い神経をしているのだろう。オークウッドはそう思った。とはいえ、彼としても前線陣地に籠るエルフリード王女のことは考慮に入れている。
というよりも、王族が捕虜にでもなれば今後の外交交渉に差し支える。戦死してくれるならば英雄として祭り上げればそれで済む話だが、捕虜となればそうはいかない。
レナ高地に依る騎兵第十一連隊は、本来であれば後方の部隊と速やかに配置換えをすべきだろう。だが、第二十三師団は壊乱状態であり、即座に別の部隊を送り込むことは難しい。
レーヌス河右岸の各地に部隊の配置を完了するまで、今しばらく時間がかかるだろう。
「とにかく、王女殿下の存在は、今後の作戦行動に関わってくる要素だ。疎かにはせんよ」
「そう」リュシアンは、感情を映さない赤い瞳でオークウッドを見上げた。「じゃあ、俺は外で暇を潰しているから、必要なら呼んで」
「うむ、我々も魔術師という存在は貴重だ。貴官には頼らせてもらうとしよう」
ホテルの前に通りに出ると、王都と違い、まるで活気がなかった。
国境付近で戦闘が起こっているために、レーヌス河にほど近いこの街では、流言飛語に惑わされて疎開してしまった住人もいるらしい。
一応、街中に混乱が起きないように交差点などでは憲兵が目を光らせており、そのために街ゆく人々の顔には不安が現れていた。
これが、世界の姿だというのか?
幼いころには、思い描きもしなかった世界の側面。
この街にはまだ戦禍が及んでいないが、国境付近はどうなっているのだろう?
そんな世界が、自分が幼馴染の少女に見せたかった光景だとでもいうのだろうか? あるいは、その少女自身が望んだ光景だとでもいうのだろうか?
未だ戦禍に包まれていないはずの街で、リュシアンは硝煙と死体の腐臭を嗅いだような気がした。
「……エル、無事でいてよ」
ぼそりとリュシアンは少女の愛称を、エルフリード・ティリエル・ラ・ベイリオルの名を呼んだ。
世界は未知に溢れていて、興奮と驚きを与えてくれる存在だと思っていた。父のように魔術師としてこの世の真理を解き明かし、伯父のように外交官となって見知らぬ異国の地を巡る。
そんな未来を思い描いていた。
その未来は自分の中で確かに色を持っていた。
そんな未来を見せてあげたいと思う少女がいた。
世界のことを理解していない子供の、無知で無邪気で愚かな妄想だ。夢と呼ぶことすらおこがましい、幻想に過ぎない。
幻想はいずれ、現実の前に消え去ってしまう。そんなことも理解出来なかったからこそ、子供は子供なのだろう。
そして現実は、子供のそうした幻想が続くことを、決して許そうとはしないのだ。
◇◇◇
「着いたぞ、エスタークス魔導官」
列車の停止する軽い衝撃と共に、リュシアン・エスタークスは目を覚ました。
少しばかり跳ねっ気のある白髪に、赤い瞳をした小柄な少年だった。そしてその体躯を、不釣り合いと思えるようなフード付き大外套で包んでいる。フードの下に隠された顔は、いささか不健康に感じるほどに青白かった。
「ああ、そう」
寝起き直後の緩慢な動作で、彼は首を振って座席から立ち上がった。リュシアンの座席の正面では、軍服に身を包んだ長身痩躯の男性が網棚から行李を降ろしていた。肩には、参謀の証である飾緒を吊っている。
「オークウッド大佐殿、お持ちいたします」
すでに片手に行李を下げていた少佐の階級章を下げた若い軍人がそう言う。
「構わん、自分の荷物くらい自分で持つ。貴官は参謀本部の一員であって、私の従兵ではなかろう」
参謀飾緒を吊った大佐―――アラン・オークウッドは、部下であるエリオット・ライアン少佐に向かって軽く手を振った。
「それにしても、鉄道というのは便利だな。王都からアレンシア州まで、十時間で到着してしまうとは」しみじみとした口調で、目の前の参謀は言う。「エスタークス魔導官、貴官もそうは思わんかね?」
「そうだね。寝ている内に着けるのはいい。翼竜だとこうはいかないから。体も冷えるし」
抑揚に乏しい淡々としたリュシアンの言葉に、参謀は苦笑を浮かべた。そのまま、オークウッド、ライアン、リュシアンの順で客車を降りる。
後続の客車からは武装した兵士たちが次々と駅へと降り立ち、将校たちの号令の下に整列、点呼を受けていた。
オークウッド大佐はちらりとその光景を見て、リュシアンたちに向き直る。
「さて、ライアン少佐、エスタークス魔導官。我々も仕事に取り掛かるとしよう」
◇◇◇
ロンダリア連合王国西部国境の州、アレンシア。
国境に近い中世の街並み残る地方都市の一ホテルを接収して、ロンダリア陸軍西部方面軍は前線司令部を設置していた。
「参謀本部の一大佐が、私に何の用だね」
司令官執務室としている一室で、西部方面軍司令官フィリップ・チェスタートン大将は不機嫌と警戒感の混じった表情でオークウッドとライアン、そしてリュシアンを迎えた。
「それと、そこの子供は何だね?」チェスタートンは白髪赤目の少年に目を向ける。「ここは子供の遊び場ではないぞ」
「彼は魔導貴族エスタークス伯爵家当主リュシアン・エスタークス卿です」オークウッド大佐は相手の感情を無視するように、事務的な口調で答えた。「まあ、参謀本部といえど魔術の専門家は少ないもので」
「ふん、『王室陸軍最良の叡智』とは名ばかりか。このような子供に頼るなど」
「彼は若干十四歳にして、陛下より勅任魔導官に任じられた者です。子供と侮るわけにはいきますまい。ああ、機密保持ならご心配なく。この少年はこれでも、王室機密情報局長ハリー・ファーガソン准将の下で働いておりますので」
「そのようなことはどうでもよい」
自分で尋ねておきながら、チェスタートンは強引に話を遮った。
「現在、我が西部方面軍は作戦行動中である。参謀将校の前線視察に付き合っていられるほど暇ではないのだ」
チェスタートンの口ぶりからは、オークウッドらを早く追い払いたい思惑が透けて見えていた。
不拡大方針を無視し、独断専行で軍を動かしたことに後ろめたさは感じていないようであったが、それでもオークウッドらが自分たちの行動を掣肘しようとしていることは感じているらしい。
「ご心配なく。私たちに残された時間もそれほど多くはありませんので」
事務的な口調を崩さずに言ったオークウッドは、リュシアンに目配せをした。リュシアンは外套の内側から、証書などを丸めて入れるための筒を取り出し、中に入っていた書類をチェスタートンに示した。
「陛下より、閣下の伯爵位を剥奪するように言われております」オークウッドは言う。「さらに、それに合わせて軍務省からは閣下の西部方面軍司令官の職を解き、予備役に編入するとの通達も承っております」
今度は、オークウッドが軍務省陸軍局人事部の辞令書を示した。
「一介の大佐が、何の根拠があってそのようなことを言うのだ」
怒りと不満を押し殺した声と共に、チェスタートン大将はオークウッドを睨みつける。
「根拠は明白ではありませんか?」茶番劇を演じる役者のような声で、オークウッドが言った。「閣下は軍令に違反された。それ以上の根拠が必要ですかな?」
「私は、陛下から軍をお預かりしているのだ。腰抜けの政治家どもの妄言に従う理由はない。いったいいつから、参謀本部は政治屋の代弁機関に成り下がったのか!?」
それは追い詰められた者の逆上ではなく、むしろ出来の悪い生徒と叱りつける教師のような調子であった。
「そもそも、我ら貴族とは陛下より領地と兵権を預けられた存在である! それに対して政府や議会が介入するのは、統帥権の干犯であり、これは陛下に対する大逆罪と言わねばならない! オークウッド大佐、貴官にはその自覚があるのか!?」
ホテルの主人が設えたのだろう趣味の良い広間に、軍人の大音声が響き渡る。リュシアンはちょっとだけ眉をしかめて五月蠅そうな表情を作った。
「最早そのような時代は終わったのですよ、チェスタートン大将閣下」
オークウッド大佐は首を振りながら、冷静に反論した。
「確かに陛下は統治権と統帥権を持つお方であらせられる。だが、その大権は陛下を輔弼する任を負った内閣とそこに属する大臣を通して我ら臣民に示されるものであり、一介の軍司令官が示すものではないのです」
大陸歴五〇〇年代前半は、各国で近代的な国家制度が整えられつつある時代であった。
当然、そこには新しい体制・価値観に馴染めない古い人間たちが存在する。
近代的軍事制度の一つである参謀本部は、ロンダリア連合王国では約三〇年前の軍制改革の際に設置された組織であった。それ以前の軍隊というのは、各領地を支配する貴族が連隊を創設し、それらの部隊が国王に直結する制度となっていた。
このフィリップ・チェスタートンという貴族軍人も、幼少期から青年期にかけてはそうした時代を生きてきたのである。そして、そうした旧来型貴族の価値観を持つ将軍は、往々にして参謀本部という新設の組織を軽んじる傾向があった。
チェスタートンが参謀本部の不拡大方針を無視した原因は、そこにあったのだ。
しかし、彼の言うような統帥権は、もはや存在しない。貴族が軍の中心的存在であった時代は、チェスタートンの青年時代にすでに終わりを迎えていたのである。
もちろん、今でも軍には多数の貴族が存在している。従軍は、ある意味で貴族の義務であり、誇りでもあるからだ。しかし彼らは士官学校などで教育を受けた者たちであり、家業の延長線のような形で連隊運用に携わっていた前近代的な貴族ではない。
「閣下を軍令違反の咎で拘束させていただきます。憲兵!」
オークウッドが叫ぶと、扉の外で待機していた憲兵隊が雪崩れ込んできた。あっという間に、チェスタートン大将(今や予備役ではあったが)は拘束されていく。
「貴様、西部方面軍は作戦行動中であるぞ! 暴戻なる北ブルグンディアの輩どもに、国土を明け渡すつもりか!?」
「軍隊というのは、常に誰かが死ぬことを前提にした組織です。司令部がまるごと全滅したらばともなく、閣下の身一つくらいであれば作戦行動に支障は生じません」
冷徹に言い放ったオークウッドの言葉を最後に、チェスタートンは部屋の外に連れ出されていった。
「……案外、呆気なかったね」
どうでもようさそうに、リュシアンは言った。
「まあ、多少抵抗したところで、どうにかなるものでもあるまい」
「それもそうか。で?」
相変わらず、感情を感じさせぬ素っ気ない口調でリュシアンは続きを促した。
「これより参謀本部は、西部方面軍に対する“作戦指導”を開始する。ライアン少佐」
「はっ!」
「君は方面軍司令部の参謀連中を集めてくれ。参謀本部の作戦構想の伝達が必要であるし、彼らの中にも拘束すべき者がいる」
すでに参謀本部では、チェスタートンだけでなく、彼の独断専行を煽った一部の功名心の強い参謀たちの存在も掴んでいた。そうした人間たちを放置していては、指揮系統を混乱させるだけである。
そして、そうした情報をもたらしたのが、国王直属の情報機関、王室機密情報局であった。
「はっ、ただちに招集いたします!」
ライアン少佐は敬礼すると、廊下を駆けていった。
「今回の件は、旧時代的な価値観しか持たん貴族軍人へのいい見せしめになるだろう」
「ほんと、大佐もファーガソンもそうだけど、大人って謀略が好きだよね」
皮肉でも呆れでもなく、ただ観察するような表情をリュシアンはオークウッドに向ける。
「エスタークス勅任魔導官、貴官もいずれ判るようになるさ」
「だろうね、いつまでも子供でいられるわけでもないし」
先ほどとは違い、妙に実感の籠った、そして何かを呪うような陰鬱な声だった。
「さて、ここからは参謀本部作戦課の腕の見せどころだな」
気負いのない調子で、オークウッドはリュシアンに語り掛ける。彼は、参謀本部第一部第二課(作戦課)課長の地位にあるのだ。
彼は参謀総長、そして第一部長の代理として、この地に送り込まれた人間であった。
西部方面軍と第二十三師団の独断専行によって拡大した国境紛争、その事態を重く見たロンダリア国王マルカム三世は軍務大臣に対して、敵に占領された地域の奪還のための軍事行動を命じたのである。
ただし、この際もロンダリア側の主張する国境線を過度に越えることは戒めるよう、国王から軍部に対して注文が付けられている。
軍務大臣を始めとする内閣も、国王の方針に賛成であった。突発的な国境紛争から全面戦争に突入するような事態は避けなければならない。
国王と内閣の意向を実現するため、西部方面軍の統制回復と“作戦指導”を名目とした指揮権の掌握。
それが、オークウッドの目的であった。
一方のエリオット・ライアン少佐は作戦課の少壮課員であり、今回はオークウッドの補佐として同行していた。
「姫のことは?」
「慌てるな、エスタークス勅任魔導官」参謀本部の大佐は、少年に向かって苦笑を浮かべた。「貴官が姫殿下のことを気にするのは判るが、貴官に勝手に動かれるわけにもいかんのだ」
「俺は姫の専属魔導官でもあるからね。あまりあんたたちの行動が遅いと、勝手に動くよ」
「さっきの光景を見ていて、それを言うかね?」
呆れた視線を、オークウッドは目の前の少年に向ける。
チェスタートン大将が拘束される場面に立ち会って、その直後に単独行動を宣言するとは。
よほど姫殿下が大切か、よほど太い神経をしているのだろう。オークウッドはそう思った。とはいえ、彼としても前線陣地に籠るエルフリード王女のことは考慮に入れている。
というよりも、王族が捕虜にでもなれば今後の外交交渉に差し支える。戦死してくれるならば英雄として祭り上げればそれで済む話だが、捕虜となればそうはいかない。
レナ高地に依る騎兵第十一連隊は、本来であれば後方の部隊と速やかに配置換えをすべきだろう。だが、第二十三師団は壊乱状態であり、即座に別の部隊を送り込むことは難しい。
レーヌス河右岸の各地に部隊の配置を完了するまで、今しばらく時間がかかるだろう。
「とにかく、王女殿下の存在は、今後の作戦行動に関わってくる要素だ。疎かにはせんよ」
「そう」リュシアンは、感情を映さない赤い瞳でオークウッドを見上げた。「じゃあ、俺は外で暇を潰しているから、必要なら呼んで」
「うむ、我々も魔術師という存在は貴重だ。貴官には頼らせてもらうとしよう」
ホテルの前に通りに出ると、王都と違い、まるで活気がなかった。
国境付近で戦闘が起こっているために、レーヌス河にほど近いこの街では、流言飛語に惑わされて疎開してしまった住人もいるらしい。
一応、街中に混乱が起きないように交差点などでは憲兵が目を光らせており、そのために街ゆく人々の顔には不安が現れていた。
これが、世界の姿だというのか?
幼いころには、思い描きもしなかった世界の側面。
この街にはまだ戦禍が及んでいないが、国境付近はどうなっているのだろう?
そんな世界が、自分が幼馴染の少女に見せたかった光景だとでもいうのだろうか? あるいは、その少女自身が望んだ光景だとでもいうのだろうか?
未だ戦禍に包まれていないはずの街で、リュシアンは硝煙と死体の腐臭を嗅いだような気がした。
「……エル、無事でいてよ」
ぼそりとリュシアンは少女の愛称を、エルフリード・ティリエル・ラ・ベイリオルの名を呼んだ。
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