王女殿下の死神

三笠 陣

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過去編 王女殿下の初陣

8 国家のための殺人

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 目に映る風景が、勢いよく後方に流れていく。
 頬を叩く風は冷たく、地上は遙か下に遠い。
 空をかける翼竜から見える眼下の光景は、いつだって乗る者たちに自然の持つ美しさとこの星の雄大さを印象づけたことだろう。
 遮るもののない視界、常に変化してゆく空の雲と地上の景色。
 それらは幼い日の少年に、世界というものの美しさと興味深さを抱かせるのに十分なものだった。
 翼竜から見下ろす世界はいつだって新鮮で、いつだって驚きと美しさに溢れていた。
 だが、十五歳の少年であるリュシアン・エスタークスの目には、眼下に見えるすべての光景が色を失って見えた。
 そこには世界の輝きなどをまるで感じさせない、モノクロの空間だった。
 手綱を握る翼竜の羽ばたきが大気を切り裂き、彼方に湾曲するレーヌス河が見えている。
 そこから立ち上る無数の黒煙。
 それは、狼煙のようにも見えた。
 いや、実際に狼煙なのだろう。死の神たちに、魂を刈り取るべき者たちの居場所を知らしめるための狼煙。
 世界の美しさや輝きなど、所詮、人間の醜い行為の前には無力なのだ。
 だから、この目に映る世界に輝きはない。
 視覚は色を捉えても、心がそれを認識することを拒否している。だからリュシアンの目に映る世界は、モノクロなのだ。

「……仕事だ、死神」

 リュシアンは鞍上で呪うように呟くと手綱と鐙を操り、翼竜をわずかに北西方向に旋回させる。そして手綱を離すと、鐙と体重のかけ具合だけで竜を操る。

「……」

 リュシアンは視線をレナ高地の方に向けた。
 指貫手袋の手の平側に描かれた魔法陣がかすかに発光し、彼の手の中に一本の黒弓が現れる。
 指は特にかじかんでいなかった。体内の魔力回路を活性化させて魔力循環を活発にし、気温の低い高空でも体を温めていたのである。

「……真名しんめい解放、〈フェイルノート〉」

 魔術師の使う霊的装備、通称「霊装」の真名を解放し、自身の魔力を指先に流す心象イメージを描きながら弦を絞る。
 リュシアンの魔力に大気中の霊子エーテルが反応し、翼竜の周りにかすかな燐光が舞い散った。魔力と霊子が反応し、弦に一本の魔矢が番えられる。

「……行け」

 瞬間、矢はリュシアンの手を離れた。発射の反動で、空を飛ぶ翼竜の体がかすかに傾く。
 光線にも似た、魔力で生成された矢。早朝の空に軌跡を描き、大気との摩擦熱で赤い尾を引きながら空気という名の障壁を突き破っていく。
 刹那、地上で閃光と共に巨大な火球が出現した。瞬時に膨れ上がった火球は、地表を覆い尽くし、膨大な黒煙を上げながら収縮していく。
 時間差で、爆発の轟音が上空の翼竜とリュシアンの元に届いた。
 火球が収まってもなお、地上ではちろちろとした炎が残っている。

「……」

 ふぅー、とリュシアンは長く白い息を吐いた。弓の構えを解く。
 これが戦争か、と思う。
 銃弾によって体を貫かれ、砲弾によって四肢を吹き飛ばされ、炎によって肉体を燃やされる。
 己の放った爆裂術式によって、いったい何人の人間が死んだのだろうか。
 そして、“兵士”という括りによって殺した相手に対して、何の感傷も抱かない自分自身がいることにも、リュシアンは気付いていた。
 日常生活においては禁忌とされるはずの殺人は、国家のためという名目ならば無条件に許されてしまう。
 それを免罪符にして、自分は殺人という行為への忌避感を薄めているのだろうか。
 いや、とリュシアンは思い直した。
 自分は国家のためとか、国王陛下のためとか、そうしたある意味で高尚な理由によって人殺しを行っているわけではない。国家も国王も、正直、リュシアンにとってはどうでもいい。
 ただ、エルフリードという少女を守るために、あの敵兵が邪魔だったから吹き飛ばしただけなのだ。

「……ああ本当に、嫌になるね」

 殺人に忌避感を覚えなくなってしまった自分も、戦争という行為そのものも。
 ただ「必要だから」という理由で人殺しを成せる自分は、とうの昔に人間として何かが欠落してしまっているのだろう。
 きっとそれは人にとって決定的なもので、そしてもう二度と自分は取り戻せないのだろう。
 初めて翼竜に乗り、地上を見下ろした時の感動を思い出すことが出来ないのと同じように。

  ◇◇◇

 喊声を上げて傾斜面を駆け上がる軍靴の音が、間近にまで迫ってきた。

「銃剣を構えろ!」

 エルフリードは叫んだ。もはや装填動作を行っているだけの時間的余裕はない。
 敵の先頭集団が塹壕の淵に足をかけた。

「突けぇ!」

 塹壕内にしゃがみ込んでいた兵士たちが、一斉に銃剣を突き上げる。
 エルフリードも鋭剣サーベルを敵兵の大腿に突き刺した。
 肉を裂く柔らかい感触が手に伝わる。そして、敵兵の悲鳴。
 突撃してきた敵の半数は叫び声を上げたまま斜面を転がり落ち、塹壕の中に倒れ込んだ敵兵は容赦なく止めが刺された。
 エルフリードも自分の近くに落ちてきた敵兵の喉を思い切り掻っ切っている。

「気を抜くな! また来るぞ!」

 塹壕の周囲は、怒号と悲鳴と歓声が奇妙に混ざり合う場所と化していた。
 エルフリードが突き上げた鋭剣が、敵兵の腹部へと沈み込む。そのまま傷口を抉るように鋭剣を捻りながら引き抜く。
 刹那、視界の端に塹壕に飛び込んできた無傷の敵兵が映る。
 エルフリードが咄嗟にしゃがみ込むのと、小隊先任曹長が「殿下!」と叫ぶのと、敵兵が銃剣を突き出すのは同時だった。
 銃剣の切っ先に将校用制帽が触れ、弾き飛ばされる。
 長く癖のない彼女の黒髪が、ふわりと舞う。
 エルフリードは立ち上がる勢いのまま、鋭剣の柄で敵兵の顎を思い切り殴りつけた。脳に直接衝撃が走ったのだろう、敵兵はよろめいた。そのまま肩から相手の胴体に体当たりをし、倒れた敵兵の顔面に鋭剣の柄を振り下ろした。
 一撃で、鼻の骨が砕ける音がした。肉と骨を同時に砕く感触に一瞬だけ気色悪さが過ぎったが、それでもエルフリードの行動に遅滞は生じなかった。
 両手で柄を握りしめ、第二撃、第三撃と相手の顔面に振り下ろす。
 敵兵は、すぐに動かなくなった。顔は潰れ、赤黒いものの中に歯らしき白いものが混じっていた。
 エルフリードは荒い息を吐く。

「敵兵、後退していきます!」

 その言葉に反応するように彼女は立ち上がり、血と汗の混じった顔面を薄汚れた軍服の袖で乱暴に拭った。
 周囲では兵士たちが歓声を上げている。

「少尉殿」

 傍らに、小隊先任曹長が立っていた。制帽を差し出している。

「ああ、礼を言う」

 受け取ったエルフリードは、それを再び被った。
 鋭剣を鞘に戻し、己の手を見た。赤くぬるりとした液体がこびりついている。そして、陣地前面に横たわる北王国兵の死体と呻き声を上げたまま放置されている敵の負傷者を見、最後に自分が撲殺した顔面の潰れた敵兵を見遣った。

「……ふん」

 自分の中に宿る凶暴性と残虐性、それを見せつけられたところで、今さらエルフリードは驚かなかった。かつて幼馴染の少年にしてしまった仕打ちを思えば、自分の中にそうした醜悪な面があることなど、とうに自覚している。

「……まったく、度し難いな、私は」

 自嘲というには邪悪に過ぎる笑みを、彼女は浮かべた。
 戦場で心を病む兵士がいるというが(そして実際にレナ高地でも出ているが)、自分の心にはその片鱗すらない。
 単に興奮状態にあるだけかもしれないが、それにしては妙に冷めた自分がいることも確かなのだ。
兵士の中には、例え自分が殺されると判っていても敵兵を殺すことを躊躇してしまう者もいるのだ。だというのに自分はこの二日間、まったく躊躇らしい思考の停滞や忌避感を覚えなかった。

「……これが私なのだ、リュシアン」

 どこか恥じるように、そして呪うように、エルフリードは呟いた。その声は、周囲の歓声にかき消されて誰の耳にも届かない。

「連隊司令部より伝令ー!」

 と、塹壕内を司令部付き伝令兵が駆けていた。

「友軍の竜兵が到着する模様! 誤射に注意され度!」

 そう言いながら、塹壕のあちこちを駆けていく。

「竜兵、だと?」

 一瞬、エルフリードの表情が険しくなる。そして、頭上を見た。
 流星のごとき光線が、レナ高地の上空を飛び抜けていく。反射的に、彼女は光線の行方を目で追った。
 直後に、地上で閃光が走る。
 敵砲兵陣地の辺りで巨大な火球が発生する。そして、しばらくして耳に届くおどろおどろしい爆発音。

「敵砲兵陣地で大規模な爆発を確認!」

 付近にいた観測兵が叫ぶ。とはいえ、叫ばれずとも何が起こったのかエルフリードにも判る。
 陣地背面でも同規模な爆発が起こった時にも予感があったが、どうやら当たっていたらしい。

「……いったい、今のは?」

 先任曹長が、戸惑いの表情で呟いていた。

「爆裂術式だろう」

 エルフリードはその呟きに応じてやった。

「爆裂術式?」

「魔術師の使う術式の一つだ。ここまでの規模になると、相当な魔力量を消費するはずだから、よほど高位の魔術師でなければ使えんはずだ」

 そして、その魔術師にエルフリードは心当たりがあった。火焔魔法を得意とする、幼馴染の勅任魔導官を。
 上空を見る。
 レナ高地の上空を一騎の翼竜が航過していく。翼には、連合王国軍の所属であることを示す同心円ラウンデルの識別標が描かれていた。そして、一瞬ではあるが、竜の首に王室の紋章が取り付けられていることも見えた。
 エルフリードの予感は、確信に変わった。

「……リュシアン、お前は騎士にでもなったつもりか」

 エルフリードの口から、呟きが漏れる。表情は相変わらず険しいままだ。

「くそっ、誰に断って私の魔術師ウィザードを人間兵器として使った……っ!」

 低く、怒りと憤りの声と共に彼女は上空の翼竜を睨み付けた。いつの間にか、自らの拳を固く握りしめていた。
 自分はまた一つ、あの少年に人殺しを重ねさせてしまったのだ。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

 北ブルグンディア軍第五軍直轄砲兵隊の観測所から、リリアーヌ・ド・ロタリンギアはレナ高地を巡る攻防戦の様子を観察していた。
 砲撃に煙る敵の陣地、軍靴と装具の音と共に進軍する勇壮な将兵たち。
 それはまさしく、敵陣地を押し潰そうとする軍司令部の意志の現れに他ならない。
 彼女にとって戦場とは軍記物の中の存在でしかなかったが、今日、こうして実際に戦場に立ってみると想像以上に騒音に溢れていることが判った。
 指揮官のかける号令に、伝令兵の叫び、そして砲声。
 直接の戦場となっていない砲兵陣地でも、様々な音に溢れている。
 魔術師という立場で見れば、この騒音や戦場故の緊張感は、魔術行使に悪影響を与えるだろうと思う。
 魔術とは、精神の動きによってこの世の法則に影響を与える技術のことである。科学が物理によって世界の法則に働きかけるのと、ちょうど対応する関係になっている。
 そして当然ながら、魔術の行使には精神の集中が不可欠である。魔術を発動させるに際して呪文を唱えるのも、究極的には魔術の発動に必要な心象(イメージ)を作り上げるためのものだ。言葉とは人間の認識と深く結びついており、呪文を唱えることによって魔術師は魔術の発動に必要な精神状態へと己を昇華させる。つまり呪文とは、一種の自己暗示ともいえるものなのである。

「しかし、問題ありませんわ」

 リリアーヌは腰に帯びる剣の鞘を握りしめた。
 魔術師の魔力を効率的に使い、術式の行使を補助するための装備、霊装。彼女の剣もまた、そうした霊装の一つなのだ。
 延々と術式を詠唱するような手間をかけずとも、リリアーヌは剣によって魔術を発動させることが出来る。
 傍らで聞こえる砲声が緩慢になり、隊列をなす歩兵部隊がレナ高地への前進を開始した。
 彼らを戦わせ、貴族である自分がこのような場所にいることに、リリアーヌは忸怩たる思いを抱く。
 双眼鏡を覗きつつ、彼女は唇を噛んでいた。

「……っ!?」

 刹那、彼女の背筋に悪寒が走る。
 魔術師だからこそ感じられる、魔力の反応。水晶球などを使えば魔力の波長まで詳しく判るのだろうが、それを用いずとも魔術師である少女に怖気を抱かせるほどの魔力量。

「いけませんわ! 敵には魔術師が……」

 観測所にいる砲兵隊指揮官は、客人に等しい少女の言葉に怪訝そうな顔を向けている。
 そして、リリアーヌが何かを言い終わる前に、レナ高地の背面で巨大な爆炎が上がった。

「……」

「……」

 リリアーヌも指揮官も、呆然と立ち上ってゆく黒煙を眺めることしか出来なかった。

「いったい、何が……」弾着観測用の測距儀を覗き込んだまま、砲兵隊指揮官が唖然と呟いた。「敵に、新手の砲兵隊が現れたか? それも大口径の……」

 だが、リリアーヌの判断は違った。彼女は目の前の将校に叫ぶ。

「ただちに軍司令部に通信を繋いで下さいな!」

 宮廷魔導団の使う魔導通信の波長と、第五軍の使う通信の波長は違う。

「ロタリンギア宮廷魔導官殿、いきなり言われても困ります」

 砲兵隊指揮官は魔術師ではない。今の爆発が魔術によって引き起こされたものだとは、咄嗟に理解出来なかったのである。

「まずは小官のほうで司令部に照会を取ります」

 各々が勝手に司令部に魔導通信を発しては、向こうの魔導兵の処理能力が限界を超えてしまう。今の爆発で各部隊から司令部に報告が上げられているはずであろうから、目の前の少女の要請にすぐに応じるわけにはいかないのだ。
 だが、リリアーヌはそうした事情を知らない。純粋な魔術師として教育を受けてきた彼女にとって、軍魔導師によって構築された通信系統の詳細など知り得ないものだったのである。
 だから、彼女は目の前の指揮官の対応に、苛立ちを覚えていた。

「ロンダリアは、広域破壊魔法を使える魔術師を投入したに違いありませんわ! ただちに対応を取らねばあなた方も……」

 リリアーヌは言葉を最後まで言い切ることが出来なかった。

「っ!?」

 彼女が再び、高魔力反応を捉えた次の瞬間にはもう、北ブルグンディア軍の砲兵陣地に爆裂術式の組み込まれた魔矢が次々と着弾していたのである。

「きゃっ!」

 閃光と轟音と爆風。
 咄嗟に魔術防壁を展開するが、リリアーヌは地面に叩き付けられてしまう。全身に鈍い衝撃が走る。直後、熱波が彼女の頭上を通り過ぎていった。

「……つっ」

 一瞬の自失から覚めた時、彼女の周囲の光景は一変していた。
 観測所にいた指揮官や他の観測手たちの姿が、近くにない。
 爆発によって並べられた砲は軒並み破壊され、中には砲身がねじ曲がっているものすらある。弾薬が誘爆しているのか、陣地のあちこちでなおも爆発が連続していた。
 異臭が、辺りを覆い尽くしていた。
 それが何の臭いであるのか、最初、リリアーヌは判らなかった。いや、理解するのを脳が拒否していなのかもしれない。
 周囲に散乱する人だったものや、人だったものの一部、そして炎に焼かれて地面を転げ回っている兵士たちの姿に、少しも現実感がなかった。
 彼女の視界の端に、呻き声を上げている兵士がいた。
 リリアーヌはある種の義務感のようなものに駆られ、その兵士に駆け寄る。胸が大きく切り裂かれ、絶え間なく血が流れている。腹腔からは、臓物らしきものが覗いていた。

「大丈夫ですわ! 今、治癒の魔法を」

 彼女はその兵士の胸に両手をかざし、治癒魔法の呪文を唱える。動転した精神の中で唱えられた呪文でも、何とか発動したようだ。手から発される淡い光が、兵士の中に流れ込んでいく。

「……魔術師殿」

 その手首が、瀕死の兵の手に掴まれる。喘鳴の合間に、彼は言葉を紡いだ。

「帰ったら、母に、伝えて下さい。自分は、最後まで、男らしく戦って死んだと……」

「伝えます! 伝えますから、安静にしていて下さい!」

 ほとんど涙声になりながら、リリアーヌは治癒魔法の発動を続ける。だが、意味はなかった。その兵士は数度、咳き込むように口から血を吐き出すと、目の焦点は完全に失われた。

「ああ、ああ……っ!」

 直後、少女の慟哭が焼けただれた陣地の中に響き渡った。
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