王女殿下の死神

三笠 陣

文字の大きさ
上 下
67 / 69
過去編 王女殿下の初陣

39 誰がための勝利

しおりを挟む
 リュシアンはゆっくりと、エルフリードの待つ窪地へと歩いていった。
 背後を警戒していたが、襲いかかってくる気配はない。
 魔導剣の波動や爆風によって何度も抉られた大地の上を、リュシアンは歩く。酷い有り様だな、と思う。高位魔術師のもたらす破壊の凄まじさを、まざまざと見せつけられている感じであった。
 レーヌス河で戦っていた時は翼竜の上からしか確認していなかったが、実際に地上でその破壊の痕跡を見てみると、胸に要らぬ感情がわき上がってくるような気がした。
 魔術なんて結局、碌なものじゃない。
 リュシアンはそう思う。しかしこの力がなければ、自分はエルフリードを守れないし、彼女に野心を遂げさせてやることも出来ない。
 エルフリードの魔導師である限り、自分はこの力を欲し続けるだろう。この力で、彼女のために戦い続けるだろう。
 それでもリュシアンの心には、勝利の喜びなどまるでなかった。

「……エルの言った通りに、勝ってきたよ」

 だから、窪地の淵でじっとこちら見つめていたエルフリードの前に戻った時のリュシアンの声は、ひどく淡々としていた。

「うむ、見ていた」

 うなだれているようにも見えるリュシアンの姿を見て内心を察したのか、エルフリードの声はどこか案ずるようであった。

「また、一人で残して悪かった。ごめん」

「いや、よい」エルフリードはゆっくりと首を振った。「私が勝てと命じたのだ。お前ならば、それを果たしてくれると信じていた」

「そう」

 リュシアンの胸には、未だ勝利の喜びはない。それでも、エルフリードがそう言ってくれたことで、少しは救われた気分になる。
 エルフリードが窪地から這い出てきて、リュシアンの前に立った。

「奴らは、どうするのだ?」

 彼女の視線は、離れた位置にいる北ブルグンディアの宮廷魔導師二人に向けられているようだった。

「殺した方がよかった?」

 もしエルフリードがそう命じたならば、リュシアンは躊躇いなくそれを実行するだろう。彼自身ですら、殺しておいた方がよかったのではないかと思っているほどなのだ。

「……」

 エルフリードは少しの間、無言でリュシアンの顔を見つめていた。

「……いや、これ以上、問題をこじれさせることもなかろう」

 その言葉が、リュシアンの心を慮ったものであるのか、それとも自分がこれ以上人を殺すリュシアンを見たくないからなのか、エルフリードには判らなかった。
 ただ、少女はこの白髪の少年が肉体的にも精神的にも疲弊していることを理解していた。
 すべては、自分を守るためにやってくれたことだ。
 これ以上、エルフリードは彼に重荷を背負わせたくはなかった。

「奴らが追ってこられないのであれば、もう無視してよかろう。我々は早々にここを立ち去るとしよう」

「ああ、そうだね」

 結局、リュシアンもエルフリードも、北ブルグンディア側の追跡体制が現在、どのような状況にあるのかを把握していない。一箇所に留まり続けるのは、依然として危険であると思っていた。

「……なあ、リュシアン」

 不意に、エルフリードの視線がリュシアンを通り過ぎて、彼の斜め後ろに向けられた。

「ん?」

「あれ、奪えるのではないか?」

 リュシアンが視線を向けると、少し離れた木に一頭の馬が繋がれていた。馬はそのまま、所在なさげに立ち尽くしている。
 今さらながらに気付いたということは、恐らく、オリヴィエ・ベルトランがここまで乗ってきた馬だろう。几帳面にも、木に繋いでおいたらしい。
 未だ発動したままの魔眼で見れば、馬の周囲に防御用の結界を張って、馬を戦いの余波から保護していた。
 ベルトランの性格が、この際、リュシアンたちに有利に働いたといえるだろう。
 一方で、リリアーヌ・ド・ロタリンギアの乗っていた馬は、どこかに行ってしまったらしく付近に姿は見えない。何度も起こる爆発に怯えて、逃げ出してしまったのだろう。

「……」

 リュシアンはちらりとベルトランの方を見る。自分たちが馬を奪うのを阻止するだけの力は、恐らく残されていない。

「俺、馬は苦手だから、エルに任せる」

 視線を戻したリュシアンは、そう言った。

「ふふ、判っている。任せておくがよい」

 二人の間の主導権が自分に移ったからだろう、エルフリードは気分よさげに笑みを零した。

「じゃあ、あいつらが回復しない内に行くよ」

「うむ、そうだな」

 そっと差し出されたリュシアンの手に、エルフリードが己のそれを伸ばした。
 二人で手を重ね合う。互いの硬い手の平から、相手の温もりが伝わってくる。
 それだけでリュシアンもエルフリードも、残りの道のりを進もうとする力が湧いてくるようであった。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

「……」

「……」

「……」

 ロンダリア陸軍西部方面軍司令部となっているホテルの魔導通信室では、魔導兵たちがレーヌス河左岸での魔力反応の傍受を試みていた。
 リュシアン・エスタークスからの通信が入って以来、すでに二時間以上の時間が経過していた。あと三、四時間ほどもすれば、夜も明けるだろう。
 左岸で大規模な魔力反応があったことから、リュシアンとエルフリードが追撃を受け、魔術戦になったであろうことまでは判っていた。
 とはいえ、西部方面軍の指揮権を掌握するアラン・オークウッド大佐としても、現状ではリュシアンと王女に対して直接的な支援を行うことは出来ない。
 部隊を越境させることは王都が許可していないため、レーヌス河対岸の北ブルグンディア軍に対する示威行為を続ける以外にないのだ。
 そして、むしろオークウッドにとって厄介であったのは、魔術戦が国境守備に当たっている現地部隊に与える心理的影響であった。
 国境守備隊からは、魔術戦の影響と思われる薄赤の光線や爆炎、轟音などが確認出来るとの報告が上がっていた。これに兵士たちが殺気立ち、軽率な行動に出ることがないよう、部隊の統制を強化する必要があったのである。
 自分自身ではどうにもならない王女の身の安全よりも、オークウッドとしてはこちらの方に神経を削っていた。
 現在のところ、不用意に対岸に発砲したという報告はないし、対岸から砲弾なり銃弾なりが撃ち込まれたという報告もない。部隊の統制は保たれていると見ていいだろう。だが、油断は出来なかった。
 そもそも王女の乗る翼龍を襲撃するという暴挙に出たのは北ブルグンディアであり、何故我が国が隠忍自重せねばならないのだという思いは、オークウッドにも確かにある。だが、彼は国家の暴力装置たる軍の一員である。
 一個人の感情で陛下の統帥権を干犯するわけにはいかないし、王室陸軍に不名誉な歴史を作るわけにもいかない。
 政府がこれ以上の紛争拡大を厳に戒めている以上、それに従うのが軍人というものだ。

「王女殿下は、ご無事なのでしょうか?」

 傍らに控えるエリオット・ライアン少佐が、落ち着かなさそうに尋ねてくる。
 情報がまったく入らないというのは、確かに不安を覚えるものだ。だが、戦場ではすべての情報が指揮官の下に集まってくるということなどない。そう考えれば、まだまだこの少佐は参謀将校として“若い”といえるのかもしれない。

「さてな」オークウッドは通信室の様子を見つつ、素っ気なく答えた。「大規模な魔力反応はぱたりと止んでいる。だが、魔術戦の結果がどうなったかまでは判らん」

「……」

「しかし、こうも考えられる。未だ北ブルグンディア側からエルフリード殿下を捕らえたという喧伝がなされていない以上、殿下とエスタークス魔導官は無事なのではないか、とな」

「それは、いささか事態を楽観視しているようにも思えますが」

 ライアン少佐は眉を寄せて、怪訝そうな表情になる。いかなる事態にも対応出来るように策を練るのが参謀という役職である以上、状況を楽観的に捉えようとする上官に違和感を覚えているのかもしれない。
 とはいえ、オークウッドの楽観視も仕方のないことであった。

「王女殿下の件に関しては、我々の手の内にはない。殿下をお守りしながら逃避行を続けているエスタークス魔導官と、外務省を始めとする政府が考えるべき案件だろう。ならば、我々は無駄に気を揉むよりも、楽観的に捉えて精神的な負担を減らすべきだ。でなければ、余計な雑念に囚われて、判断力を低下させることにもなりかねん」

「それはそうではあるのですが……」

「それに、情報のなさでいえば、エスタークス魔導官の方がよっぽどだろう。たった一人で、敵地から王女殿下を守り抜いて逃げ切らねばならん。その不安や焦燥に比べれば、大人である我々が醜態を晒すわけにもいくまい。それでは、流石に王国軍人として恰好がつかん」

「大佐殿は、随分とエスタークス魔導官を評価しておられるのですね」

「そう言う貴官は、エスタークス魔導官を少し嫌っているように見受けられたが?」

「小官はただ……」ライアンは言葉を選ぶように、少しだけ沈黙を挟んだ。「ただ、あの少年の精神性を恐ろしく感じただけであります。あの少年は、まるで死神のように、殺人への抵抗感が希薄であるように感じられましたので」

「ふむ、では、我々は殺人への抵抗感があるとでも思っているのかね?」

「いえ、それは……」

「我々高級将校が命令書一つで兵士を死地に追いやり、戦場に無数の死をまき散らすのと、魔術師が呪文一つで広域破壊魔術を使うのに、本質的な違いはあるまい」

「……」

 オークウッドの言葉に、ライアンは黙り込む。

「それに、エスタークス魔導官は極めて優秀な魔術師だ。彼を活用しないのは、国家にとっての損失に等しかろう。何れ、将来的には王女殿下共々、我が軍の、そして我が国のさらなる発展のために尽くしてもらうことになろう」

 その言葉がどこか不吉な予言のように聞こえてしまったのは、ライアンの気のせいであったのかどうか。
 それはきっと、今の時代を生きる我々ではなく、後世の人間たちが判断することなのだろうと、彼は思った。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

 レーヌス左岸地帯は、あちこちに戦闘の痕跡が残されていた。
 壊れたまま遺棄された荷車。窪地に落下して横転したままの野砲。地下水が染み出したのか、大きな泥水の水たまりとなった砲弾の穴。
 それだけではない。
 砲弾によって幹を折られた木々、破壊された農民の住居、荒らし尽くされた畑。
 国境付近に住んでいた住民たちが元の生活に戻るには、ひどく時間がかかるだろう。そう思わせるだけの光景であった。

「……」

「……」

 馬に跨がるエルフリードとリュシアンは、そうした大地を黙々と進んだ。
 手綱を握るエルフリードにしがみつくような恰好で、リュシアンは馬に跨がっていた。落馬しないよう、両腕はエルフリードの腹に回されている。
 北ブルグンディアの魔術師たちと交戦してから、すでに二時間以上は過ぎていた。人間二人を乗せている馬の疲労具合や、極力会敵を避けようと慎重に進めているため、時間がかかっている。当然、日付も変わってしまっていた。
 破壊された村の石垣を越えて小さな丘の上に出ると、目の前にレーヌス河の流れを見下ろすことが出来た。
 夜の闇を湛えて黒々とした流れの中に、星が散りばめられていた。

「……ここまで、来たのか」

 馬を止めたエルフリードが、思わずといった調子で声を出した。彼女が自分の目でレーヌスの川面を確認するのは、これが始めてなのだ。無理もなかった。

「ああ、そうだね」

 エルフリードの肩越しにその光景を見たリュシアンも、安堵に近い息を漏らす。
 日付を跨いだことで、墜落から七日が経ったことになる。敵地でそれだけの期間、東に歩き続けてようやくロンダリアの地を目前にしたのだ。

「さあ、あと少しだ、リュシアン。ゆくぞ」

 エルフリードが手綱を操り、再び馬を進ませた。
 背中にもたれかかるリュシアンの重みと体力を感じながら、彼女は慎重に手綱を操って馬に丘の斜面を下らせる。
 ぐったりとこちらに体重をかけてくるリュシアン。彼が相当に体力を消耗していることをエルフリードも判っていた。
 自分もそれなりに体力を消耗していたが、リュシアンはさらに酷いようだった。無理もないと、王女たる少女は思う。
 魔術戦で蓄積された肉体的疲労を回復させるいとまもなく馬に乗り続けているのだ。やむを得ないことだった。
 乗馬は不安定な馬上で姿勢を保たなければならないため、意外に体力を消耗するのだ。エルフリードがゆっくりと馬を進めているのも、奪った時点で馬が少し疲労していたことや、会敵を避けるためといった理由の他に、リュシアンに負担をかけないように馬を操っていたからだ。
 エルフリードは常歩のまま、馬をレーヌス河に向けて進めていく。
 だが当然ながら、河に近付いていくほどに敵兵の密度は高くなってくる。不意に敵兵と遭遇する確率は、かなり高まったといえよう。

「……」

「……」

 エルフリードとリュシアンは周囲を警戒しながら、東へと続く小道に沿って馬を進めていく。
 河の方へと続く小道を兵士の集団が歩いているのを発見した時には、近くにあった農家の納屋の陰に隠れてやり過ごすなど、馬の歩みはかなり遅くなってしまった。
 このままでは夜が明けてしまう。徐々にエルフリードの顔には焦燥が浮かぶようになる。
 ふと、進行方向上に角灯カンテラの明かりが見えた。
 だが、周囲に隠れられるような場所はなく、迂回するにしても時間を浪費する。エルフリードは迷った。

「……おい、リュシアン」

「いいよ、このまま進んで」エルフリードの迷いを感じ取ったのか、リュシアンの声は明快だった。
「最悪、俺が魔術で何とかするから」

「判った。頼む」

 そのまま、エルフリードは馬を進めた。
 角灯カンテラの持ち主もこちらの姿を確認したのか、光が振られる。見れば、北ブルグンディア軍の野戦憲兵のようであった。角灯カンテラと手を振って、こちらを誘導しようとしているらしい。
 味方の騎兵と誤認されたのだろう。
 野戦憲兵が夜道で誘導役をしているということは、北ブルグンディアの兵士が川岸に集まっているのではないか。
 エルフリードは一抹の不安を感じたが、そのまま馬を進めることにした。

「……ごめん、エル。幻影魔術を掛けている暇がなさそう。強行突破して」

 不意に、リュシアンが耳元で囁く。怪訝に思い、少女はカンテラの明かりの周囲を確認する。小道の両脇に兵士が陣取り、さらに道は農場の柵らしきもので簡単に封鎖されていた。
 両脇に人間がいるということは、リュシアンが幻術を掛けられるのは一度に片側の人間のみ。少年が謝った理由が、理解出来た。

「ギリギリまで、味方のフリをするぞ」

「柵は俺が風魔術で吹き飛ばす。エルは、そのまま馬を進めて」

「了解だ」

 揺れる角灯カンテラの光に、徐々に近付いていく。未だ、野戦憲兵たちはこちらを味方と思っているらしい。
 やがて、互いの軍装が夜でもはっきりと判るような距離にまで近付いた。そこで、相手側兵士たちの挙動が変わる。明らかに、こちらを警戒するような動きになったのだ。
 それで、エルフリードも手綱捌きを変えた。

「行くぞ、リュシアン!」

 覚悟と強い意志の籠った声で叫び、エルフリードは馬の腹を蹴る。靴に拍車が付いていないため馬の反応がいささか鈍かったが、それでも馬の歩みは徐々に早まっていった。
 突然速度を上げた馬に驚いたのか、憲兵たちが咄嗟に着剣された小銃を手に道を塞ごうとする。

「エル、ちょっと姿勢低くして」

「うむ」

 腹に回されていたリュシアンの腕の内、右手が前方に向けて翳された。
 エルフリードの耳にもはっきりと聞こえるほどの音と共に突風が巻き起こり、兵士たちと道を塞いでいた柵を吹き飛ばしていく。
 馬のいななきに混じって、兵士たちの悲鳴が響き渡った。
 そのまま一直線に馬を走らせて、エルフリードとリュシアンは検問所らしき場所を突破する。

「助かった、リュシアン」

「そう、良かった」

 少年の声はいつも通りのぶっきらぼうで素っ気ないものだったが、その中に隠しきれない倦怠感が滲んでいることが少女には判った。何より、背中に感じるリュシアンの重みが、彼の疲労具合を如実に表している。
 だが、エルフリードは何も言わなかった。リュシアンが自分の不調を隠したいと思っているのなら、そうしてやるべきなのだ。
 自分だって、この逃避行の中で散々リュシアンに対して意地を張ってきた。それを当の本人に指摘されるのは、中々屈辱的であろう。
 人間、心配して欲しい時と、それを厭う時がある。
 やはりお互い、難儀な性格だった。エルフリードは密かに笑みを零した。
 そのまま、彼女は馬を河に向かって走らせる。
 馬の疲労も心配だったが、それ以上に野戦憲兵たちの悲鳴を聞いて現れるだろう敵兵の方が心配であった。
 レーヌス河左岸地帯に伸びる小道を、少年少女を乗せた馬が駆けてゆく。

「くそっ……!」

 エルフリードは前方に現れた兵士の集団に、王族に相応しくない罵声を漏らした。
 悲鳴を聞きつけて、慌てて道をこちら側に駆けているらしい。自分たちに向かって駆けてくる馬に驚いたようで、急いで着剣された銃を構えた。

「止まれ!」

 恐らく、そのような意味の叫びを上げているのだろうが、勿論、エルフリードがそれに従う道理はない。

「リュシアン、頼めるか?」

 身を屈めながら、エルフリードは問うた。

「任せておいて」

 恐らく少年なりに精一杯強がった声と共に、彼は手を翳す。再び巻き起こる突風と、吹き飛ばされる兵士たちの悲鳴。
 リュシアンの荒い息づかいが、エルフリードの耳元で響く。少女は構わず馬を走らせる。
 レーヌス河まで、あと少しだった。夜の黒さと星々の瞬きが散りばめられた水面が、徐々に大きくなっていく。

「後ろから騎兵が来てる。四騎、槍を持ってる」

「なに!?」

 リュシアンの警告の声に、エルフリードは思わず叫んでいた。

「エルはそのまま馬を走らせておいて」

「判った」

 背後のことは、リュシアンに任せるしかない。背中に掛かる少年の重みが変わり、彼が馬上で姿勢を変えたことが判る。
 即座に後方から馬の悲鳴じみた嘶きが聞こえた。やはり、風魔法で馬ごと騎兵を吹き飛ばしたのだろう。
 だが、馬は人間などよりも余程重量のある生物だ。これで、リュシアンの消耗はより早まっただろう。
 そして前方を見据えるエルフリードの目に、あるものが映った。
 丸太を組んで作られた柵、防塞だった。斜めに取り付けられた支えの丸太の向きからして、川向こうのロンダリア軍に対する防御用施設らしかった。
 エルフリードは即座に決断した。

「リュシアン、しっかり掴まっていろ!」

「ああ」

 エルフリードの腹部を絞める力が強くなり、二人の体が密着する。
 突然、背後からやって来た馬に驚いている兵士たちを尻目に、エルフリードは馬を跳躍させた。
 同時に、自分に抱きついているリュシアンごと鞍から体を浮かせて前傾姿勢になる。
 だが、エルフリードが慣れない馬を操っていた所為か、それとも馬の疲労故か、後ろ足が木の柵に引っかかってしまったらしい。
 瞬時に馬の姿勢が崩れる。馬から悲鳴のような嘶きが漏れた。
 刹那、リュシアンの腕に込められた力が強くなった。エルフリードは咄嗟の判断で手綱から手を離し、リュシアンに身を委ねる。彼に抱きすくめられた姿勢のまま落馬し、二人はレーヌス河の川岸を転がった。
 衝撃は、〈黒の法衣ブラック・ローブ〉がある程度吸収してくれたらしい。それなりの速度と高さから落馬したにも関わらず、体の痛みはほとんどなかった。

「大丈夫、エル?」

「ああ、問題ない」

 地面に転がったままの姿勢で、二人は互いの無事を確かめ合う。
 立ち上がると、馬が地面に倒れたまま喘鳴を漏らしていた。口元には、泡が噴き出している。足も曲がっており、最早、再起は不可能だろう。

「……」

 エルフリードはそのような馬の様子を見、次いで柵の向こう側を見た。
 すでにそこには北ブルグンディア兵たちが取り付いていたが、銃を向けつつも発砲する様子はない。恐らく、位置的に流れ弾がロンダリア側に届いてしまうことを恐れているのだろう。
 あるいは、そもそも銃声が響くことでロンダリア側を刺激してしまうと思っているのか。
 エルフリードは北ブルグンディア兵が動かないのを確認してから、鋭剣サーベルを抜いた。

「ここまで、ご苦労であった」

 労いの言葉と共に、刀身を馬の首筋に走らせる。肉を断つ感触と共に血が噴き出し、それでエルフリードとリュシアンをここまで運んでくれた馬は息絶えた。
 川岸に、一瞬の沈黙が流れる。

「エル」

 リュシアンが腕を引っ張った。防塞を見れば、何人かの兵士たちが柵をよじ登って川岸に降りようとしている。
 このままでは、捕らえられてしまう。

「うむ」

 言葉少なにエルフリードは応じ、二人は手を繋ぎ合う。

「魔術で、水流を調節しながら向こう岸まで泳ぐ」

 疲労しているだろうに、リュシアンは決然とした声で言った。

「絶対に、手を離さないで」

「お前の手だ、絶対に離すものか」

 エルフリードはリュシアンを安心させるように、不敵な笑みを浮かべて見せる。

「じゃあ、行くよ」

 その言葉と共に駆け出した二人は、レーヌス河の流れへと飛び込んだ。
しおりを挟む

処理中です...