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春とはいえ雪解け水を含んだ沢は凍てつくほどに冷たい。それをものともせずに踏み込んで、芹を摘む娘を見付けた。視線をずらせば、岸に置かれた籠には既に芹が山盛りだ。
「ユキマル、どう思う?」
トヨミが呟くように言った。
「あぁん? あの娘の家族は大喰らいか、大の芹好きなんだろうよ」
答える声はトヨミの足元から聞こえた。
「そんなこと訊いてない」
トヨミが苦笑する。
「まだ水は相当冷たい。見ろ、あの娘の足は真っ赤になってる」
「温めてあげたいって言い出しそうだな」
「あれ? 判っちゃった?」
「ふん! どうせトヨミが興味を持っているのは足よりも、足の付け根のあたりだろうよ」
「随分なことを言ってくれる。まぁ、その辺りに興味がないとは言わないよ――カシワデの郷の娘かな?」
「だろうね」
「名を訊いたら教えてくれるかな?」
するとユキマルが再びフンと鼻を鳴らした。
「さっさと行って済ませてきなよ。誰も来ないよう、ここで見張っててやるからさ」
「ユキマル、いつも済まないね」
トヨミがニヤッと笑う。そして娘を見詰めたまま、身を隠していた茂みからそっと出て行く。近寄る前に逃げだされてはおしまいだ。
男が女に名を尋ねる――それは関係を持ちたいという意思表示、満更でもなければ女は名を教えてくれる。それから女の家に通い、父親の許しを得て……と、なるところだが、それは正式な婚姻の場合だ。
野辺での男女の出会いはもっと大らかだった。互いに気に入れば物陰に隠れて睦みあい、それきりの関係なんてありふれていた。
トヨミが娘に近付いていく。それを見守ってユキマルが呟く。
「皇子さまの女好きにも困ったもんだよ。三日に空けず女漁りときてる」
そして溜息を吐く。
「それもしゃーねぇか。まだ若いしな。それに……あの妃さまじゃ遠慮が先で、満足なんかできないだろうさ」
どうやら娘もトヨミに気付いたようだ。バシャッと水が跳ねる音が聞こえた。トヨミたちに背を向けたユキマルが、周囲を警戒し始めた――
視線を感じてホキがハッとする。思わず後ろに引いた足が水面を踏み込んで、バシャッと音を立てた。
「そんなに驚かないで。倒れて水に浸かったら大変だ」
視線の主が微笑んでこちらを見ている。
誰だろう? カシワデの郷では見たことのない顔だ……ホキが声の主を見詰める。いや、見惚れた。
こんな綺麗な顔の人は見たことがない。女の人? いいや、声は男だった。それに体つきだって、どう見たって男だ。なのに涼やかな目はパッチリと、だけど大き過ぎるわけでもない。美しく弧を描く眉、すっとした鼻筋、仄かに赤い唇は薄いでも厚いでもなく、でも柔らかそうだ。肌は滑らかで白い。許されるならその頬にそっと触れて撫でてみたい……心の臓がトクンと音を立てたが、それにも気づかずホキは声の主を見詰め続けた。
「吾の顔に、何かついてる?」
照れて男が笑う。その笑顔が眩し過ぎて、ホキは何も言えずにいる。すると男が、今度は困り顔を見せた。
「えっと……驚かせちゃった? いや、何をしてるんだろうと思って」
「え、いえ、あの……芹を摘んでいるんです」
見て判らないの? と思ったが、そうも言えずにホキが答えた。
「あぁ……そう言えば、そこの籠に山盛りになっているのは芹だね――かなり摘んだみたいだけど、もっと欲しいんだ?」
「ここに生えているだけは摘むつもり」
「まだ水は冷たいだろう? 足が真っ赤になっているよ」
「これくらい、大したことじゃないから」
「足を冷やすと身体を壊す。それだけあれば充分なんじゃ? 岸に上がったらどう? 温めてあげよう」
「いいえ。足りないくらいです」
「足りない? いったい何人家族なんだ?」
「家族は両親と兄と、弟と妹が二人ずつ。秋にはもう一人増えます、妹か弟か」
「今は八人? その芹の量は、八人分にしても多過ぎなんじゃ?」
「芹は……郷の者に分けたいのです。最近、体調を崩す者が多くって、少しでも楽になればと」
「季節の変わり目だからなぁ――なるほど、芹には鎮静作用があるからね。そうか、それならこうしよう」
「えっ!?」
離れたところから動かなかった男がずんずん歩み寄ってくる。慌てて逃げようとするが思いのほか足が冷えていて、痺れてしまってすぐには動けない。
「怖がらなくていい。吾が摘んだほうが早いと思っただけだ」
水際で沓を脱ぎ、男がバシャリと水に足を突っ込んだ。
「ぬおっ! 其方、よくこの冷たさを堪えているな」
思わず上げた悲鳴に自分で照れて男が笑う。
「えぇと、芹はこれだな。どう摘めばいい?」
「あ、それは、この辺りを……」
「よし、判った。吾に任せて其方は岸に上がれ。この辺りを全部摘めばいいのだろう? それで足りるか?」
男に促されるまま岸に上がったホキ、物好きなと思いつつ男を眺める。
(なんだか楽しそう……)
水の冷たさに悲鳴を上げたくせに、男は芹を摘むのを楽しんでいる。
(それにしても――)
なんて派手な装束なんだろう? どうやったらあんな色に染められる? そのうえ艶々してて滑らかそう。あんな布、見たことがない。吾が着ている麻とは違うものなのかしら? 不思議なのはあの香り。近づいた時、あの男からは何かいい匂いがしていた。
驚くことが多過ぎて思考が追いつかないうちに、芹を摘み終えた男が岸に上がる。
「ほかにも生えている場所あるなら、教えてくれれば摘む。まだ籠に入りそうだぞ」
ニコニコと話しかけてくる。
「いいえ。これ以上摘んでも、背負って帰るのが大変だから」
「そうか。カシワデの郷の者か?」
「えぇ、まぁ」
「名は?」
来たっ! とホキが緊張する――いいかい。名を訊かれても答えちゃダメだ。教えたらそれは『許す』って意味だからね。出かけるたび、母親にそう言い聞かされている。でもどうしよう? なんだか答えなければ嫌われそうな気がする。この男に嫌われるのは……イヤだ。
ホキが迷っていると
「答えたくないなら答えなくてもいい。どうせいずれ判る」
沓を履きながら男が笑う。
「吾はトヨミ。覚えておいて欲しい――では、また会おう」
ホキの答えが待ちきれなかったのか、男は来た方向に戻って行く。そして繁みに入り込み、見えなくなった。嫌われた? ホキの心の臓が今度はドキドキと立て続けに音を立て、締め付けられるような苦しさを感じる。
(あぁ、でも、また会おうと言っていた……会いに来てくれるってこと?)
それでも不安だ。本当に来てくれるのか?
茂みの向こうからトヨミの声が聞こえた。
「ユキマル、帰るぞ。クロコマを呼べ」
答えるユキマルの声も聞こえた。
「なんだよ、トヨミ。もう終わったのかよ?」
終わったって、何が? それにクロコマって誰?
次に聞こえてきたのは犬の遠吠えだ。山犬? ホキが周囲を見渡した。そして驚きのあまり腰が抜けそうになる。
姿を現したのは黒い馬、四本の足だけが白い美しい馬だ。それが空を駆け抜けて、繁みの向こうに降り立った。
(なんで!? 天翔ける馬!?)
驚きのあまり悲鳴も出せないホキの目にさらに驚くべき光景が映り込む。
繁みは馬を隠しきれない。首の半分から上が突き出ている。
「よしっ! クロコマ、いい子だ」
馬に乗ったトヨミの上半身が見えた。クロコマって馬なんだ、ぼんやり思うホキ、クロコマに跨ったトヨミは何かを抱えている。真っ白い犬だ。
ホキに気が付いて、振り返ったトヨミが微笑む。なんて素敵なんだろう、ホキが思う。何も言わずトヨミが馬の腹を蹴る。するとクロコマが嘶いて駆け出した。
「しっかり抱いてくれ。でないと、うぉっ! 落ちるっ!!」
トヨミの白い犬が叫び、とうとうホキが腰を抜かす。
「ユキマルって犬だったんだ……」
クロコマはどんどん空の彼方へと遠ざかる。そして見えなくなった――
「ユキマル、どう思う?」
トヨミが呟くように言った。
「あぁん? あの娘の家族は大喰らいか、大の芹好きなんだろうよ」
答える声はトヨミの足元から聞こえた。
「そんなこと訊いてない」
トヨミが苦笑する。
「まだ水は相当冷たい。見ろ、あの娘の足は真っ赤になってる」
「温めてあげたいって言い出しそうだな」
「あれ? 判っちゃった?」
「ふん! どうせトヨミが興味を持っているのは足よりも、足の付け根のあたりだろうよ」
「随分なことを言ってくれる。まぁ、その辺りに興味がないとは言わないよ――カシワデの郷の娘かな?」
「だろうね」
「名を訊いたら教えてくれるかな?」
するとユキマルが再びフンと鼻を鳴らした。
「さっさと行って済ませてきなよ。誰も来ないよう、ここで見張っててやるからさ」
「ユキマル、いつも済まないね」
トヨミがニヤッと笑う。そして娘を見詰めたまま、身を隠していた茂みからそっと出て行く。近寄る前に逃げだされてはおしまいだ。
男が女に名を尋ねる――それは関係を持ちたいという意思表示、満更でもなければ女は名を教えてくれる。それから女の家に通い、父親の許しを得て……と、なるところだが、それは正式な婚姻の場合だ。
野辺での男女の出会いはもっと大らかだった。互いに気に入れば物陰に隠れて睦みあい、それきりの関係なんてありふれていた。
トヨミが娘に近付いていく。それを見守ってユキマルが呟く。
「皇子さまの女好きにも困ったもんだよ。三日に空けず女漁りときてる」
そして溜息を吐く。
「それもしゃーねぇか。まだ若いしな。それに……あの妃さまじゃ遠慮が先で、満足なんかできないだろうさ」
どうやら娘もトヨミに気付いたようだ。バシャッと水が跳ねる音が聞こえた。トヨミたちに背を向けたユキマルが、周囲を警戒し始めた――
視線を感じてホキがハッとする。思わず後ろに引いた足が水面を踏み込んで、バシャッと音を立てた。
「そんなに驚かないで。倒れて水に浸かったら大変だ」
視線の主が微笑んでこちらを見ている。
誰だろう? カシワデの郷では見たことのない顔だ……ホキが声の主を見詰める。いや、見惚れた。
こんな綺麗な顔の人は見たことがない。女の人? いいや、声は男だった。それに体つきだって、どう見たって男だ。なのに涼やかな目はパッチリと、だけど大き過ぎるわけでもない。美しく弧を描く眉、すっとした鼻筋、仄かに赤い唇は薄いでも厚いでもなく、でも柔らかそうだ。肌は滑らかで白い。許されるならその頬にそっと触れて撫でてみたい……心の臓がトクンと音を立てたが、それにも気づかずホキは声の主を見詰め続けた。
「吾の顔に、何かついてる?」
照れて男が笑う。その笑顔が眩し過ぎて、ホキは何も言えずにいる。すると男が、今度は困り顔を見せた。
「えっと……驚かせちゃった? いや、何をしてるんだろうと思って」
「え、いえ、あの……芹を摘んでいるんです」
見て判らないの? と思ったが、そうも言えずにホキが答えた。
「あぁ……そう言えば、そこの籠に山盛りになっているのは芹だね――かなり摘んだみたいだけど、もっと欲しいんだ?」
「ここに生えているだけは摘むつもり」
「まだ水は冷たいだろう? 足が真っ赤になっているよ」
「これくらい、大したことじゃないから」
「足を冷やすと身体を壊す。それだけあれば充分なんじゃ? 岸に上がったらどう? 温めてあげよう」
「いいえ。足りないくらいです」
「足りない? いったい何人家族なんだ?」
「家族は両親と兄と、弟と妹が二人ずつ。秋にはもう一人増えます、妹か弟か」
「今は八人? その芹の量は、八人分にしても多過ぎなんじゃ?」
「芹は……郷の者に分けたいのです。最近、体調を崩す者が多くって、少しでも楽になればと」
「季節の変わり目だからなぁ――なるほど、芹には鎮静作用があるからね。そうか、それならこうしよう」
「えっ!?」
離れたところから動かなかった男がずんずん歩み寄ってくる。慌てて逃げようとするが思いのほか足が冷えていて、痺れてしまってすぐには動けない。
「怖がらなくていい。吾が摘んだほうが早いと思っただけだ」
水際で沓を脱ぎ、男がバシャリと水に足を突っ込んだ。
「ぬおっ! 其方、よくこの冷たさを堪えているな」
思わず上げた悲鳴に自分で照れて男が笑う。
「えぇと、芹はこれだな。どう摘めばいい?」
「あ、それは、この辺りを……」
「よし、判った。吾に任せて其方は岸に上がれ。この辺りを全部摘めばいいのだろう? それで足りるか?」
男に促されるまま岸に上がったホキ、物好きなと思いつつ男を眺める。
(なんだか楽しそう……)
水の冷たさに悲鳴を上げたくせに、男は芹を摘むのを楽しんでいる。
(それにしても――)
なんて派手な装束なんだろう? どうやったらあんな色に染められる? そのうえ艶々してて滑らかそう。あんな布、見たことがない。吾が着ている麻とは違うものなのかしら? 不思議なのはあの香り。近づいた時、あの男からは何かいい匂いがしていた。
驚くことが多過ぎて思考が追いつかないうちに、芹を摘み終えた男が岸に上がる。
「ほかにも生えている場所あるなら、教えてくれれば摘む。まだ籠に入りそうだぞ」
ニコニコと話しかけてくる。
「いいえ。これ以上摘んでも、背負って帰るのが大変だから」
「そうか。カシワデの郷の者か?」
「えぇ、まぁ」
「名は?」
来たっ! とホキが緊張する――いいかい。名を訊かれても答えちゃダメだ。教えたらそれは『許す』って意味だからね。出かけるたび、母親にそう言い聞かされている。でもどうしよう? なんだか答えなければ嫌われそうな気がする。この男に嫌われるのは……イヤだ。
ホキが迷っていると
「答えたくないなら答えなくてもいい。どうせいずれ判る」
沓を履きながら男が笑う。
「吾はトヨミ。覚えておいて欲しい――では、また会おう」
ホキの答えが待ちきれなかったのか、男は来た方向に戻って行く。そして繁みに入り込み、見えなくなった。嫌われた? ホキの心の臓が今度はドキドキと立て続けに音を立て、締め付けられるような苦しさを感じる。
(あぁ、でも、また会おうと言っていた……会いに来てくれるってこと?)
それでも不安だ。本当に来てくれるのか?
茂みの向こうからトヨミの声が聞こえた。
「ユキマル、帰るぞ。クロコマを呼べ」
答えるユキマルの声も聞こえた。
「なんだよ、トヨミ。もう終わったのかよ?」
終わったって、何が? それにクロコマって誰?
次に聞こえてきたのは犬の遠吠えだ。山犬? ホキが周囲を見渡した。そして驚きのあまり腰が抜けそうになる。
姿を現したのは黒い馬、四本の足だけが白い美しい馬だ。それが空を駆け抜けて、繁みの向こうに降り立った。
(なんで!? 天翔ける馬!?)
驚きのあまり悲鳴も出せないホキの目にさらに驚くべき光景が映り込む。
繁みは馬を隠しきれない。首の半分から上が突き出ている。
「よしっ! クロコマ、いい子だ」
馬に乗ったトヨミの上半身が見えた。クロコマって馬なんだ、ぼんやり思うホキ、クロコマに跨ったトヨミは何かを抱えている。真っ白い犬だ。
ホキに気が付いて、振り返ったトヨミが微笑む。なんて素敵なんだろう、ホキが思う。何も言わずトヨミが馬の腹を蹴る。するとクロコマが嘶いて駆け出した。
「しっかり抱いてくれ。でないと、うぉっ! 落ちるっ!!」
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