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末の弟が生まれたその日、トヨミがホキを訪れることはなかった。翌日も来ない。夜中に戸を叩く音がしないかと眠りの浅い日が続くホキ、そんなホキを悩ませるのはなかなか来ないトヨミだけではなかった。
嬰児の誕生祝に入れ代わり立ち代わり屋敷に顔を出す郷の者たちは、都の貴人にホキが気に入られたと知っている。何しろカタブが人手を借りて部屋を整えたのだ。嬰児の誕生とともにホキの話もあっという間にカシワデの郷を賑わせる噂となった。
彼らはみな一様に、祝を延べたあとはホキの話を聞きたがる。あるいは相手の貴人の事を聞きたがる。カタブは妻と嬰児に気を取られて、郷の者の話など上の空だ。ヒリはツンとして何も言おうとしない。気が向くものでは到底なかったが、ホキが郷の者の相手をするしかなかった。
彼らが一番に知りたがったのは相手の貴人の素性だ。言っていいものか迷い、ホキがカタブの顔色を窺う。すると、こちらのことなど気に留めていやしないだろうと思っていたカタブがホキに目配せをする。怖い顔だ。これは迂闊に明かしてはいけないと、ホキは言葉を濁し笑って誤魔化した。考えてみればトヨミは前の帝の皇子、軽々しく他者に告げていいはずがない。
郷の者の中にはホキではなく、貴人に気に入られたのはヒリだと勘違いする者もいて、ホキだと知ると妙な顔をしてホキを見た。そして取ってつけたようにホキの容貌を褒めてから、居た堪れなくなったのか早々に帰っていった。
噂を聞いて誰より気を揉んだのはカシワデの郷の若者クガネだっただろう。ホキの話を知ると他のことは投げ打って素っ飛んできたらしい。確かにホキなのだと、ヒリではないのだと確信するとほっと息を吐いた。
来たついでと言うわけではないのだろうが、この際だからとカタブに詰め寄る。ヒリと契る許しをくれと言ったのだ。
今はそれどころじゃないと無視を決め込むカタブ、だがクガネは引き下がらない。
『今すぐでなくても、必ず許すとせめて約束を』
ヒリも一緒になって食い下がる。見かねた妻が
『婿入も約束するなら許してもいいのでは?』
取りなすが黙っている。
『クガネのどこが気に入らない!?』
ヒリの怒鳴り声に驚いて泣き出した嬰児を、慌てて抱き上げた乳母があやす。乳母はもちろんカシワデの郷の女だ。少し前に出産したが早産で嬰児は助からなかった。溢れる乳に困っていると聞いて、ならば乳母にとカタブの妻が呼んだのだった。
カタブの妻に促されて嬰児を抱いたまま乳母が出て行く。するとやっとカタブがクガネとヒリに向き合った。
『約束などできん』
『吾に不服があるとでも!?』
『そうよ、どこが不足なのよ?』
若者は先だってのテイビの乱でカタブに従い、カタブの軍勢の中では目を引く働きをした。同世代では一番と言っていい。身体も大きく丈夫、もともと次の長候補の一人だ。今はまだ若者だが、カタブが長の務めを果たせなくなるころには程よい年ごろになる。
『ふむ……』
カタブが座り直して難しい顔をする。
『実はな、アスハナの地に一族を引き連れて移ろうかと思っている』
『アスハナ?』
一番先に反応したのはカタブの妻だ。が、カタブはそれを無視する。
『都の繁栄は話に聞き及んでいるだろう? 人々が溢れかえり、少々手狭と感じるほどだ。人が増えれば食い物も足りなくなってくる。そうなる前にどこかを開墾し、田畑を増やして増収を考えなくてはならない』
『それはカタブの仕事ではないのでは? ましてカシワデの郷と関わりのないこと』
『話は最後まで聞け――そこで帝は皇子のお一人に開拓を命じられた。めぼしい場所を定め、開墾し、街を作れ……都に集まった人々が、ここなら移り住んでも良いと思えるような街にしろ』
カタブが言葉を切ってクガネを睨む。
『吾はその皇子によい場所はないかと訊ねられ、アスハナが良いと答えた。まだ決まったわけではないが、もしアスハナと決まれば皇子をお助けしないわけにはいかぬ。吾もアスハナに移り住み、開墾の手伝いをする』
『移住の件は判ったが、それがどうヒリと吾の契りと関係するのだ?』
クガネの問いにカタブがフッと笑う。
『関係などない。が、それが決まるまで他のことは決められない――まだヒリは若い。クガネ、其方もだ。もう暫く待てぬこともなかろう』
『契るのは待てる。だけど約束がなければ安心できない』
『では、この話はなかったことにする』
『父親さま!?』
ヒリが悲鳴を上げ、クガネが抗議する。
『そんな、なんでそこまで?』
それにカタブが涼しい顔で答えた。
『吾が娘の婿になると言う事はカシワデの郷の次の長になるかもしれぬということ。約束がなければ待てないなどと言う不実な者に、大事な郷を任せられるものか』
これにはクガネがぐっと息を詰まらせる。ヒリを手に入れたければ、ここは退くしかない。
『承知いたしました――アスハナに移ることになったなら、他の者に負けぬ働きをお見せする。いいえ、アスハナに限らず、これから先もますます身を挺して働きましょう。ヒリに相応しい男になってみせますゆえ、婿候補から外されることのないようお願いする』
クガネが去ってから妻がカタブに言った。
『いい加減、勿体つけるのはやめたらどうです? どうせヒリはクガネにと考えているのでしょう?』
するとカタブが煩そうに答えた。
『クガネと決めてはいない。他にもっといい相手がいるかもしれない』
『カシワデの郷ではクガネが一番だって、カタブも言っていたじゃないの』
『カシワデの郷ではな』
『余所から連れてくる気? 一族の者のほうが郷のみなも納得して従うのでは?』
『……なにもヒリの相手が次の長と決まってはいない』
『えっ?』
『吾には他にも娘がいる。息子だっている。それを忘れるな』
立ち上がるカタブ、それ以上は訊くなと言う事か? そのまま部屋を出て行ってしまった。一人残された妻はあれこれと考える。
カタブがアスハナへの移住を言い出した時に浮かんだ疑念……もしやその皇子がホキの相手なのでは? だけどまさか、と打ち消した。貴人と言ってもソガシの縁者とか、せいぜい高い役職に就いた貴族程度だろう。皇子をこの屋敷に招くなど畏れ多すぎる。まして娘が寵愛を受けるなんて考えられない。
帝に開拓の勅を受けた皇子は誰なのか? 皇子と言っても様々だ。さして力のない皇子だっている。吾が屋敷に来た貴人はそんな皇子か? だがそれでは辻褄が合わない。勅を受けたのならば帝の覚えもいいのだろう。
思い違いなのだろう。ホキの相手はきっとソガシの縁者……気に入られればホキにも吾が一族にも益のあること、そうに違いない。
それでも妻は疑念を拭いきれずにいた。ホキの相手は皇子、そしてカタブは……ヒリさえも皇子に売り込もうとしているのではないか?――
クガネが屋敷に来ていた時、ホキはお産の手伝いをしてくれた女衆一人一人のもとに、出産祝いとともに礼の品を届けに行っていた。屋敷に戻るとすぐにヒリが泣きついて来て、カタブとクガネの遣り取りを知った。
「ねぇ、姉さま。父親さまを説得できない?」
涙ながらに訴えるヒリに、どうしたものかと心を痛める。己はどうやら思う相手と結ばれそうだ。妹にもそうなって欲しい……しかし有効な手段を思いつけない。
「父親さまは絶対許さないとは言わなかったのでしょう? クガネも父親さまを納得させると言ったのでしょう?」
だったらクガネを信じるしかない……気休めを言うしかなかった。
「何かの折に、早くクガネに決めたらどうかと吾も父親さまに言ってみる。でもね、今日はやめたほうがいい。余計に拗れるだけよ」
そりゃそうかも知れないけれど……頼りの姉にそう言われれば、いくら不満があってもヒリとて黙るしかない。
「だったら姉さま、アスハナになんか行きたくないってことも言ってくれない?」
「アスハナ?」
「そうなのよ、なんでも皇子の一人が帝の勅を受けてどこか開拓しなくちゃならないんだって。都に次ぐ街を造るらしいわ。で、父親さまったらその皇子にアスハナを勧めたらしいの。それで、アスハナに決まったら一族あげての移住を考えてるって父親さまが言うのよ」
カシワデから離れたくないと訴えるヒリに、ホキが困惑する。
きっとトヨミはアスハナを開拓すると決めるだろう。どこに決定権があり、誰の同意が必要なのか、そんなことはホキには判らない。けれどトヨミの口ぶりから、トヨミの気持ち次第で決まるのだと感じていた。だから多分アスハナに決まる。
「アスハナは母さまの生まれ育った地。カシワデも良いところだけど、きっと素敵なところよ」
「あら、カシワデよりもっと田舎だって。いつか母さまが言ってたわ」
「でも開かれて、大勢が集まる街になるのでしょう? そんな街を造るために父親さまもアスハナに移るのでしょう?」
「姉さまはカシワデを離れるのが辛くないの?」
そうか、アスハナに行くということはカシワデを出なくちゃならない。そこまで考えていなかった。でも、アスハナに行けばトヨミとの暮らしが待っている。だからアスハナに行きたい。だけど、カシワデを離れたくない思いもある。
「そりゃあ、カシワデを離れるのは寂しいわ」
アスハナにも芹が生えているかしら? フキやワラビは見付けられる? そうだ、庭のカタカゴは? 持って行けるようなものではない。
「でしょう? ね、無理にアスハナに移らなくたっていいじゃない。父親さまが男衆を率いて開拓の手伝いに行けばいいだけよ。姉さまもそう思うでしょ?」
「それはそうかもしれないけれど――まぁ、そんなに悩むことはないわ。アスハナに決まったらって話なんでしょ?」
「そっか。それじゃアスハナに決まらないようお祈りでもしようかな」
それは困ると言いたいが、理由を口にできないホキだ。開拓を命じられた皇子があの貴人だとヒリに告げるのは憚られた。お喋りなヒリは考えなしに言いふらしてしまうだろう。カタブはトヨミの素性を誰かに知られることに難色を示していた。きっと知られないのがトヨミのため、そしてホキのためなのだ。
開拓の地がアスハナ以外だったらカタブはどうするのだろう? その別の地に移住するだろうか? 移住して欲しいわけではないが、そのほうがトヨミの助けになると思った。それにトヨミとともに暮らすとしても、やはり近くに血縁がいるのと、遠くに離れているのでは心強さが変わってくる。カシワデの郷よりも、むしろ父母から離れがたい。
「ところで姉さま、夕餉はどうするの?」
ホキの心も知らず、ヒリが言った。ケロッとしたものだ。切り替えの早さはヒリの長所、ホキもしばしば助けられてきた。
「そうね、母さまのために米を搗いて炊きましょうか? あとはスズナがそろそろいい頃合いに漬かったのではないかしら?」
「母さまのお陰でこのところずっと米だわ。母さまに感謝ね。他には何を?」
「そうねぇ。何がいいかしらね? とにかく厨に行きましょう。ここで話していても料理は出来上がらないわ」
はいはい、ヒリが立ち上がる。今日は面倒臭そうじゃなかった――
嬰児が生まれて五日目の夜だった。庭側の戸を叩く音に、ウトウトしていたホキが気付いて慌てて起き上がる。その勢いで戸を開けようとしたがトヨミの言葉を思い出した。ほかの男が来ても部屋に入れるな。油断すると痛い目にあうぞ……
ほかの男が来るとは思えなかったがこのまま開けたらトヨミに怒られそうだ。それに万が一別の誰かだったら?
「戸を叩いているのは誰ぞ?」
「吾だよ、ホキ」
間違いない、トヨミだ――勢いよく戸を開けて屈みこんだホキ、すぐ足下に居たトヨミに抱き着いていく。そうなるとは思っていなかったのだろう、驚きながらもホキを抱きとめるトヨミ、
「そんなに勢いつけると……」
後ろに倒れてしまうぞ、そう言おうとしていたトヨミの声が途絶える。ホキの唇がトヨミの口を塞いでいた。
互いの唇を味わった後、身体を離したホキの頬を撫でてトヨミが微笑む。
「ホキからしてくるとは思ってなかった。嬉しいぞ」
ホキが含羞んでトヨミに答える。
「こんなことするつもりじゃなかったのに、自分でも判らないわ」
「どうだ、身体が熱くなったか?」
「身体が熱くなる? これくらいじゃ汗を掻いたりしないわよ?」
やはり意味は通じていない。トヨミが苦笑する。
「お腹は空いてない? 何か用意したほうがいいのかしら?」
「いや、要らない。すぐに都に帰らなきゃならないんだ」
トヨミが寂しげに言った。
嬰児の誕生祝に入れ代わり立ち代わり屋敷に顔を出す郷の者たちは、都の貴人にホキが気に入られたと知っている。何しろカタブが人手を借りて部屋を整えたのだ。嬰児の誕生とともにホキの話もあっという間にカシワデの郷を賑わせる噂となった。
彼らはみな一様に、祝を延べたあとはホキの話を聞きたがる。あるいは相手の貴人の事を聞きたがる。カタブは妻と嬰児に気を取られて、郷の者の話など上の空だ。ヒリはツンとして何も言おうとしない。気が向くものでは到底なかったが、ホキが郷の者の相手をするしかなかった。
彼らが一番に知りたがったのは相手の貴人の素性だ。言っていいものか迷い、ホキがカタブの顔色を窺う。すると、こちらのことなど気に留めていやしないだろうと思っていたカタブがホキに目配せをする。怖い顔だ。これは迂闊に明かしてはいけないと、ホキは言葉を濁し笑って誤魔化した。考えてみればトヨミは前の帝の皇子、軽々しく他者に告げていいはずがない。
郷の者の中にはホキではなく、貴人に気に入られたのはヒリだと勘違いする者もいて、ホキだと知ると妙な顔をしてホキを見た。そして取ってつけたようにホキの容貌を褒めてから、居た堪れなくなったのか早々に帰っていった。
噂を聞いて誰より気を揉んだのはカシワデの郷の若者クガネだっただろう。ホキの話を知ると他のことは投げ打って素っ飛んできたらしい。確かにホキなのだと、ヒリではないのだと確信するとほっと息を吐いた。
来たついでと言うわけではないのだろうが、この際だからとカタブに詰め寄る。ヒリと契る許しをくれと言ったのだ。
今はそれどころじゃないと無視を決め込むカタブ、だがクガネは引き下がらない。
『今すぐでなくても、必ず許すとせめて約束を』
ヒリも一緒になって食い下がる。見かねた妻が
『婿入も約束するなら許してもいいのでは?』
取りなすが黙っている。
『クガネのどこが気に入らない!?』
ヒリの怒鳴り声に驚いて泣き出した嬰児を、慌てて抱き上げた乳母があやす。乳母はもちろんカシワデの郷の女だ。少し前に出産したが早産で嬰児は助からなかった。溢れる乳に困っていると聞いて、ならば乳母にとカタブの妻が呼んだのだった。
カタブの妻に促されて嬰児を抱いたまま乳母が出て行く。するとやっとカタブがクガネとヒリに向き合った。
『約束などできん』
『吾に不服があるとでも!?』
『そうよ、どこが不足なのよ?』
若者は先だってのテイビの乱でカタブに従い、カタブの軍勢の中では目を引く働きをした。同世代では一番と言っていい。身体も大きく丈夫、もともと次の長候補の一人だ。今はまだ若者だが、カタブが長の務めを果たせなくなるころには程よい年ごろになる。
『ふむ……』
カタブが座り直して難しい顔をする。
『実はな、アスハナの地に一族を引き連れて移ろうかと思っている』
『アスハナ?』
一番先に反応したのはカタブの妻だ。が、カタブはそれを無視する。
『都の繁栄は話に聞き及んでいるだろう? 人々が溢れかえり、少々手狭と感じるほどだ。人が増えれば食い物も足りなくなってくる。そうなる前にどこかを開墾し、田畑を増やして増収を考えなくてはならない』
『それはカタブの仕事ではないのでは? ましてカシワデの郷と関わりのないこと』
『話は最後まで聞け――そこで帝は皇子のお一人に開拓を命じられた。めぼしい場所を定め、開墾し、街を作れ……都に集まった人々が、ここなら移り住んでも良いと思えるような街にしろ』
カタブが言葉を切ってクガネを睨む。
『吾はその皇子によい場所はないかと訊ねられ、アスハナが良いと答えた。まだ決まったわけではないが、もしアスハナと決まれば皇子をお助けしないわけにはいかぬ。吾もアスハナに移り住み、開墾の手伝いをする』
『移住の件は判ったが、それがどうヒリと吾の契りと関係するのだ?』
クガネの問いにカタブがフッと笑う。
『関係などない。が、それが決まるまで他のことは決められない――まだヒリは若い。クガネ、其方もだ。もう暫く待てぬこともなかろう』
『契るのは待てる。だけど約束がなければ安心できない』
『では、この話はなかったことにする』
『父親さま!?』
ヒリが悲鳴を上げ、クガネが抗議する。
『そんな、なんでそこまで?』
それにカタブが涼しい顔で答えた。
『吾が娘の婿になると言う事はカシワデの郷の次の長になるかもしれぬということ。約束がなければ待てないなどと言う不実な者に、大事な郷を任せられるものか』
これにはクガネがぐっと息を詰まらせる。ヒリを手に入れたければ、ここは退くしかない。
『承知いたしました――アスハナに移ることになったなら、他の者に負けぬ働きをお見せする。いいえ、アスハナに限らず、これから先もますます身を挺して働きましょう。ヒリに相応しい男になってみせますゆえ、婿候補から外されることのないようお願いする』
クガネが去ってから妻がカタブに言った。
『いい加減、勿体つけるのはやめたらどうです? どうせヒリはクガネにと考えているのでしょう?』
するとカタブが煩そうに答えた。
『クガネと決めてはいない。他にもっといい相手がいるかもしれない』
『カシワデの郷ではクガネが一番だって、カタブも言っていたじゃないの』
『カシワデの郷ではな』
『余所から連れてくる気? 一族の者のほうが郷のみなも納得して従うのでは?』
『……なにもヒリの相手が次の長と決まってはいない』
『えっ?』
『吾には他にも娘がいる。息子だっている。それを忘れるな』
立ち上がるカタブ、それ以上は訊くなと言う事か? そのまま部屋を出て行ってしまった。一人残された妻はあれこれと考える。
カタブがアスハナへの移住を言い出した時に浮かんだ疑念……もしやその皇子がホキの相手なのでは? だけどまさか、と打ち消した。貴人と言ってもソガシの縁者とか、せいぜい高い役職に就いた貴族程度だろう。皇子をこの屋敷に招くなど畏れ多すぎる。まして娘が寵愛を受けるなんて考えられない。
帝に開拓の勅を受けた皇子は誰なのか? 皇子と言っても様々だ。さして力のない皇子だっている。吾が屋敷に来た貴人はそんな皇子か? だがそれでは辻褄が合わない。勅を受けたのならば帝の覚えもいいのだろう。
思い違いなのだろう。ホキの相手はきっとソガシの縁者……気に入られればホキにも吾が一族にも益のあること、そうに違いない。
それでも妻は疑念を拭いきれずにいた。ホキの相手は皇子、そしてカタブは……ヒリさえも皇子に売り込もうとしているのではないか?――
クガネが屋敷に来ていた時、ホキはお産の手伝いをしてくれた女衆一人一人のもとに、出産祝いとともに礼の品を届けに行っていた。屋敷に戻るとすぐにヒリが泣きついて来て、カタブとクガネの遣り取りを知った。
「ねぇ、姉さま。父親さまを説得できない?」
涙ながらに訴えるヒリに、どうしたものかと心を痛める。己はどうやら思う相手と結ばれそうだ。妹にもそうなって欲しい……しかし有効な手段を思いつけない。
「父親さまは絶対許さないとは言わなかったのでしょう? クガネも父親さまを納得させると言ったのでしょう?」
だったらクガネを信じるしかない……気休めを言うしかなかった。
「何かの折に、早くクガネに決めたらどうかと吾も父親さまに言ってみる。でもね、今日はやめたほうがいい。余計に拗れるだけよ」
そりゃそうかも知れないけれど……頼りの姉にそう言われれば、いくら不満があってもヒリとて黙るしかない。
「だったら姉さま、アスハナになんか行きたくないってことも言ってくれない?」
「アスハナ?」
「そうなのよ、なんでも皇子の一人が帝の勅を受けてどこか開拓しなくちゃならないんだって。都に次ぐ街を造るらしいわ。で、父親さまったらその皇子にアスハナを勧めたらしいの。それで、アスハナに決まったら一族あげての移住を考えてるって父親さまが言うのよ」
カシワデから離れたくないと訴えるヒリに、ホキが困惑する。
きっとトヨミはアスハナを開拓すると決めるだろう。どこに決定権があり、誰の同意が必要なのか、そんなことはホキには判らない。けれどトヨミの口ぶりから、トヨミの気持ち次第で決まるのだと感じていた。だから多分アスハナに決まる。
「アスハナは母さまの生まれ育った地。カシワデも良いところだけど、きっと素敵なところよ」
「あら、カシワデよりもっと田舎だって。いつか母さまが言ってたわ」
「でも開かれて、大勢が集まる街になるのでしょう? そんな街を造るために父親さまもアスハナに移るのでしょう?」
「姉さまはカシワデを離れるのが辛くないの?」
そうか、アスハナに行くということはカシワデを出なくちゃならない。そこまで考えていなかった。でも、アスハナに行けばトヨミとの暮らしが待っている。だからアスハナに行きたい。だけど、カシワデを離れたくない思いもある。
「そりゃあ、カシワデを離れるのは寂しいわ」
アスハナにも芹が生えているかしら? フキやワラビは見付けられる? そうだ、庭のカタカゴは? 持って行けるようなものではない。
「でしょう? ね、無理にアスハナに移らなくたっていいじゃない。父親さまが男衆を率いて開拓の手伝いに行けばいいだけよ。姉さまもそう思うでしょ?」
「それはそうかもしれないけれど――まぁ、そんなに悩むことはないわ。アスハナに決まったらって話なんでしょ?」
「そっか。それじゃアスハナに決まらないようお祈りでもしようかな」
それは困ると言いたいが、理由を口にできないホキだ。開拓を命じられた皇子があの貴人だとヒリに告げるのは憚られた。お喋りなヒリは考えなしに言いふらしてしまうだろう。カタブはトヨミの素性を誰かに知られることに難色を示していた。きっと知られないのがトヨミのため、そしてホキのためなのだ。
開拓の地がアスハナ以外だったらカタブはどうするのだろう? その別の地に移住するだろうか? 移住して欲しいわけではないが、そのほうがトヨミの助けになると思った。それにトヨミとともに暮らすとしても、やはり近くに血縁がいるのと、遠くに離れているのでは心強さが変わってくる。カシワデの郷よりも、むしろ父母から離れがたい。
「ところで姉さま、夕餉はどうするの?」
ホキの心も知らず、ヒリが言った。ケロッとしたものだ。切り替えの早さはヒリの長所、ホキもしばしば助けられてきた。
「そうね、母さまのために米を搗いて炊きましょうか? あとはスズナがそろそろいい頃合いに漬かったのではないかしら?」
「母さまのお陰でこのところずっと米だわ。母さまに感謝ね。他には何を?」
「そうねぇ。何がいいかしらね? とにかく厨に行きましょう。ここで話していても料理は出来上がらないわ」
はいはい、ヒリが立ち上がる。今日は面倒臭そうじゃなかった――
嬰児が生まれて五日目の夜だった。庭側の戸を叩く音に、ウトウトしていたホキが気付いて慌てて起き上がる。その勢いで戸を開けようとしたがトヨミの言葉を思い出した。ほかの男が来ても部屋に入れるな。油断すると痛い目にあうぞ……
ほかの男が来るとは思えなかったがこのまま開けたらトヨミに怒られそうだ。それに万が一別の誰かだったら?
「戸を叩いているのは誰ぞ?」
「吾だよ、ホキ」
間違いない、トヨミだ――勢いよく戸を開けて屈みこんだホキ、すぐ足下に居たトヨミに抱き着いていく。そうなるとは思っていなかったのだろう、驚きながらもホキを抱きとめるトヨミ、
「そんなに勢いつけると……」
後ろに倒れてしまうぞ、そう言おうとしていたトヨミの声が途絶える。ホキの唇がトヨミの口を塞いでいた。
互いの唇を味わった後、身体を離したホキの頬を撫でてトヨミが微笑む。
「ホキからしてくるとは思ってなかった。嬉しいぞ」
ホキが含羞んでトヨミに答える。
「こんなことするつもりじゃなかったのに、自分でも判らないわ」
「どうだ、身体が熱くなったか?」
「身体が熱くなる? これくらいじゃ汗を掻いたりしないわよ?」
やはり意味は通じていない。トヨミが苦笑する。
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