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症状はハシヒと同じだった。
「誰も部屋に近付かせるな――ホキ、其方もだ」
熱に魘されながらも言い張るトヨミ、ホキが従うはずもない。トヨミがハシヒを看たように、ホキもトヨミから離れず付きっ切りで世話をした。
ホキまで病に罹ると心配するトヨミにホキが笑う。
「トヨミの病はイヤだけど、約束を果たせるのは嬉しいの――トヨミが病の時は看病するって約束したのを覚えてる? 甘やかしてあげるとも言ったわ」
「吾も約束を果たしてない。なんでも叶えるって約束したのに」
「それって吾がトヨミに言ってないからだわ」
「まだ何がいいか思いつかない?」
「そうねぇ、フシヤマは見に連れて行って貰ったし」
「クロコマが連れて行ってくれたんだ。何か、吾にしかできないことがいい」
「トヨミは時どき子どもみたいなことを言うよね」
ホキがウフフと笑う。
「トヨミと居られてずっと幸せだった。だから何も思いつかないのかも」
「何か一つくらいあるだろう?」
「美味しい物をたくさん食べさせて貰った。いろんなところに連れて行ってくれた。これ以上、何を願えばいいの?――あ、でも、いつか行ったミチゴの湧き湯、あそこのツバキがまた見たいわ」
「あぁ、あれは見事なものだった。判った、連れて行く。クロコマに頼もう。で、吾にしかできないことは?」
「トヨミを誤魔化すのは難しいわね」
「吾を誤魔化そうとしたのか?」
「トヨミはしょっちゅう誤魔化していたでしょう?」
「そうだったか?」
「都から木簡が届いた時は笑ったわ。何事かと思ったら、イナノを妃にする理由がつらつらと書いてあった。どう誤魔化すか、必死なのがよく伝わってきた……誰を妃にしても吾を好きでいてくれればいいの」
「少しは妬いてくれたほうが嬉しいぞ」
「じゃあ、新しい妃ができたら妬くわ――だから早く元気になって、新しい妃を迎えて」
「ホキを妬かせるためだなんて、妃になる女人が気の毒だ」
今はホキのお陰で気が紛れて笑っているが、もう助からない……約束できるものならば約束したい。だがきっと、その約束は果たせない。そうと判っていて期待させていいのか?
ホキがトヨミを見て呟くように言った。
「そうだわ、思いついた。トヨミじゃなきゃダメなこと――来年の春、カシワデに連れてって。あのツバキをトヨミと一緒にまた眺めたい」
二人が出会ったころ、トヨミが通うために用意された部屋はツバキ咲く庭に面していた。初めてその部屋を訪れた日、庭を行ったトヨミはツバキを眺めながら、屋敷内を回ったホキが来るのを待っていた。
あの時、ツバキを見ながらトヨミが思っていたのはカタコのことだった。カタコが好きだったツバキがここにもある……ツバキを見ればカタコを思い出していた。それがいつの間にかカタコを思い出すこともなくなった。カタコがいたことも、愛しいと感じていたことも忘れていた。ホキだけが全てになった。
死を間近に感じる今、ツバキが見たいとホキが言う。どうしてなのか、愛する女との別れ際にはツバキが付きまとう。ツバキは初恋の女を連れ去った。今度は己が行く番だ。
「トヨミ?」
黙ってしまったトヨミをホキが呼ぶ。うっすらと笑んでトヨミが言った。
「吾よりも長生きするって約束したな。吾はもう長くない。約束通り、吾がいなくなっても幸せに暮らせ――極楽からはこちらが見えるらしい。だからずっと見守っている。いつか寿命を終えたホキを迎えに行くから、それまで楽しく生きろ」
「そんな話は聞きたくない」
「ちゃんと聞け――吾のことはユキマルが迎えに来てくれる。向こうにはクルメもいるし母者もいる。向こうは向こうで楽しいだろう。だからって、早く行こうなんて考えるんじゃないぞ」
微笑むトヨミに、ホキは何も言えない。
その頃、ソガシの屋敷ではトウジがエミゾを責めていた。
「トヨミの病、どうにかならないのか?」
「無茶を言うな。殺すための毒草だ。助けられっこない」
エミゾが舌打ちをする。
「さっさと教えてやればよかったんだ。庭に毒草を植えたってね。保身を考えて言えなかったんだろう? 吾ばかりを責めるのは虫が良すぎるぞ」
悔しいがエミゾの言うことももっともだ。トウジが唇を噛み締める。そして、ふと思いつく。
「原因が毒草なら、流行り病ではないって事?」
「それがどうかしたか?」
「それをトヨミに教えられない?」
「それには毒草だと教えるしかないぞ?」
愚かなことをとエミゾが笑う。
「なにしろどうにかならない? 流行り病だからと誰も部屋に近寄らせない。吾でさえもトヨミに会えない」
「あぁ、聞いた。ホキが付きっ切りで世話をしてるってね」
「なんで吾でなくホキなのよ!?」
「そんなこと、言われてもなぁ」
エミゾが呆れて苦笑する。
「そんなに恋しいなら会いに行ったほうがいいぞ――ヘタすれば今夜、持って明日」
「そんな……」
全身から力が抜けたトウジ、目が虚ろだ。自分が悪いわけじゃないと思いながら、そんな姉が哀れに思えてエミゾが言った。
「なんだったら、馬で連れてってやろうか?」
意味が判っているのかも怪しいが、焦点の定まらない眼差しのままトウジがコクリと頷いた――
ナカツ宮の周囲には周辺に住む民人たちが集まって祈りを捧げていた。
「マダラ宮ではヤマセを中心に祈祷が行われてるらしいぞ」
馬に揺られながらエミゾがトウジの耳元で囁いた。
「どうせならヤマセに会って行くか?」
それに答えるトウジの声は聞こえない。
ナカツ宮では一堂に集まって祈祷しているのだろう、門には誰もいなかった。屋敷の入り口前でトウジを馬から降ろした。
「ここから先は姉者一人で行け。吾はここで待ってる――まぁ、妃が来たのだ。咎められやしない。でも、もしトヨミに何かあったら疑われないとも限らない。だから誰にも見られないように気を付けるんだぞ。トヨミの顔を見たらすぐに戻って来い。いいな、長居はするなよ」
弟の心配に答えることなくトウジは屋敷に入っていった。菓子の礼をするためにハシヒを訪ねたことが何度もあった。トヨミはきっと、ハシヒが使っていた部屋を自室にしたことだろう。
夜の闇の中、目指す部屋へと先を急ぐ。遠く祈祷の声は聞こえているのに、なぜだろう? 自分の足音は聞こえない。
目指す部屋の前で中の様子を窺った。声をかけるかどうか迷い、戸を細く開けて中を覗いてみる。静かだ。でも寝息が聞こえる。戸を広く開けると、床が二枚、並べて延べられていた。
「トヨミ……」
トウジの呟きに手前の床が動く。身体を起こしてトウジを見たのは女だった。不思議そうな顔をしている。視線を横に移してみれば、隣で眠っているのは間違いない、トヨミだ。
これがホキ?……トウジの心が激しく揺れる。
たかが豪族の娘、まして特別美しいわけでもない。それなのにトヨミはこの女を誰よりも愛している。
マダラ宮に住まわせただけでも充分許せないのに、ナカツ宮にも一緒に移った。流行り病だからと吾には見舞うことさえ禁じたのに、トヨミの部屋に入り浸り、床を並べて休んでいる。
ホキが首を傾げてトウジに言った。
「誰です? ここは病人の部屋、近づいてはいけません」
「夫を訪ねてはいけないと?」
「トウジさま? そんな……今すぐ部屋を出てください。トウジさままで倒れてはトヨミが悲しみます」
トヨミが悲しむ? そんなことがあるものか――吾との婚姻は政略、トヨミが吾のことで心を傷めたりするものか。熱く重苦しい嫉妬がトウジの胸に込み上げてくる。
「流行り病などではない」
トウジが静かに告げた。
「其方を殺すため、ナカツ宮に吾が毒草を植えた――すべてホキ、其方のせいだ!」
床に座って見上げるホキにトウジが詰め寄る。膝をつき、両手をホキの肩に伸ばして揺さぶった。
「其方はたかが一豪族の娘。吾の父親は大臣、同じ豪族でも大きく違う。どうやってトヨミに取り入った?」
身分の違いはホキも充分承知している。謝るしかないと思った。
「お許しください。吾を、そしてトヨミを……」
「なんだと!?」
ホキの言葉はますますトウジの怒りを買った。
「トヨミを許せ、だと? トヨミは、トヨミは……」
其方のものか!? 叫びたかった。が、叫ぶ代わりにホキの首に両手を回した。そしてぐいぐいと締め付けた。
トヨミは其方のものかと問おうとした時、それでは吾のものなのかとトウジの中のトウジが嘲笑った。違う、吾のものでもない。吾のものにしたかったのに!
ホキは抵抗せず、じっと苦痛に耐えている。もう少し、もう少しでホキはこの世から居なくなる。それだけを考えて、トウジがさらに力を込めた。が――
「……トウジ」
微かに聞こえた声に、パッとホキから手を放した。ホキの力の抜けた身体が頽れていく。
「トウジ、すまない……許してくれ」
「トヨミ!」
「こんなことになったのは其方の心に気付いてやれなかった吾の責任だ」
消えそうな声……トヨミは横たわったまま、もう自分では身体を動かすこともできないのだろう。それでも必死に訴えている。
「吾が悪かった。だからホキは許してくれ」
トヨミまでも!? ホキがトヨミを許せと言ったと同じように、トヨミはホキを許せと言う。二人の間には誰も割り込めないと、まるで見せつけるかのように……そしてトウジが現実に引き戻される。
「早く去れ。そろそろハクセが様子を見に来る、その前に去れ」
「えっ……」
そうだ、エミゾが言っていた。トヨミに何かあれば疑われる。病でもないホキに何かあれば疑いどころでは済まない。
「早く行け。ここに来たことは誰にも言うな」
トヨミはホキを殺めようとした吾を庇う気だ……悔しくて悲しくて、どうにもならない。けれど、トヨミの言うとおりだ。ここに居てはいけない。
何も言えずにトウジが部屋を出ていく。トヨミが大きく息を吐く。そして最愛の妻を呼ぶ。
「ホキ……」
だが答える声はない。
這ってトヨミが僅かずつだがホキに近寄る。ハクセが来ると言ったのは嘘だ。来るのは日の出を見てからだ。
「ホキ?」
やっとのことでホキの身体に触れた。そして溜息を吐いてから、もっとホキに近付こうと足掻いた。
どうにか寄り添ったトヨミがホキの身体を抱くように腕を回し、最愛の妻の耳元で囁いた。
「其方は嘘吐きだな。吾より長生きすると約束したではないか」
ナカツ宮・マダラ宮の内で外で、あるいは思いつくままの場所で、多くの者がトヨミの回復を願い祈り続ける。それはその夜、途絶えることがなかった。そして空が白み始めたころ、ハクセがトヨミの部屋へ行くため祈りの場から離れた。
トヨミの部屋では、床に座ったトヨミが胸にホキを抱いていた。
「父者、どうしたのですか?」
ハクセを見ることなく、トヨミが静かに言った。
「ホキは世を去った。吾よりも先に逝ってしまった」
「はぁ!?」
驚いたハクセが思わず駈け寄りホキを覗き込む。落命して、時が経っていると一目で判った。
「なぜこんなことに……」
力なく呟くハクセにトヨミが答える。
「吾の傍に居させなければよかった。すまないハクセ、其方から母者を奪ってしまった」
「父者のせいではない。傍にいることは母者の望み」
「吾もすぐだ――あとのことは判っているな?」
「そんな気の弱いことを」
「現実に目を向けなくてはな。吾の遺言、必ず叶えておくれ」
「父者……」
涙を堪えるハクセにトヨミが微笑む。
「遺言を追加する――ナカツ宮は焼き払え。二月の間に三人の死人を出すなど、不吉だ……特に庭は念入りに焼くように。判ったな?」
庭に毒草が植えられているとは言わなかった。
トウジが部屋に入ったことは気付いていた。声も聞こえていた。だが、すぐには目が開けられず、当然のごとく身体も動かせなかった。もし動かせていたならば、トウジを止められたのにと悔やむ。
トウジは、ホキを死なせたのは自分だと、己を責めるだろうか? ホキは病死だったとハクセに言えば、ハクセは疑うことなくそれを公に広めるだろう。せめてもう、トウジを苦しめたくはない。ホキの死は己の行いによるものではないと、トウジに思わせたかった。
「それと、一つ願いを聞いてくれないか?」
胸の中に抱いたホキの顔を見ながらトヨミが言った。
「マダラ宮に行ってツバキの枝を取ってきて欲しい」
「ツバキはもう花が終わって――」
「花は要らない」
「判りました。今、すぐに。ほかには?」
「そうだな……朝餉は芹の粥がいい」
ナカツ宮を出て、ハクセがマダラ宮に向かう。二月(現在の四月)だと言うのに雪が舞っていた。
つい一月余り前までハクセも住んでいたマダラ宮、庭のどこにツバキがあるかは知っている。葉がよく茂ったものを数本選んで手折り、ナカツ宮に戻ろうとするハクセの足元を白い犬が走り抜けた。
(ユキマル?)
ユキマルはハシヒが身罷った翌日、マダラ宮の庭で冷たくなっていた。母者の供をしたのだろうとトヨミは言った。いま、ここにいる白い犬がユキマルのはずはない。
それでも気になって目で追うと、厩に向かっている。そして姿が消えた。中に入ったのだろうかと厩を覗いてみる。いるはずのクロコマの姿がない。そしてどこか遠くで蹄の音と嘶きが聞こえた。
いやな予感にハクセが走る。息せき切ってトヨミの部屋に駆け込んだ。
「父者……」
ハクセの手からツバキの枝が落ちる。それを気にせずトヨミに近付くと、しゃがみ込んでトヨミを覗き込んだ。床に座ってホキを抱いたままなのに、トヨミは既に息をしていない。
やはりあの白い犬はユキマルだったとハクセが思う。父者を迎えに来たのだ。母者を抱いてクロコマに乗り、父者は行ってしまった。
人を呼びに行こうとして立ち上がり、ハッとする。ツバキの枝に蕾はなかったはずだ。それなのに、床に落ちたツバキの枝には幾つも花が咲いていた――
夜通し祈祷していたイナノが庭に出たのは夜明け直後、トヨミに呼ばれたような気がした。もちろんいるはずもない。言い表せない不安を感じつつ、部屋に戻ろうとしたイナノの頬に雪が降る。今は春なのに? 不思議さに空を見上げると、遥か彼方に黒い馬、背に乗せているのは、
「トヨミ? ホキ?」
見間違いかと目を擦って再び見るが、もうどこにも見えなかった。
部屋に戻り、ともに祈祷していたオシフル帝にそれを話すと
「そうか、トヨミは世を去ったか」
と呟いた。
「そんな、まさか?」
狼狽えるイナノにオシフル帝が静かに言った。
「不憫な甥であった――あれがもう少し欲深ければ……」
欲が深ければ、どうだったのか? それをオシフル帝が口にすることはなかった。
泣きじゃくるイナノをオシフル帝が慰める。
「トヨミは極楽に行った。あちらからはこちらが見えるそうだ。あまり泣くとトヨミが悲しむぞ」
はっとイナノがオシフル帝を見る。
「祖母さま、お願いがあります」
こちらから見えないのなら、せめて絵にしたい――イナノの望みは許され、数年かけて極楽でのトヨミの様子を描いた『極楽曼荼羅繍帳』が作成される。絹布を土台に多彩な色糸を使った刺繍で構成された繍帳……銘文にはトヨミの系譜のほか、作成に至る経緯が記されていた。
すでにハシヒが埋葬されていたイソナガの陵に、遺言通りトヨミとホキも埋葬された。そして遺言通り、トヨミを継いでヤマセが家長となる。ハクセはヤマセに仕え、共にマダラ宮を支えていった。
トヨミが、そしてハシヒが案じた若木、吹き荒れる嵐から守りたかったヤマセとハクセたちは……二人の死からおよそ二十年後、その子も含め惨殺されることになる。
首謀者はエミゾの息子イリカだった。ヤマセ殺害をイリカから聞いたエミゾは激怒したと記録にあるが、その怒りの原因は不明である。
そしてトウジ……エミゾに連れられてナカツ宮に行ったあと、エミゾとともに都に帰っている。が、そののちの暮らしぶりは判っていない。
「誰も部屋に近付かせるな――ホキ、其方もだ」
熱に魘されながらも言い張るトヨミ、ホキが従うはずもない。トヨミがハシヒを看たように、ホキもトヨミから離れず付きっ切りで世話をした。
ホキまで病に罹ると心配するトヨミにホキが笑う。
「トヨミの病はイヤだけど、約束を果たせるのは嬉しいの――トヨミが病の時は看病するって約束したのを覚えてる? 甘やかしてあげるとも言ったわ」
「吾も約束を果たしてない。なんでも叶えるって約束したのに」
「それって吾がトヨミに言ってないからだわ」
「まだ何がいいか思いつかない?」
「そうねぇ、フシヤマは見に連れて行って貰ったし」
「クロコマが連れて行ってくれたんだ。何か、吾にしかできないことがいい」
「トヨミは時どき子どもみたいなことを言うよね」
ホキがウフフと笑う。
「トヨミと居られてずっと幸せだった。だから何も思いつかないのかも」
「何か一つくらいあるだろう?」
「美味しい物をたくさん食べさせて貰った。いろんなところに連れて行ってくれた。これ以上、何を願えばいいの?――あ、でも、いつか行ったミチゴの湧き湯、あそこのツバキがまた見たいわ」
「あぁ、あれは見事なものだった。判った、連れて行く。クロコマに頼もう。で、吾にしかできないことは?」
「トヨミを誤魔化すのは難しいわね」
「吾を誤魔化そうとしたのか?」
「トヨミはしょっちゅう誤魔化していたでしょう?」
「そうだったか?」
「都から木簡が届いた時は笑ったわ。何事かと思ったら、イナノを妃にする理由がつらつらと書いてあった。どう誤魔化すか、必死なのがよく伝わってきた……誰を妃にしても吾を好きでいてくれればいいの」
「少しは妬いてくれたほうが嬉しいぞ」
「じゃあ、新しい妃ができたら妬くわ――だから早く元気になって、新しい妃を迎えて」
「ホキを妬かせるためだなんて、妃になる女人が気の毒だ」
今はホキのお陰で気が紛れて笑っているが、もう助からない……約束できるものならば約束したい。だがきっと、その約束は果たせない。そうと判っていて期待させていいのか?
ホキがトヨミを見て呟くように言った。
「そうだわ、思いついた。トヨミじゃなきゃダメなこと――来年の春、カシワデに連れてって。あのツバキをトヨミと一緒にまた眺めたい」
二人が出会ったころ、トヨミが通うために用意された部屋はツバキ咲く庭に面していた。初めてその部屋を訪れた日、庭を行ったトヨミはツバキを眺めながら、屋敷内を回ったホキが来るのを待っていた。
あの時、ツバキを見ながらトヨミが思っていたのはカタコのことだった。カタコが好きだったツバキがここにもある……ツバキを見ればカタコを思い出していた。それがいつの間にかカタコを思い出すこともなくなった。カタコがいたことも、愛しいと感じていたことも忘れていた。ホキだけが全てになった。
死を間近に感じる今、ツバキが見たいとホキが言う。どうしてなのか、愛する女との別れ際にはツバキが付きまとう。ツバキは初恋の女を連れ去った。今度は己が行く番だ。
「トヨミ?」
黙ってしまったトヨミをホキが呼ぶ。うっすらと笑んでトヨミが言った。
「吾よりも長生きするって約束したな。吾はもう長くない。約束通り、吾がいなくなっても幸せに暮らせ――極楽からはこちらが見えるらしい。だからずっと見守っている。いつか寿命を終えたホキを迎えに行くから、それまで楽しく生きろ」
「そんな話は聞きたくない」
「ちゃんと聞け――吾のことはユキマルが迎えに来てくれる。向こうにはクルメもいるし母者もいる。向こうは向こうで楽しいだろう。だからって、早く行こうなんて考えるんじゃないぞ」
微笑むトヨミに、ホキは何も言えない。
その頃、ソガシの屋敷ではトウジがエミゾを責めていた。
「トヨミの病、どうにかならないのか?」
「無茶を言うな。殺すための毒草だ。助けられっこない」
エミゾが舌打ちをする。
「さっさと教えてやればよかったんだ。庭に毒草を植えたってね。保身を考えて言えなかったんだろう? 吾ばかりを責めるのは虫が良すぎるぞ」
悔しいがエミゾの言うことももっともだ。トウジが唇を噛み締める。そして、ふと思いつく。
「原因が毒草なら、流行り病ではないって事?」
「それがどうかしたか?」
「それをトヨミに教えられない?」
「それには毒草だと教えるしかないぞ?」
愚かなことをとエミゾが笑う。
「なにしろどうにかならない? 流行り病だからと誰も部屋に近寄らせない。吾でさえもトヨミに会えない」
「あぁ、聞いた。ホキが付きっ切りで世話をしてるってね」
「なんで吾でなくホキなのよ!?」
「そんなこと、言われてもなぁ」
エミゾが呆れて苦笑する。
「そんなに恋しいなら会いに行ったほうがいいぞ――ヘタすれば今夜、持って明日」
「そんな……」
全身から力が抜けたトウジ、目が虚ろだ。自分が悪いわけじゃないと思いながら、そんな姉が哀れに思えてエミゾが言った。
「なんだったら、馬で連れてってやろうか?」
意味が判っているのかも怪しいが、焦点の定まらない眼差しのままトウジがコクリと頷いた――
ナカツ宮の周囲には周辺に住む民人たちが集まって祈りを捧げていた。
「マダラ宮ではヤマセを中心に祈祷が行われてるらしいぞ」
馬に揺られながらエミゾがトウジの耳元で囁いた。
「どうせならヤマセに会って行くか?」
それに答えるトウジの声は聞こえない。
ナカツ宮では一堂に集まって祈祷しているのだろう、門には誰もいなかった。屋敷の入り口前でトウジを馬から降ろした。
「ここから先は姉者一人で行け。吾はここで待ってる――まぁ、妃が来たのだ。咎められやしない。でも、もしトヨミに何かあったら疑われないとも限らない。だから誰にも見られないように気を付けるんだぞ。トヨミの顔を見たらすぐに戻って来い。いいな、長居はするなよ」
弟の心配に答えることなくトウジは屋敷に入っていった。菓子の礼をするためにハシヒを訪ねたことが何度もあった。トヨミはきっと、ハシヒが使っていた部屋を自室にしたことだろう。
夜の闇の中、目指す部屋へと先を急ぐ。遠く祈祷の声は聞こえているのに、なぜだろう? 自分の足音は聞こえない。
目指す部屋の前で中の様子を窺った。声をかけるかどうか迷い、戸を細く開けて中を覗いてみる。静かだ。でも寝息が聞こえる。戸を広く開けると、床が二枚、並べて延べられていた。
「トヨミ……」
トウジの呟きに手前の床が動く。身体を起こしてトウジを見たのは女だった。不思議そうな顔をしている。視線を横に移してみれば、隣で眠っているのは間違いない、トヨミだ。
これがホキ?……トウジの心が激しく揺れる。
たかが豪族の娘、まして特別美しいわけでもない。それなのにトヨミはこの女を誰よりも愛している。
マダラ宮に住まわせただけでも充分許せないのに、ナカツ宮にも一緒に移った。流行り病だからと吾には見舞うことさえ禁じたのに、トヨミの部屋に入り浸り、床を並べて休んでいる。
ホキが首を傾げてトウジに言った。
「誰です? ここは病人の部屋、近づいてはいけません」
「夫を訪ねてはいけないと?」
「トウジさま? そんな……今すぐ部屋を出てください。トウジさままで倒れてはトヨミが悲しみます」
トヨミが悲しむ? そんなことがあるものか――吾との婚姻は政略、トヨミが吾のことで心を傷めたりするものか。熱く重苦しい嫉妬がトウジの胸に込み上げてくる。
「流行り病などではない」
トウジが静かに告げた。
「其方を殺すため、ナカツ宮に吾が毒草を植えた――すべてホキ、其方のせいだ!」
床に座って見上げるホキにトウジが詰め寄る。膝をつき、両手をホキの肩に伸ばして揺さぶった。
「其方はたかが一豪族の娘。吾の父親は大臣、同じ豪族でも大きく違う。どうやってトヨミに取り入った?」
身分の違いはホキも充分承知している。謝るしかないと思った。
「お許しください。吾を、そしてトヨミを……」
「なんだと!?」
ホキの言葉はますますトウジの怒りを買った。
「トヨミを許せ、だと? トヨミは、トヨミは……」
其方のものか!? 叫びたかった。が、叫ぶ代わりにホキの首に両手を回した。そしてぐいぐいと締め付けた。
トヨミは其方のものかと問おうとした時、それでは吾のものなのかとトウジの中のトウジが嘲笑った。違う、吾のものでもない。吾のものにしたかったのに!
ホキは抵抗せず、じっと苦痛に耐えている。もう少し、もう少しでホキはこの世から居なくなる。それだけを考えて、トウジがさらに力を込めた。が――
「……トウジ」
微かに聞こえた声に、パッとホキから手を放した。ホキの力の抜けた身体が頽れていく。
「トウジ、すまない……許してくれ」
「トヨミ!」
「こんなことになったのは其方の心に気付いてやれなかった吾の責任だ」
消えそうな声……トヨミは横たわったまま、もう自分では身体を動かすこともできないのだろう。それでも必死に訴えている。
「吾が悪かった。だからホキは許してくれ」
トヨミまでも!? ホキがトヨミを許せと言ったと同じように、トヨミはホキを許せと言う。二人の間には誰も割り込めないと、まるで見せつけるかのように……そしてトウジが現実に引き戻される。
「早く去れ。そろそろハクセが様子を見に来る、その前に去れ」
「えっ……」
そうだ、エミゾが言っていた。トヨミに何かあれば疑われる。病でもないホキに何かあれば疑いどころでは済まない。
「早く行け。ここに来たことは誰にも言うな」
トヨミはホキを殺めようとした吾を庇う気だ……悔しくて悲しくて、どうにもならない。けれど、トヨミの言うとおりだ。ここに居てはいけない。
何も言えずにトウジが部屋を出ていく。トヨミが大きく息を吐く。そして最愛の妻を呼ぶ。
「ホキ……」
だが答える声はない。
這ってトヨミが僅かずつだがホキに近寄る。ハクセが来ると言ったのは嘘だ。来るのは日の出を見てからだ。
「ホキ?」
やっとのことでホキの身体に触れた。そして溜息を吐いてから、もっとホキに近付こうと足掻いた。
どうにか寄り添ったトヨミがホキの身体を抱くように腕を回し、最愛の妻の耳元で囁いた。
「其方は嘘吐きだな。吾より長生きすると約束したではないか」
ナカツ宮・マダラ宮の内で外で、あるいは思いつくままの場所で、多くの者がトヨミの回復を願い祈り続ける。それはその夜、途絶えることがなかった。そして空が白み始めたころ、ハクセがトヨミの部屋へ行くため祈りの場から離れた。
トヨミの部屋では、床に座ったトヨミが胸にホキを抱いていた。
「父者、どうしたのですか?」
ハクセを見ることなく、トヨミが静かに言った。
「ホキは世を去った。吾よりも先に逝ってしまった」
「はぁ!?」
驚いたハクセが思わず駈け寄りホキを覗き込む。落命して、時が経っていると一目で判った。
「なぜこんなことに……」
力なく呟くハクセにトヨミが答える。
「吾の傍に居させなければよかった。すまないハクセ、其方から母者を奪ってしまった」
「父者のせいではない。傍にいることは母者の望み」
「吾もすぐだ――あとのことは判っているな?」
「そんな気の弱いことを」
「現実に目を向けなくてはな。吾の遺言、必ず叶えておくれ」
「父者……」
涙を堪えるハクセにトヨミが微笑む。
「遺言を追加する――ナカツ宮は焼き払え。二月の間に三人の死人を出すなど、不吉だ……特に庭は念入りに焼くように。判ったな?」
庭に毒草が植えられているとは言わなかった。
トウジが部屋に入ったことは気付いていた。声も聞こえていた。だが、すぐには目が開けられず、当然のごとく身体も動かせなかった。もし動かせていたならば、トウジを止められたのにと悔やむ。
トウジは、ホキを死なせたのは自分だと、己を責めるだろうか? ホキは病死だったとハクセに言えば、ハクセは疑うことなくそれを公に広めるだろう。せめてもう、トウジを苦しめたくはない。ホキの死は己の行いによるものではないと、トウジに思わせたかった。
「それと、一つ願いを聞いてくれないか?」
胸の中に抱いたホキの顔を見ながらトヨミが言った。
「マダラ宮に行ってツバキの枝を取ってきて欲しい」
「ツバキはもう花が終わって――」
「花は要らない」
「判りました。今、すぐに。ほかには?」
「そうだな……朝餉は芹の粥がいい」
ナカツ宮を出て、ハクセがマダラ宮に向かう。二月(現在の四月)だと言うのに雪が舞っていた。
つい一月余り前までハクセも住んでいたマダラ宮、庭のどこにツバキがあるかは知っている。葉がよく茂ったものを数本選んで手折り、ナカツ宮に戻ろうとするハクセの足元を白い犬が走り抜けた。
(ユキマル?)
ユキマルはハシヒが身罷った翌日、マダラ宮の庭で冷たくなっていた。母者の供をしたのだろうとトヨミは言った。いま、ここにいる白い犬がユキマルのはずはない。
それでも気になって目で追うと、厩に向かっている。そして姿が消えた。中に入ったのだろうかと厩を覗いてみる。いるはずのクロコマの姿がない。そしてどこか遠くで蹄の音と嘶きが聞こえた。
いやな予感にハクセが走る。息せき切ってトヨミの部屋に駆け込んだ。
「父者……」
ハクセの手からツバキの枝が落ちる。それを気にせずトヨミに近付くと、しゃがみ込んでトヨミを覗き込んだ。床に座ってホキを抱いたままなのに、トヨミは既に息をしていない。
やはりあの白い犬はユキマルだったとハクセが思う。父者を迎えに来たのだ。母者を抱いてクロコマに乗り、父者は行ってしまった。
人を呼びに行こうとして立ち上がり、ハッとする。ツバキの枝に蕾はなかったはずだ。それなのに、床に落ちたツバキの枝には幾つも花が咲いていた――
夜通し祈祷していたイナノが庭に出たのは夜明け直後、トヨミに呼ばれたような気がした。もちろんいるはずもない。言い表せない不安を感じつつ、部屋に戻ろうとしたイナノの頬に雪が降る。今は春なのに? 不思議さに空を見上げると、遥か彼方に黒い馬、背に乗せているのは、
「トヨミ? ホキ?」
見間違いかと目を擦って再び見るが、もうどこにも見えなかった。
部屋に戻り、ともに祈祷していたオシフル帝にそれを話すと
「そうか、トヨミは世を去ったか」
と呟いた。
「そんな、まさか?」
狼狽えるイナノにオシフル帝が静かに言った。
「不憫な甥であった――あれがもう少し欲深ければ……」
欲が深ければ、どうだったのか? それをオシフル帝が口にすることはなかった。
泣きじゃくるイナノをオシフル帝が慰める。
「トヨミは極楽に行った。あちらからはこちらが見えるそうだ。あまり泣くとトヨミが悲しむぞ」
はっとイナノがオシフル帝を見る。
「祖母さま、お願いがあります」
こちらから見えないのなら、せめて絵にしたい――イナノの望みは許され、数年かけて極楽でのトヨミの様子を描いた『極楽曼荼羅繍帳』が作成される。絹布を土台に多彩な色糸を使った刺繍で構成された繍帳……銘文にはトヨミの系譜のほか、作成に至る経緯が記されていた。
すでにハシヒが埋葬されていたイソナガの陵に、遺言通りトヨミとホキも埋葬された。そして遺言通り、トヨミを継いでヤマセが家長となる。ハクセはヤマセに仕え、共にマダラ宮を支えていった。
トヨミが、そしてハシヒが案じた若木、吹き荒れる嵐から守りたかったヤマセとハクセたちは……二人の死からおよそ二十年後、その子も含め惨殺されることになる。
首謀者はエミゾの息子イリカだった。ヤマセ殺害をイリカから聞いたエミゾは激怒したと記録にあるが、その怒りの原因は不明である。
そしてトウジ……エミゾに連れられてナカツ宮に行ったあと、エミゾとともに都に帰っている。が、そののちの暮らしぶりは判っていない。
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