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アラームが鳴って我に返る。すぐに懐海の幼稚園の送迎バスが、園児を送ってくる時間だ。少しばかり身だしなみを整えてから部屋を出た。
残暑厳しく、容赦なく日差しが照り付ける。日傘を持ってくればよかったと思うが、今更遅い。目指す先には顔見知りが先に待っていた。
「ナツミちゃんママ、大丈夫? 顔色が悪いわよ?」
「そう? 寝不足かしら……それより咲菜ちゃんママ、そろそろ歩くのも大変なんじゃ?」
「そうなのよぉ……」
咲菜ちゃんママが幸せそうに笑う。明らかに妊婦とわかる体形が、はち切れんばかりに命の輝きを見せている。もうすぐ二人目が生まれるのだ。
「ナツミが咲菜ちゃんを羨ましがってたわ」
「あら、そうなの? だったらナツミちゃんママ、そろそろ次の人を探してみる?」
ママ友たちはわざわざ愛実にパートナーがいないことをいちいち詮索したりはしない。別れたのか、もともといなかったのか、あるいはすでにこの世にいない……その三通りしかないし、どれであったにしろ、本人から話し出さない限り、あれこれ聞くのは遠慮するものだ。
たまにずかずか立ち入ったことを聞きだそうとする人もいたが、そんな人からはそれとなく遠ざかった。少なくとも愛実はこの五年間、そうしてきた。
「次の人?」
「そうよ、次の人。どんな事情があるか知らないけれど、昔の人は忘れて、この先一緒にいてくれる人を探すのも悪くないかもしれないよ」
あぁ、そういうことか――別の誰かなんて、考えたこともなかった。それに、昔の人とは思っていなかった。
「どんな人がいいか言ってくれれば、当てがないわけじゃないのよ。主人の友達に独身男が何人かいてね、いい人がいないかって言われてるの」
そう言いながら咲菜ちゃんママが愛実を見る。そして愛実の戸惑う顔を見て、少しだけ笑む。
「ごめん、無理よね――咲菜が言ってた。ナツミちゃんがね、『ママはパパを待っているの』ってお話ししてくれたって」
「ナツミが?」
「うん……ナツミちゃんのパパはひょっとして亡くなったの? まぁ、どっちにしても、ナツミちゃんのママの心の中には今もその人が住んでいるんでしょ? 次の人なんか無理よね……あ、バスが来た」
バイバイ! また明日ね! 子どもの明るい声が響く。遠ざかるバスを見送って、それぞれの親子も別れていく。
「ありがとう、咲菜ちゃんママ」
愛実の言葉に、ママ友は笑顔で答えた。
「咲菜ちゃんママと、どんなお話ししてたの?」
愛実を見上げてナツミが問う。このところ、好奇心が旺盛になってきたようで、いろいろなことを知りたがる。『なぜなぜ?』『どうして?』攻撃はまだないけれど、そのうち始まるのかしら、と期待と不安が入り混じる心境の愛実だ。
「赤ちゃん、もうすぐね、って」
少しはそんな話もした。まるきりの嘘じゃない。
あぁ、と、頷いてナツミが笑む。なんとなく、大人の真似をしているように見えて、心の中で笑ってしまう。
「弟なんだって。咲菜ちゃん、妹がよかったのに、ちょっとがっかりなんだって」
「へぇ……でも、生まれてきたら大喜びよ」
「うん、弟だってきっと可愛いよね!」
アパートの階段をのぼりながら、暑いわねぇ、と呟くナツミに、あら、ひょっとしてわたしの真似? と愛実が思う。
ナツミは意識してそうしているのかしら? それとも親子だから真似ているように見えるの? それとも、一緒に暮らしているから、口癖や仕草が似てくるの? 見た目はともかく、きっとその全部で親子って似てくるんだろうな、と思う。
蒸かしたサツマイモのおやつを食べながら、晩ご飯はなぁに? とナツミが訊いてくる。
「そうね、ナツミは何が食べたい?」
「エビ!」
「エビ? 珍しいわね、エビが食べたいなんて初めてね」
「うん! パパもエビ、好きでしょ?」
「え?」
確かに、懐空はエビが好きだった。でも、なぜナツミがそれを知っている?
「エビが好きだって、どうして知ってるの? パパに聞いたの?」
まさか、と思いつつ、そう訊いてみる。夢ででも会ったのかもしれない。するとナツミは
「ううん、ナツミはパパに会ったことないよ?」
と、キョトンとした顔をする。
「それじゃあ、なんで、パパがエビを好きだって知ってるの?」
「だってママが言ってたもん」
「ママが?」
「うん、『カイア、エビ好きね』って」
「懐空……?」
「カイア、ってナツミのパパでしょ?」
血の気が引くのを感じる。
「……ママ、いつそんなこと言ったっけ?」
「エビ好きね、ってのは昨日。でも、いっつも言ってるよ、カイアって……夜、寝てるとき。ママ、ってナツミが呼んでもお返事しないの」
「あ……」
「カイアって言って泣いてるときもある。ママ、会いたくって泣いてるんだと思った。違った?―― あれ、ママ、泣かないで……」
ナツミの不思議な発言は、自分の寝言が原因だった。愛実に覚えはないものの、何度か繰り返される寝言をつなぎ合わせ、ナツミなりのストーリーを作り上げた。
どうしよう……どんなに頑張っても、夢までは制御できない。これからも繰り返される寝言をナツミはどう受け止めるだろう。今はまだ判らないことも、物事への理解が深まるとともに知られることになる。
そして愛実に聞くだろう。パパは死んだの? なんでパパは一緒にいないの? パパはどこにいるの?
それよりも、懐空と言う名をナツミはすでに知っている。愛実の本棚に並べられた『大野懐空』といつか必ず結び付ける。漢字が読めないから気が付いていないだけだ。
急に泣き出した愛実をナツミが心配そうにのぞき込む。
「少し疲れちゃったみたい――一緒にお昼寝しよう」
疲れると大人は泣くの? ナツミは不思議そうな顔をしたけれど、愛実に従ってベッドに潜り込んだ。そして添い寝する母親にしがみ付くように、やがて眠りにつく。その寝顔を見つめながら、真由美との話を思い出していた。
杉山はナツミのことも、愛実に偶然会ったことも、懐空には知らせていないらしい。それどころか、懐空が杉山の子だと言うことも、今のところ知らせていない。
愛実の予想通り、由紀恵は懐空を妊娠したと杉山に言わないまま離れていた。
「大野先生の母親は、自分のしたことがまわりまわって息子に帰ってきたと感じているそうよ。罰が当たったんだって」
「罰? わたしが懐空に、あるいはお母さんに罰を当てるため、懐空の前から姿を消したと言うの? 違う、そんなんじゃない!」
愛実の抗議に真由美は
「大野先生の母親はそう感じているってことよ。それにあみ、わたしに言っても仕方ないでしょう。彼の母親か、本人に言えばいいのよ」
と呆れる。そして、ふと疑問に思ったことを愛実に聞いた。
「そういえば、大野懐空の母親っていくつなの?」
「今年六十三のはずよ。彼を産んだのが三十五の時、その時、杉山先生は二十か二十一」
「……そうだったんだ――そうね、それなら黙って身を引くってありそうよね」
真由美が溜息を吐く。
「その事実を大野先生が知ったら、どう思うんだろう?」
「父親が杉山涼成だってこと?」
「うん、それもあるけど、母親が、父親に黙っていなくなったってこと、そして父親がずっと自分の母親を探してたってこと。しかも子供がいるなんて知らなかったってこと」
答えない愛実に真由美が続ける。
「大野先生ね、あみがいなくなった時、あみが病気なんじゃないかって、相当心配したらしいわよ」
「わたしが病気?」
「悪阻だったんじゃない? 彼はそんなこと思ってもいないだろうから、病気で彼に負担をかけるんじゃないかって、あみがいなくなったのかも、って思ったみたい」
「……」
「役所に行って、警察に行って、病院もいくつか回ったって――どこにも手掛かりはなかったって。教えて貰えなかったってことだと思うけど。警察ではストーカーと間違えられたとか」
真由美は愛実が何か言うかと待ったようだが、
「ねぇ、あみ、どうなの? 大野先生があなたにナツミちゃんがいると知ったら、どう思うと思う?」
と愛実に訊いた。
「それは……」
「杉山先生は、大野先生のお母さんを責めたそうよ」
クスリと真由美が笑う。それを
「なんで笑うのよ?」
と愛実が責める。
「ごめん、あみを笑ったんじゃないの――その話をしてくれた時の杉山先生を思い出して、笑っちゃったのよ」
「――どういうこと?」
「ん、なんていうかな。ただの愚痴? 顔を顰めて、そんなに僕は頼りなかったか、そりゃそうか、やっと二十を過ぎた程度だ、でも、少しは信じてくれても、って、グダグダだった」
「……」
「そうそう、こうも言ってた――子どもを苦労して育てる楽しみを奪われた、そう思ったって」
「苦労して育てる楽しみ……」
「ねぇ、あみ。あなたの彼はなんていうかしらね? わたしは大野先生に会ったことがない。どんな人なのか判らない。でも、あなたなら判るんじゃないの?」
残暑厳しく、容赦なく日差しが照り付ける。日傘を持ってくればよかったと思うが、今更遅い。目指す先には顔見知りが先に待っていた。
「ナツミちゃんママ、大丈夫? 顔色が悪いわよ?」
「そう? 寝不足かしら……それより咲菜ちゃんママ、そろそろ歩くのも大変なんじゃ?」
「そうなのよぉ……」
咲菜ちゃんママが幸せそうに笑う。明らかに妊婦とわかる体形が、はち切れんばかりに命の輝きを見せている。もうすぐ二人目が生まれるのだ。
「ナツミが咲菜ちゃんを羨ましがってたわ」
「あら、そうなの? だったらナツミちゃんママ、そろそろ次の人を探してみる?」
ママ友たちはわざわざ愛実にパートナーがいないことをいちいち詮索したりはしない。別れたのか、もともといなかったのか、あるいはすでにこの世にいない……その三通りしかないし、どれであったにしろ、本人から話し出さない限り、あれこれ聞くのは遠慮するものだ。
たまにずかずか立ち入ったことを聞きだそうとする人もいたが、そんな人からはそれとなく遠ざかった。少なくとも愛実はこの五年間、そうしてきた。
「次の人?」
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「ごめん、無理よね――咲菜が言ってた。ナツミちゃんがね、『ママはパパを待っているの』ってお話ししてくれたって」
「ナツミが?」
「うん……ナツミちゃんのパパはひょっとして亡くなったの? まぁ、どっちにしても、ナツミちゃんのママの心の中には今もその人が住んでいるんでしょ? 次の人なんか無理よね……あ、バスが来た」
バイバイ! また明日ね! 子どもの明るい声が響く。遠ざかるバスを見送って、それぞれの親子も別れていく。
「ありがとう、咲菜ちゃんママ」
愛実の言葉に、ママ友は笑顔で答えた。
「咲菜ちゃんママと、どんなお話ししてたの?」
愛実を見上げてナツミが問う。このところ、好奇心が旺盛になってきたようで、いろいろなことを知りたがる。『なぜなぜ?』『どうして?』攻撃はまだないけれど、そのうち始まるのかしら、と期待と不安が入り混じる心境の愛実だ。
「赤ちゃん、もうすぐね、って」
少しはそんな話もした。まるきりの嘘じゃない。
あぁ、と、頷いてナツミが笑む。なんとなく、大人の真似をしているように見えて、心の中で笑ってしまう。
「弟なんだって。咲菜ちゃん、妹がよかったのに、ちょっとがっかりなんだって」
「へぇ……でも、生まれてきたら大喜びよ」
「うん、弟だってきっと可愛いよね!」
アパートの階段をのぼりながら、暑いわねぇ、と呟くナツミに、あら、ひょっとしてわたしの真似? と愛実が思う。
ナツミは意識してそうしているのかしら? それとも親子だから真似ているように見えるの? それとも、一緒に暮らしているから、口癖や仕草が似てくるの? 見た目はともかく、きっとその全部で親子って似てくるんだろうな、と思う。
蒸かしたサツマイモのおやつを食べながら、晩ご飯はなぁに? とナツミが訊いてくる。
「そうね、ナツミは何が食べたい?」
「エビ!」
「エビ? 珍しいわね、エビが食べたいなんて初めてね」
「うん! パパもエビ、好きでしょ?」
「え?」
確かに、懐空はエビが好きだった。でも、なぜナツミがそれを知っている?
「エビが好きだって、どうして知ってるの? パパに聞いたの?」
まさか、と思いつつ、そう訊いてみる。夢ででも会ったのかもしれない。するとナツミは
「ううん、ナツミはパパに会ったことないよ?」
と、キョトンとした顔をする。
「それじゃあ、なんで、パパがエビを好きだって知ってるの?」
「だってママが言ってたもん」
「ママが?」
「うん、『カイア、エビ好きね』って」
「懐空……?」
「カイア、ってナツミのパパでしょ?」
血の気が引くのを感じる。
「……ママ、いつそんなこと言ったっけ?」
「エビ好きね、ってのは昨日。でも、いっつも言ってるよ、カイアって……夜、寝てるとき。ママ、ってナツミが呼んでもお返事しないの」
「あ……」
「カイアって言って泣いてるときもある。ママ、会いたくって泣いてるんだと思った。違った?―― あれ、ママ、泣かないで……」
ナツミの不思議な発言は、自分の寝言が原因だった。愛実に覚えはないものの、何度か繰り返される寝言をつなぎ合わせ、ナツミなりのストーリーを作り上げた。
どうしよう……どんなに頑張っても、夢までは制御できない。これからも繰り返される寝言をナツミはどう受け止めるだろう。今はまだ判らないことも、物事への理解が深まるとともに知られることになる。
そして愛実に聞くだろう。パパは死んだの? なんでパパは一緒にいないの? パパはどこにいるの?
それよりも、懐空と言う名をナツミはすでに知っている。愛実の本棚に並べられた『大野懐空』といつか必ず結び付ける。漢字が読めないから気が付いていないだけだ。
急に泣き出した愛実をナツミが心配そうにのぞき込む。
「少し疲れちゃったみたい――一緒にお昼寝しよう」
疲れると大人は泣くの? ナツミは不思議そうな顔をしたけれど、愛実に従ってベッドに潜り込んだ。そして添い寝する母親にしがみ付くように、やがて眠りにつく。その寝顔を見つめながら、真由美との話を思い出していた。
杉山はナツミのことも、愛実に偶然会ったことも、懐空には知らせていないらしい。それどころか、懐空が杉山の子だと言うことも、今のところ知らせていない。
愛実の予想通り、由紀恵は懐空を妊娠したと杉山に言わないまま離れていた。
「大野先生の母親は、自分のしたことがまわりまわって息子に帰ってきたと感じているそうよ。罰が当たったんだって」
「罰? わたしが懐空に、あるいはお母さんに罰を当てるため、懐空の前から姿を消したと言うの? 違う、そんなんじゃない!」
愛実の抗議に真由美は
「大野先生の母親はそう感じているってことよ。それにあみ、わたしに言っても仕方ないでしょう。彼の母親か、本人に言えばいいのよ」
と呆れる。そして、ふと疑問に思ったことを愛実に聞いた。
「そういえば、大野懐空の母親っていくつなの?」
「今年六十三のはずよ。彼を産んだのが三十五の時、その時、杉山先生は二十か二十一」
「……そうだったんだ――そうね、それなら黙って身を引くってありそうよね」
真由美が溜息を吐く。
「その事実を大野先生が知ったら、どう思うんだろう?」
「父親が杉山涼成だってこと?」
「うん、それもあるけど、母親が、父親に黙っていなくなったってこと、そして父親がずっと自分の母親を探してたってこと。しかも子供がいるなんて知らなかったってこと」
答えない愛実に真由美が続ける。
「大野先生ね、あみがいなくなった時、あみが病気なんじゃないかって、相当心配したらしいわよ」
「わたしが病気?」
「悪阻だったんじゃない? 彼はそんなこと思ってもいないだろうから、病気で彼に負担をかけるんじゃないかって、あみがいなくなったのかも、って思ったみたい」
「……」
「役所に行って、警察に行って、病院もいくつか回ったって――どこにも手掛かりはなかったって。教えて貰えなかったってことだと思うけど。警察ではストーカーと間違えられたとか」
真由美は愛実が何か言うかと待ったようだが、
「ねぇ、あみ、どうなの? 大野先生があなたにナツミちゃんがいると知ったら、どう思うと思う?」
と愛実に訊いた。
「それは……」
「杉山先生は、大野先生のお母さんを責めたそうよ」
クスリと真由美が笑う。それを
「なんで笑うのよ?」
と愛実が責める。
「ごめん、あみを笑ったんじゃないの――その話をしてくれた時の杉山先生を思い出して、笑っちゃったのよ」
「――どういうこと?」
「ん、なんていうかな。ただの愚痴? 顔を顰めて、そんなに僕は頼りなかったか、そりゃそうか、やっと二十を過ぎた程度だ、でも、少しは信じてくれても、って、グダグダだった」
「……」
「そうそう、こうも言ってた――子どもを苦労して育てる楽しみを奪われた、そう思ったって」
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