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7章 絡みつく視線
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ローシェッタ国王なら面識があるものの、ラクティメシッスとは森の聖堂入り口で擦れ違ったのが最初だ。
「馬車にお乗りになっているのをお見かけしたことがあります。その時は王太子さまと存じ上げず無遠慮に見てしまいました。その事でしょうか?」
これは本心、そうとしか思えない。
「わたしも覚えていますよ。その時、誰だったっけって思ったんです。それって、以前にも会っているってことですよね?」
「王太子さまとお会いしたなら忘れられるはずありません。他人の空似ではないでしょうか?」
「差し支えなければ、名を教えて貰えませんか? ひょっとしたら思い出すかもしれません。マデルが知っているのは通り名か仮名ですよね?」
穏やかな笑み、これだ、この男の怖いところは。答えても良いような気になってしまう……ピエッチェがラクティメシッスを真直ぐに見る。向こうもピエッチェを真直ぐに見ている。
「ダメ、ピエッチェを真の名で呼んでもいいのはわたしだけ」
笑いを含んだクルテの声が、ピエッチェとラクティメシッスの間に割り込んだ。
「たとえ王太子さまでも教えてあげない。マデルにだって教えてないのに、なんで教えて貰えると思ったのかな?」
「つうっ……!?」
一瞬、鋭い目つきでクルテを見たラクティメシッス、それを誤魔化すようにすぐ笑顔に戻り、掌を顔に当てて笑い声をあげた。
「あはは! お嬢さんには勝てそうもありませんね――恋人への無礼、許しくださいな」
謝罪はクルテに向けてだ。ピエッチェを見ようともしない。
「引止めてしまいましたね。気をつけて帰るのですよ。くれぐれもマデリエンテを頼みます」
打ち合わせをしてから宿舎に戻ると言うラクティメシッスを詰め所に残し、クルテと二人で建物を出る。が、すぐにどちらからともなく足を止めた。リュネの近くで佇む人影に気が付いたからだ。
「やぁ……」
男がピエッチェに声を掛けてくる。レストランの前で、ピエッチェを倒そうとして決着が付かなかったあの男だ。まさか続きをしようとでも言うのか?
「そんな顔するなって。もうヘトヘトだ。やる気はねぇよ」
男が先回りして言った。
「ちょっと訊きたいことがあるんで待ってた」
そう言いながら、男は訊くかどうかを迷っているようだ。夜の闇を眺めるような仕草をした。
黙って男を見ているピエッチェの腕にクルテが腕を絡めた。チラリとクルテを見たピエッチェ、
「話があるならさっさとしてくれないか? 早く帰りたい」
視線を動かさず男に言った。
「えっ? あ、あぁ……」
考え事をしていたのか、ハッとした男がピエッチェとクルテの様子に気付き、
「そうだな、うかうかしてたら夜が明けちまう」
と、含みを持たせていった。朝までにしたいことがあるんだろう? 判っているぞ、とでも言いたそうだ。
「いや……うーーん。あんたさ、騎士なのかい? 王太子さまと待ち合わせって本当なのか?」
そこか。でも、それを知ってどうする?
「ちょっと王太子さまに世話になったことがある。で、その礼をしたかったんだが、不要だと笑われた」
世話になったとはギュームの件だ。だからまるきりの嘘とも言い切れない。礼をするなんて発想はなかったが、本来だったらするべきだと思った。でもラクティメシッスが受け取るとも思えないし、今のピエッチェでは礼のしようがあるはずもない。
「王太子さまに礼だなんて不遜だな?」
男が愉快そうに笑う。少しも疑っていないようだ。
「そうか! あんたたちなんだろう? なんとかって親爺を森の聖堂で見つけたってのは? そうか、うん、そうだ。あそこの魔物もあんたたちが退治した。違うとは言わせないぞ」
自分の思い付きに男はますます気を良くしたようだ。嘘をついても仕方がないので、ピエッチェは肯定も否定もせずに流すことにした。
「ふむ……なんとかって親爺、街にとっては迷惑だったらしいな」
「あぁ、面白く思ってないヤツもいるみたいだ。以前から街の景観が悪いって、金持ち連中が文句を言ってた。揉めてたんだけどその親爺が戻ってきたら、街人の中でも金を持ってるヤツらがやっぱり塗り直そうって言い出したもんでね」
なるほど、脱税がバレる前にってことか? 時期の一致が、言い出したのはギュームだと誤解を生んだのかもしれない。
「で、どうなんだ? あんたは騎士なのかい?」
男はどうしてもそのあたりが知りたいようだ。でも、どうして?
「俺はな、ガキの頃、騎士になりたかったんだ」
ピエッチェの返事を待たず男が言った。
「俺はデレドケで生まれ育った。デレドケには伝説の英雄がいる。俺はソイツに憧れた――でもさ、俺、字が読めないんだよ」
「うん? 雷のシャーレジア?」
「そうそう! 知ってるのか? 近所に住んでたんだ。ガキの俺に剣の手ほどきをしてくれたのはあいつさ。休暇で帰って来た時だけだがな――俺が訊きたかったのはシャーレジアのことだ」
男が真面目な顔でピエッチェに向き直った。
「あんたの剣、シャーレジアのだな? 組み合ってた時、目の前でしっかり見た」
男が発する怒りに、ピエッチェがムッとする。
「子どもの頃に見たきりなんじゃないのか? なぜ言い切る?」
「俺の親父は刀鍛冶でな。その剣は親父が鍛えたもの、シャーレジア最後の剣だ。なんでおまえが持っている?」
なるほど、デレドケの刀鍛冶か。
「シャーレジアはデレドケで武具屋をやってる。でさ、剣を買いに行ったらくれたんだ」
「へっ? 買ったのではなく? 盗んだのでもなく?」
「あぁ、金を払うと言ったら拒絶された」
男がキョトンとピエッチェを見る。
「そうか、くれたのか!? そいつはいいや!」
信じたのか、それとも怒りを増幅させたのか、ピエッチェには判らないまま男が爆笑する。腹を抱え、涙を滲ませてさえいる男に、
「いや、疑われてもそれが事実なんだ」
ピエッチェが情けない声で言った。
そんなピエッチェに男がうんうんと頷く。
「あのジイさんらしいと思ってな。あんた、気に入られたんだ。羨ましい……いや、あんたなら当然か」
笑いが納まらない男に、今度はピエッチェが訊いた。
「あんたの父親は、今もデレドケで刀鍛冶を?」
デレドケの状況を思い出していた。センシリケが約束を違えるとは思えないが、怠惰を享受しつくしていた者たちが元の生活に戻るのは難しい。
「親父なんかとっくに死んじまったよ――お袋に殺されちまった」
「へっ? いや、待て……」
「慌てなさんな。手を下したってわけじゃねぇ。殺されたようなもんだってことだ」
男が軽く笑った。
「親父はお袋に惚れ切っててね。俺の前で恥ずかしげもなく『愛してるよ』って囁くほどだった」
「それがなんで殺したことになる?」
「うん……」
溜息をついてピエッチェから顔を背けた男が、
「そんな親父をお袋は捨てたんだ。男を作ってセレンヂュゲに逃げた。それを知った親父は首を吊ったよ」
さらりと言った。
「八つだった俺はグリュンパに住んでた親父の妹夫婦に引き取られたんだが、叔母の旦那が俺を虐めてね。なにかってぇと殴りやがる。もちろん読み書きなんか教えちゃくれない。魔物が出る森を知ってるか? 十六で叔母の家を出て、そこを通る連中の用心棒になった。世話してくれる男がいたんだ。こき使われて身体は丈夫、家で殴られる反動で、外では喧嘩ばかり。で、いつの間にか負け知らず、俺に打ってつけの仕事だ」
苦労したんだな、とは言わなかった。きっとこの男はそんな言葉を屈辱と感じるだろう。
「それじゃ、今は一人か? 兄弟は居なかったのか? 女房は?」
ピエッチェの問いに男が苦笑した。男の年齢はピエッチェより少し上に見える。
「どこに居るか判らないお袋が産んでりゃ別だが兄弟は居ない。女房は、居るには居るが今は……」
「今は居ないのか?」
「あいつ、女五人でジェンガテク湖に遊びに行ったんだ。で、森の中にあった穴に他の四人の目の前で落ちた」
「それは……気の毒だな」
「それで死んだとは言ってない。なんとか助けようとしたが穴は深くて、中の様子が判らない。呼んでも返事がない。そうこうするうちに日が暮れたんで翌日、ロープを使って村の男が穴に降りることにした。が、穴が無くなっていた」
「場所が判らなくなったんじゃなく?」
「報せを受けて俺も行って、一緒に探したがどこにもなかった。なのによ、十日後、森にポツンと座っている女房を見つけた。どんなに嬉しかったか」
「不思議な話だが、無事でよかったじゃ……ないか」
そう答えながらピエッチェが口籠る。コイツ、今はなんだと言うつもりでいるんだ?
ピエッチェの疑問に気付いたのだろう。男が鼻で笑う。
「よかった、うん、よかった。何しろ生きてる。でもよ、時どき虚しくなる。女房のヤツ、俺のことが判らねぇ。笑いもしなきゃ喋りもしない。廃人だよ。居ても居ないとおんなじこった。日がな一日ボーっとしてるだけ、飯も自分一人じゃ食えなくて俺が匙で口に入れてやってる。小便も大便も垂れ流しだ。俺は用心棒の仕事を辞めた。収入は激減、だから店を襲う仕事を請けた」
「それでグリュンパからギュリューに? どうせならセレンヂュゲのほうが良かったんじゃないのか? あそこならいい医者がいそうだぞ?」
「グリュンパでは悪い噂が立った。女房がああなったのは男に手籠めにされたショックだろう、とかな。この街は余所者に干渉しない。だからここにした。セレンヂュゲに行くのは、医者に払う金を貯めてからだな」
そしてニヤッと笑い、ピエッチェにすり寄った。
「一緒にいるのはおまえの女房か? いや、どうでもいい。おまえがあの女に惚れてるのは見て判る――でもな、覚悟しろ。愛ってぇのはな、不幸のどん底に自ら落ちてくってことだ。もちろん幸せだっていっぱいだ。でもそれだけじゃない、不幸が訪れることだってある。それを受け入れるのが愛ってもんだ。その覚悟ができてないのなら、愛するなんてやめたほうがいい」
言いたいだけ言うと、押しやるようにピエッチェから離れた。
そんな男をピエッチェがマジマジと見る。
「あんたって、いい男だな」
「なに言いやがる?」
男が少しだけ含羞んで笑った。
「訊きたかったのは剣のことだけだったのに、無駄話が過ぎたな。早くしないと朝が来ちまう――邪魔したな、ネエちゃん。悪く思わんでくれ」
クルテに愛想笑いをして、男は去って行った――
リュネの背中でピエッチェがクルテに訊いた。もうすぐ宿に着く。
「なぁ、なんで警備兵の詰め所に行った?――あ、首謀者の名か?」
「やっぱり馬鹿だな。喧嘩の時、向こうのリーダーが『店を取り戻す』って言った。だから聞くまでもなく、前の持ち主」
なるほど。
「そんな事より、次の目的地が決まったな――ジェンガテク湖だ」
クルテがニヤリと笑った。
「馬車にお乗りになっているのをお見かけしたことがあります。その時は王太子さまと存じ上げず無遠慮に見てしまいました。その事でしょうか?」
これは本心、そうとしか思えない。
「わたしも覚えていますよ。その時、誰だったっけって思ったんです。それって、以前にも会っているってことですよね?」
「王太子さまとお会いしたなら忘れられるはずありません。他人の空似ではないでしょうか?」
「差し支えなければ、名を教えて貰えませんか? ひょっとしたら思い出すかもしれません。マデルが知っているのは通り名か仮名ですよね?」
穏やかな笑み、これだ、この男の怖いところは。答えても良いような気になってしまう……ピエッチェがラクティメシッスを真直ぐに見る。向こうもピエッチェを真直ぐに見ている。
「ダメ、ピエッチェを真の名で呼んでもいいのはわたしだけ」
笑いを含んだクルテの声が、ピエッチェとラクティメシッスの間に割り込んだ。
「たとえ王太子さまでも教えてあげない。マデルにだって教えてないのに、なんで教えて貰えると思ったのかな?」
「つうっ……!?」
一瞬、鋭い目つきでクルテを見たラクティメシッス、それを誤魔化すようにすぐ笑顔に戻り、掌を顔に当てて笑い声をあげた。
「あはは! お嬢さんには勝てそうもありませんね――恋人への無礼、許しくださいな」
謝罪はクルテに向けてだ。ピエッチェを見ようともしない。
「引止めてしまいましたね。気をつけて帰るのですよ。くれぐれもマデリエンテを頼みます」
打ち合わせをしてから宿舎に戻ると言うラクティメシッスを詰め所に残し、クルテと二人で建物を出る。が、すぐにどちらからともなく足を止めた。リュネの近くで佇む人影に気が付いたからだ。
「やぁ……」
男がピエッチェに声を掛けてくる。レストランの前で、ピエッチェを倒そうとして決着が付かなかったあの男だ。まさか続きをしようとでも言うのか?
「そんな顔するなって。もうヘトヘトだ。やる気はねぇよ」
男が先回りして言った。
「ちょっと訊きたいことがあるんで待ってた」
そう言いながら、男は訊くかどうかを迷っているようだ。夜の闇を眺めるような仕草をした。
黙って男を見ているピエッチェの腕にクルテが腕を絡めた。チラリとクルテを見たピエッチェ、
「話があるならさっさとしてくれないか? 早く帰りたい」
視線を動かさず男に言った。
「えっ? あ、あぁ……」
考え事をしていたのか、ハッとした男がピエッチェとクルテの様子に気付き、
「そうだな、うかうかしてたら夜が明けちまう」
と、含みを持たせていった。朝までにしたいことがあるんだろう? 判っているぞ、とでも言いたそうだ。
「いや……うーーん。あんたさ、騎士なのかい? 王太子さまと待ち合わせって本当なのか?」
そこか。でも、それを知ってどうする?
「ちょっと王太子さまに世話になったことがある。で、その礼をしたかったんだが、不要だと笑われた」
世話になったとはギュームの件だ。だからまるきりの嘘とも言い切れない。礼をするなんて発想はなかったが、本来だったらするべきだと思った。でもラクティメシッスが受け取るとも思えないし、今のピエッチェでは礼のしようがあるはずもない。
「王太子さまに礼だなんて不遜だな?」
男が愉快そうに笑う。少しも疑っていないようだ。
「そうか! あんたたちなんだろう? なんとかって親爺を森の聖堂で見つけたってのは? そうか、うん、そうだ。あそこの魔物もあんたたちが退治した。違うとは言わせないぞ」
自分の思い付きに男はますます気を良くしたようだ。嘘をついても仕方がないので、ピエッチェは肯定も否定もせずに流すことにした。
「ふむ……なんとかって親爺、街にとっては迷惑だったらしいな」
「あぁ、面白く思ってないヤツもいるみたいだ。以前から街の景観が悪いって、金持ち連中が文句を言ってた。揉めてたんだけどその親爺が戻ってきたら、街人の中でも金を持ってるヤツらがやっぱり塗り直そうって言い出したもんでね」
なるほど、脱税がバレる前にってことか? 時期の一致が、言い出したのはギュームだと誤解を生んだのかもしれない。
「で、どうなんだ? あんたは騎士なのかい?」
男はどうしてもそのあたりが知りたいようだ。でも、どうして?
「俺はな、ガキの頃、騎士になりたかったんだ」
ピエッチェの返事を待たず男が言った。
「俺はデレドケで生まれ育った。デレドケには伝説の英雄がいる。俺はソイツに憧れた――でもさ、俺、字が読めないんだよ」
「うん? 雷のシャーレジア?」
「そうそう! 知ってるのか? 近所に住んでたんだ。ガキの俺に剣の手ほどきをしてくれたのはあいつさ。休暇で帰って来た時だけだがな――俺が訊きたかったのはシャーレジアのことだ」
男が真面目な顔でピエッチェに向き直った。
「あんたの剣、シャーレジアのだな? 組み合ってた時、目の前でしっかり見た」
男が発する怒りに、ピエッチェがムッとする。
「子どもの頃に見たきりなんじゃないのか? なぜ言い切る?」
「俺の親父は刀鍛冶でな。その剣は親父が鍛えたもの、シャーレジア最後の剣だ。なんでおまえが持っている?」
なるほど、デレドケの刀鍛冶か。
「シャーレジアはデレドケで武具屋をやってる。でさ、剣を買いに行ったらくれたんだ」
「へっ? 買ったのではなく? 盗んだのでもなく?」
「あぁ、金を払うと言ったら拒絶された」
男がキョトンとピエッチェを見る。
「そうか、くれたのか!? そいつはいいや!」
信じたのか、それとも怒りを増幅させたのか、ピエッチェには判らないまま男が爆笑する。腹を抱え、涙を滲ませてさえいる男に、
「いや、疑われてもそれが事実なんだ」
ピエッチェが情けない声で言った。
そんなピエッチェに男がうんうんと頷く。
「あのジイさんらしいと思ってな。あんた、気に入られたんだ。羨ましい……いや、あんたなら当然か」
笑いが納まらない男に、今度はピエッチェが訊いた。
「あんたの父親は、今もデレドケで刀鍛冶を?」
デレドケの状況を思い出していた。センシリケが約束を違えるとは思えないが、怠惰を享受しつくしていた者たちが元の生活に戻るのは難しい。
「親父なんかとっくに死んじまったよ――お袋に殺されちまった」
「へっ? いや、待て……」
「慌てなさんな。手を下したってわけじゃねぇ。殺されたようなもんだってことだ」
男が軽く笑った。
「親父はお袋に惚れ切っててね。俺の前で恥ずかしげもなく『愛してるよ』って囁くほどだった」
「それがなんで殺したことになる?」
「うん……」
溜息をついてピエッチェから顔を背けた男が、
「そんな親父をお袋は捨てたんだ。男を作ってセレンヂュゲに逃げた。それを知った親父は首を吊ったよ」
さらりと言った。
「八つだった俺はグリュンパに住んでた親父の妹夫婦に引き取られたんだが、叔母の旦那が俺を虐めてね。なにかってぇと殴りやがる。もちろん読み書きなんか教えちゃくれない。魔物が出る森を知ってるか? 十六で叔母の家を出て、そこを通る連中の用心棒になった。世話してくれる男がいたんだ。こき使われて身体は丈夫、家で殴られる反動で、外では喧嘩ばかり。で、いつの間にか負け知らず、俺に打ってつけの仕事だ」
苦労したんだな、とは言わなかった。きっとこの男はそんな言葉を屈辱と感じるだろう。
「それじゃ、今は一人か? 兄弟は居なかったのか? 女房は?」
ピエッチェの問いに男が苦笑した。男の年齢はピエッチェより少し上に見える。
「どこに居るか判らないお袋が産んでりゃ別だが兄弟は居ない。女房は、居るには居るが今は……」
「今は居ないのか?」
「あいつ、女五人でジェンガテク湖に遊びに行ったんだ。で、森の中にあった穴に他の四人の目の前で落ちた」
「それは……気の毒だな」
「それで死んだとは言ってない。なんとか助けようとしたが穴は深くて、中の様子が判らない。呼んでも返事がない。そうこうするうちに日が暮れたんで翌日、ロープを使って村の男が穴に降りることにした。が、穴が無くなっていた」
「場所が判らなくなったんじゃなく?」
「報せを受けて俺も行って、一緒に探したがどこにもなかった。なのによ、十日後、森にポツンと座っている女房を見つけた。どんなに嬉しかったか」
「不思議な話だが、無事でよかったじゃ……ないか」
そう答えながらピエッチェが口籠る。コイツ、今はなんだと言うつもりでいるんだ?
ピエッチェの疑問に気付いたのだろう。男が鼻で笑う。
「よかった、うん、よかった。何しろ生きてる。でもよ、時どき虚しくなる。女房のヤツ、俺のことが判らねぇ。笑いもしなきゃ喋りもしない。廃人だよ。居ても居ないとおんなじこった。日がな一日ボーっとしてるだけ、飯も自分一人じゃ食えなくて俺が匙で口に入れてやってる。小便も大便も垂れ流しだ。俺は用心棒の仕事を辞めた。収入は激減、だから店を襲う仕事を請けた」
「それでグリュンパからギュリューに? どうせならセレンヂュゲのほうが良かったんじゃないのか? あそこならいい医者がいそうだぞ?」
「グリュンパでは悪い噂が立った。女房がああなったのは男に手籠めにされたショックだろう、とかな。この街は余所者に干渉しない。だからここにした。セレンヂュゲに行くのは、医者に払う金を貯めてからだな」
そしてニヤッと笑い、ピエッチェにすり寄った。
「一緒にいるのはおまえの女房か? いや、どうでもいい。おまえがあの女に惚れてるのは見て判る――でもな、覚悟しろ。愛ってぇのはな、不幸のどん底に自ら落ちてくってことだ。もちろん幸せだっていっぱいだ。でもそれだけじゃない、不幸が訪れることだってある。それを受け入れるのが愛ってもんだ。その覚悟ができてないのなら、愛するなんてやめたほうがいい」
言いたいだけ言うと、押しやるようにピエッチェから離れた。
そんな男をピエッチェがマジマジと見る。
「あんたって、いい男だな」
「なに言いやがる?」
男が少しだけ含羞んで笑った。
「訊きたかったのは剣のことだけだったのに、無駄話が過ぎたな。早くしないと朝が来ちまう――邪魔したな、ネエちゃん。悪く思わんでくれ」
クルテに愛想笑いをして、男は去って行った――
リュネの背中でピエッチェがクルテに訊いた。もうすぐ宿に着く。
「なぁ、なんで警備兵の詰め所に行った?――あ、首謀者の名か?」
「やっぱり馬鹿だな。喧嘩の時、向こうのリーダーが『店を取り戻す』って言った。だから聞くまでもなく、前の持ち主」
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