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第8章 輝きを放つもの
陽だまりに咲いた花
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仮王妃宮リューデント王の居室――国内視察から帰都した二日後の夕刻、明日の閣議をどうするかリューデントが迷っていた。サシーニャはまだジュラーテンから戻って来ない。
サシーニャの使いの男が将校から借りた馬を返しに来て、帰りはサシーニャの馬に乗って行ったとチュジャンエラから聞いた。それが帰都の翌日、昨日の事だ。
ジェラーテンからフェニカリデは半日の距離、ならば今日にも帰ってくるだろうと待っていた。が、今のところサシーニャは姿を見せない。しかもチュジャンエラの遠隔伝心術も繋がらないままだ。サシーニャに戻ってくる気はないと言うことか? しかし、それはいつまで?
閣議は二日続けて中止にした。明日も中止にするならそれなりの理由を提示しなければならないだろう。休養を取りたいと言ってももう通じない。それに、サシーニャの不在に気付く者がいるかもしれない。サシーニャほどの魔術師を病気療養としたら二・三日ならともかく、それを超えればよほど重篤、仮病は使えない。どう誤魔化したらいいものか?
イライラと落ち着かず、部屋の中を行ったり来たりしては時々立ち止まり、首を振ってはまた動き出す。やるかたもなくそれを眺めているのはチュジャンエラだ。明日の閣議をどうするのか聞きに来て、リューデントの決断を待っている。スイテアが入れてくれた茶はもう三杯目、茶請けに出してくれた栗の糖衣掛けは最後のひとつ、それを口に入れると茶を飲み干した。
スイテアが再び椀を茶で満たし、糖衣掛けの皿を下げた。替わりに出された皿には小茄子の塩漬けが盛られている。ちょっと嬉しそうなチュジャンエラの顔、すぐに塩漬けに手を伸ばした――リューデントはまだまだ決断できそうにない。
バチルデア王宮では自分の居室でララミリュースが泣いていた。ルリシアレヤの所在不明が明らかになって今日で十五日、脱出した日を含めれば十六日だ。
今朝、とうとうエネシクルが決断し、アイケンクス王もそれを承知した。その内容は先ほど王宮内に通知され、国内にも広く触れを出した。もう後戻りはできない。後戻りできないのはルリシアレヤも同じだ。二度とバチルデアの地に足を踏み入れることは叶わない。
泣き濡れる妻にエネシクルが寄り添い、その肩を抱いた。
「これがわたしたちのできる最善だ。判るだろう?」
「えぇ、判っていますとも。でも、あの娘に二度と会えないなんて……」
「おいおい、国外脱出を手助けした時に、それは覚悟していたんじゃないのかい?」
「でもあなた、また会える時が来るかもしれないって少しは期待してたのよ。だけどこれじゃあ、二度と会えない。希望が持てない」
「そうかな?」
エネシクルが妻に微笑む。
「退位した今、わたしは王ではなくなり、おまえも王妃ではなくなった。国外旅行が今までより気軽にできると言うことだ」
「えっ?」
「落ち着いたらエリザに会いに行こう。最初は二人きりで。様子を見て、次にはエリザの両親も誘って。孫の顔を見たがっているに違いない――きっと楽しい旅になる。待ち遠しくなってきただろう?」
「あなた……」
自分にしがみ付いて泣く妻の、涙の種類が変わった……旅行に連れていく約束を果たさないわけにはいかなくなったと、内心苦笑するエネシクルだった。
魔術師の塔ではジャルスジャズナがバーストラテの相談に乗っていた。
「すると何かい、サシーニャとルリシアレヤの仲違いの原因を作った自分が幸せになんかなれないって言うのかい?」
「だって、サシーニャさままでどこに居るか判らなくなってしまって……申し訳なさすぎます」
「それ、サシーニャが聞いたら悲しむよ? サシーニャはあんたに幸せになって欲しいと思ってる。これは間違いない。だからあんたを直接指導の対象にして、今まで見守ってきたんだ」
「でも……」
バーストラテがジャルスジャズナを見て涙を浮かべる。その様子にジャルスジャズナが思う。
(サシーニャでさえ、あんたに相手の顔を見させることができなかったんだ。それをたった少しの時間でさせた男を、あんたは放しちゃいけないんだよ)
お茶の接待をするだけだったはずなのに、付き合って欲しいといきなり言われ、思わずハルヒムンドを見たバーストラテだ。正面から、しかもこんな近さで誰かの顔を見たのは初めてだと思った。
ハルヒムンドは少し含羞んだ笑みを見せ、穏やかな眼差しを向けてくる……怖くない、そう感じた。この人は明るい性格の人だとも感じた。
『そんなに驚かないでよ』
『だって、だって……なんで?』
『なんでって?』
『なんでわたし?』
『えっ、それは……』
ハルヒムンドが恥ずかしそうに頬を染める。
『キミのことを花のようだと思ったから……かな?』
『花? わたしが?』
『うん。バラみたいな華やかさはないけれど、誰にも知られずひっそり咲いている道端の花。そんなキミが隣にいて笑ってくれたら、きっと毎日が楽しくなるって思ったんだ』
『笑う? わたしが?』
『キミの笑顔は陽だまりみたいなんじゃないかって想像した。あ、でも、無理に笑わせようとは思ってないよ。心から笑ってる、そんなキミが見たいんだ……俺じゃダメかな?』
『どうしてダメ?』
『だって俺、仕事どころか住む所も決まってない――うん、その二つが決まったら付き合うってのはどう?』
『あ、でも、付き合うってよく判りません』
『一緒に食事に行ったり、街を散策したり……俺も誰かと付き合った事ってないからよく判んないけど、親交を深めるって感じかな? でさ、お互い気に入ったらその時は……』
『その時は?』
『その時は……その時言うよ――ね、まずは一度、二人で食事に行かないか?』
『二人でですか?』
『ワダがさ、給金をくれたんだ。給仕係で使って貰って、要らないって言ったんだけど……ね、キミ、酒は飲む?』
『まぁ、嗜む程度には』
『安くて酒も料理も巧い店をワダに教わった。一緒に行ってくれないか?』
『お供するのがわたしなどでいいのでしょうか?』
『キミと一緒に行きたいんだよ』
『なんでわたしと?』
『また〝なんで〟って聞くんだね。判らないかなぁ? キミが好きなんだよ』
『へっ?』
『あっ?』
『……』
『えっと……訂正。キミのことを好きになる予感がするんだ。って言うか、すでに好きになりかけてる。迷惑?』
『……いいえ』
『そうだよね? だって、俺の事、真っ直ぐ見てくれてるもん』
『あ……』
ハルヒムンドの指摘にバーストラテがぽかんとする。
『そう言われると、そうですね』
『なんだ、自分じゃ気付いてなかったんだ?』
明るく笑うハルヒムンド、
『はい、さっきから驚いてばかりです』
頬がキュッと上がるのを感じながらバーストラテが、やっぱりハルヒムンドを見続ける。
『あぁ、やっぱりキミの笑顔は優しいね。うん、陽だまりみたいだ』
『笑顔? わたしが笑っている? 優しく?』
『そうだよ……キミは素敵だ、バーストラテ』
それからワダが迎えに来るまで、ハルヒムンドはしゃべり続け、冗談を言ったりバーストラテを褒めたりし続けた。バーストラテはそんなハルヒムンドの顔を見っ放しで、冗談には笑えなかったけれど、笑顔には無意識に顔を綻ばせた。
ずっと心臓がドキドキしてたとバーストラテが気付いたのは、ハルヒムンドがワダと一緒に去ってからだ。頼まれたからお茶の相手をしただけの、なんの意味もない時間。なのになぜだろう、心が躍っている……こんなことは初めてだった。
その夜は言われた事をいろいろ考えて眠れなかった。わけの判らない事ばかりだった。それなのにとても重要なことに思えて、なぜ重要なのだろうと考えていた。
翌日もハルヒムンドの事ばかり思い出した。思い出すだけで何かを考えると言うわけでもない。不思議だけれど、それが心地よかった。
どうかしたかと問われてジャルスジャズナの顔を見た。なんでもないと答えるとジャルスジャズナが微笑んだ。なるほど、笑顔は相手を安心させるんだと気が付いた。
見渡せば、あちらこちらで誰かしらいつも笑んでいる。大声で笑う人、ひっそりと微笑むだけの人、笑いあっている人と人――そうかと思えば向こうでは言い争っている人も、何かを嘆いている人もいる。世の中はいろんな顔をした人で出来ている……
見習いの時、指導係が『とにかく笑え』と言った意味が判った気がした。サシーニャが無理に笑うことはないと言った意味も、相手の顔を見られないならまずは口元を見てごらんと言った意味も判った気がした。口元を見れば言っていることが聞いているだけより良く判ったが、それは顔の一部を見ているからだ。言葉以上のものがそこに表れていたからだ。
顔はその人の感情を端的に表していると感じた。そして笑顔は敵意がない合図、だから大切なんだ。
すれ違う魔術師たちが挨拶を送って寄越す。顔を見れば敵意がないことが判る。笑顔とまでは行かないけれど、怒りの色は見えない。不思議そうな顔をする人がいるのは謎だけど、きっと大したことじゃない。
ハルヒムンドに連れられて行ったのは庶民が集まる店だった。高級な店でなくてごめんと言われたけれど、なぜ謝られたのかが判らなかった。不満なんかあるはずもない。充分ですと答えたら、ハルヒムンドが笑顔になった。ハルヒムンドの笑顔はなんで眩しいんだろう?
店は満席で賑やかだった。声高な話声、あちこちで笑っている。注文を取りに来た店員は疲れた顔で怒ったような口調、忙しさに嫌気がさしているんだろうか? だけど料理名を告げると笑顔になった。
店員がいなくなってから、『あの店員、バーストラテがあんまり綺麗だから照れてたね』とハルヒムンドが言った。綺麗? わたしが? ハルヒムンドはわたしを驚かせてばかりだ。一番驚いたのは世界が急に広がって色づいたこと――
次はいつハルヒムンドに会えるだろう? 彼の事を考えていると胸が熱くなる。それが楽しい……そんな自分に気が付いて愕然とした。楽しい? それって幸せだってこと? サシーニャさまとルリシアレヤさまを苦しめたわたしが幸せになっていいはずがない。
何かあったのかい? ジャルスジャズナが尋ねてきた。穏やかで柔らかな顔……何か悩み事でもあるのかい? わたしでいいなら話してごらん。
迷惑をかけるわけには行かないと言ったら、迷惑なんかじゃないと笑った。
『わたしはね、あんたの力になりたいって思ってるんだ。あんたはわたしなんかが味方じゃ、迷惑かい?』
わたしに味方がいる……たくさんの味方がいるんだ。その事実に気が付いたのが嬉しくて、そして打ち明けてもいいんだという安心感に、気が付くと泣いていた――
サシーニャの使いの男が将校から借りた馬を返しに来て、帰りはサシーニャの馬に乗って行ったとチュジャンエラから聞いた。それが帰都の翌日、昨日の事だ。
ジェラーテンからフェニカリデは半日の距離、ならば今日にも帰ってくるだろうと待っていた。が、今のところサシーニャは姿を見せない。しかもチュジャンエラの遠隔伝心術も繋がらないままだ。サシーニャに戻ってくる気はないと言うことか? しかし、それはいつまで?
閣議は二日続けて中止にした。明日も中止にするならそれなりの理由を提示しなければならないだろう。休養を取りたいと言ってももう通じない。それに、サシーニャの不在に気付く者がいるかもしれない。サシーニャほどの魔術師を病気療養としたら二・三日ならともかく、それを超えればよほど重篤、仮病は使えない。どう誤魔化したらいいものか?
イライラと落ち着かず、部屋の中を行ったり来たりしては時々立ち止まり、首を振ってはまた動き出す。やるかたもなくそれを眺めているのはチュジャンエラだ。明日の閣議をどうするのか聞きに来て、リューデントの決断を待っている。スイテアが入れてくれた茶はもう三杯目、茶請けに出してくれた栗の糖衣掛けは最後のひとつ、それを口に入れると茶を飲み干した。
スイテアが再び椀を茶で満たし、糖衣掛けの皿を下げた。替わりに出された皿には小茄子の塩漬けが盛られている。ちょっと嬉しそうなチュジャンエラの顔、すぐに塩漬けに手を伸ばした――リューデントはまだまだ決断できそうにない。
バチルデア王宮では自分の居室でララミリュースが泣いていた。ルリシアレヤの所在不明が明らかになって今日で十五日、脱出した日を含めれば十六日だ。
今朝、とうとうエネシクルが決断し、アイケンクス王もそれを承知した。その内容は先ほど王宮内に通知され、国内にも広く触れを出した。もう後戻りはできない。後戻りできないのはルリシアレヤも同じだ。二度とバチルデアの地に足を踏み入れることは叶わない。
泣き濡れる妻にエネシクルが寄り添い、その肩を抱いた。
「これがわたしたちのできる最善だ。判るだろう?」
「えぇ、判っていますとも。でも、あの娘に二度と会えないなんて……」
「おいおい、国外脱出を手助けした時に、それは覚悟していたんじゃないのかい?」
「でもあなた、また会える時が来るかもしれないって少しは期待してたのよ。だけどこれじゃあ、二度と会えない。希望が持てない」
「そうかな?」
エネシクルが妻に微笑む。
「退位した今、わたしは王ではなくなり、おまえも王妃ではなくなった。国外旅行が今までより気軽にできると言うことだ」
「えっ?」
「落ち着いたらエリザに会いに行こう。最初は二人きりで。様子を見て、次にはエリザの両親も誘って。孫の顔を見たがっているに違いない――きっと楽しい旅になる。待ち遠しくなってきただろう?」
「あなた……」
自分にしがみ付いて泣く妻の、涙の種類が変わった……旅行に連れていく約束を果たさないわけにはいかなくなったと、内心苦笑するエネシクルだった。
魔術師の塔ではジャルスジャズナがバーストラテの相談に乗っていた。
「すると何かい、サシーニャとルリシアレヤの仲違いの原因を作った自分が幸せになんかなれないって言うのかい?」
「だって、サシーニャさままでどこに居るか判らなくなってしまって……申し訳なさすぎます」
「それ、サシーニャが聞いたら悲しむよ? サシーニャはあんたに幸せになって欲しいと思ってる。これは間違いない。だからあんたを直接指導の対象にして、今まで見守ってきたんだ」
「でも……」
バーストラテがジャルスジャズナを見て涙を浮かべる。その様子にジャルスジャズナが思う。
(サシーニャでさえ、あんたに相手の顔を見させることができなかったんだ。それをたった少しの時間でさせた男を、あんたは放しちゃいけないんだよ)
お茶の接待をするだけだったはずなのに、付き合って欲しいといきなり言われ、思わずハルヒムンドを見たバーストラテだ。正面から、しかもこんな近さで誰かの顔を見たのは初めてだと思った。
ハルヒムンドは少し含羞んだ笑みを見せ、穏やかな眼差しを向けてくる……怖くない、そう感じた。この人は明るい性格の人だとも感じた。
『そんなに驚かないでよ』
『だって、だって……なんで?』
『なんでって?』
『なんでわたし?』
『えっ、それは……』
ハルヒムンドが恥ずかしそうに頬を染める。
『キミのことを花のようだと思ったから……かな?』
『花? わたしが?』
『うん。バラみたいな華やかさはないけれど、誰にも知られずひっそり咲いている道端の花。そんなキミが隣にいて笑ってくれたら、きっと毎日が楽しくなるって思ったんだ』
『笑う? わたしが?』
『キミの笑顔は陽だまりみたいなんじゃないかって想像した。あ、でも、無理に笑わせようとは思ってないよ。心から笑ってる、そんなキミが見たいんだ……俺じゃダメかな?』
『どうしてダメ?』
『だって俺、仕事どころか住む所も決まってない――うん、その二つが決まったら付き合うってのはどう?』
『あ、でも、付き合うってよく判りません』
『一緒に食事に行ったり、街を散策したり……俺も誰かと付き合った事ってないからよく判んないけど、親交を深めるって感じかな? でさ、お互い気に入ったらその時は……』
『その時は?』
『その時は……その時言うよ――ね、まずは一度、二人で食事に行かないか?』
『二人でですか?』
『ワダがさ、給金をくれたんだ。給仕係で使って貰って、要らないって言ったんだけど……ね、キミ、酒は飲む?』
『まぁ、嗜む程度には』
『安くて酒も料理も巧い店をワダに教わった。一緒に行ってくれないか?』
『お供するのがわたしなどでいいのでしょうか?』
『キミと一緒に行きたいんだよ』
『なんでわたしと?』
『また〝なんで〟って聞くんだね。判らないかなぁ? キミが好きなんだよ』
『へっ?』
『あっ?』
『……』
『えっと……訂正。キミのことを好きになる予感がするんだ。って言うか、すでに好きになりかけてる。迷惑?』
『……いいえ』
『そうだよね? だって、俺の事、真っ直ぐ見てくれてるもん』
『あ……』
ハルヒムンドの指摘にバーストラテがぽかんとする。
『そう言われると、そうですね』
『なんだ、自分じゃ気付いてなかったんだ?』
明るく笑うハルヒムンド、
『はい、さっきから驚いてばかりです』
頬がキュッと上がるのを感じながらバーストラテが、やっぱりハルヒムンドを見続ける。
『あぁ、やっぱりキミの笑顔は優しいね。うん、陽だまりみたいだ』
『笑顔? わたしが笑っている? 優しく?』
『そうだよ……キミは素敵だ、バーストラテ』
それからワダが迎えに来るまで、ハルヒムンドはしゃべり続け、冗談を言ったりバーストラテを褒めたりし続けた。バーストラテはそんなハルヒムンドの顔を見っ放しで、冗談には笑えなかったけれど、笑顔には無意識に顔を綻ばせた。
ずっと心臓がドキドキしてたとバーストラテが気付いたのは、ハルヒムンドがワダと一緒に去ってからだ。頼まれたからお茶の相手をしただけの、なんの意味もない時間。なのになぜだろう、心が躍っている……こんなことは初めてだった。
その夜は言われた事をいろいろ考えて眠れなかった。わけの判らない事ばかりだった。それなのにとても重要なことに思えて、なぜ重要なのだろうと考えていた。
翌日もハルヒムンドの事ばかり思い出した。思い出すだけで何かを考えると言うわけでもない。不思議だけれど、それが心地よかった。
どうかしたかと問われてジャルスジャズナの顔を見た。なんでもないと答えるとジャルスジャズナが微笑んだ。なるほど、笑顔は相手を安心させるんだと気が付いた。
見渡せば、あちらこちらで誰かしらいつも笑んでいる。大声で笑う人、ひっそりと微笑むだけの人、笑いあっている人と人――そうかと思えば向こうでは言い争っている人も、何かを嘆いている人もいる。世の中はいろんな顔をした人で出来ている……
見習いの時、指導係が『とにかく笑え』と言った意味が判った気がした。サシーニャが無理に笑うことはないと言った意味も、相手の顔を見られないならまずは口元を見てごらんと言った意味も判った気がした。口元を見れば言っていることが聞いているだけより良く判ったが、それは顔の一部を見ているからだ。言葉以上のものがそこに表れていたからだ。
顔はその人の感情を端的に表していると感じた。そして笑顔は敵意がない合図、だから大切なんだ。
すれ違う魔術師たちが挨拶を送って寄越す。顔を見れば敵意がないことが判る。笑顔とまでは行かないけれど、怒りの色は見えない。不思議そうな顔をする人がいるのは謎だけど、きっと大したことじゃない。
ハルヒムンドに連れられて行ったのは庶民が集まる店だった。高級な店でなくてごめんと言われたけれど、なぜ謝られたのかが判らなかった。不満なんかあるはずもない。充分ですと答えたら、ハルヒムンドが笑顔になった。ハルヒムンドの笑顔はなんで眩しいんだろう?
店は満席で賑やかだった。声高な話声、あちこちで笑っている。注文を取りに来た店員は疲れた顔で怒ったような口調、忙しさに嫌気がさしているんだろうか? だけど料理名を告げると笑顔になった。
店員がいなくなってから、『あの店員、バーストラテがあんまり綺麗だから照れてたね』とハルヒムンドが言った。綺麗? わたしが? ハルヒムンドはわたしを驚かせてばかりだ。一番驚いたのは世界が急に広がって色づいたこと――
次はいつハルヒムンドに会えるだろう? 彼の事を考えていると胸が熱くなる。それが楽しい……そんな自分に気が付いて愕然とした。楽しい? それって幸せだってこと? サシーニャさまとルリシアレヤさまを苦しめたわたしが幸せになっていいはずがない。
何かあったのかい? ジャルスジャズナが尋ねてきた。穏やかで柔らかな顔……何か悩み事でもあるのかい? わたしでいいなら話してごらん。
迷惑をかけるわけには行かないと言ったら、迷惑なんかじゃないと笑った。
『わたしはね、あんたの力になりたいって思ってるんだ。あんたはわたしなんかが味方じゃ、迷惑かい?』
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