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Chapter 2 『探偵物語』

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 今野陽介と高橋潤が殺され、ちょうど一週間が経った、三月二十五日の金曜日。

 第一発見者は新宿公園のトイレに用を足しに来た、神田晴樹かんだはるき、五十二歳だった。

 飲んでいた店で用を足すのを忘れ、タクシーに乗る前に寄った新宿公園。そこでトイレに駆け込もうとした神田は、公衆トイレの入口から頭と腕を出しうつぶせに倒れた河野太一の肩に、足を引っ掛けた。

 その拍子に転倒し尻もちをついた視界に入って来たのが、河野の死体だった。

 最初は先客の酔っぱらいかと、その肩を揺すろうとしたが、倒れた河野の回りが真っ赤だったため、地面に尻を付けたまま後退あとずさりをした。

 一目散に逃げ出した神田は用も足せずに、五分前まで飲んでいた店に駆け込んだ。すっかり酔いを覚ましてしまっていたが、店の従業員と他の客を引き連れ、新宿公園へと戻った。通報は一緒に駆け付けた客の一人、小林の携帯電話からであった。

 この河野の首にも、今野、高橋同様に絞められた痕跡があり、また二人と同じように左胸を一刺しされていた。同一の手口。そして十七年前の事件の関係者が一線上に並んだ事もあり、警視庁は連続殺人として、新宿東署に捜査本部を立ち上げた。

「ねえ、一つ気になるんだけど、人って何分位で殺せるの?」

 突然の疑問に首をかしげる。

 人を殺した事なんてないのに、殺人にどれ位時間が掛かるかなんて分かるはずがない。それは君生にとっても理解し難い問いだったようで、直樹には合わせまいと何も言わずただ宙に目を泳がせている。

「何分で人を殺せるか? そんなのその手口によってばらばらだろ? 銃で狙いを定めて命中させりゃ、一分も掛からないだろうし」

「そうじゃなくて。この殺された今野や高橋、それに河野の場合よ。まずは首を絞めているんでしょ? 気を失うまで、もしくは息絶えるまで首を絞めて、それからナイフかなんかの刃物出して、狙いを定めて心臓をグサッと。それって一分じゃ無理でしょ?」

「まあ、そうだな。そんな簡単にはいかないな」

「でしょ? 一人ならともかく、二人なら尚更でしょ?」

「それが、どうしたんだよ」

「だって夜間は鍵が閉められて入れないようになっているわよね? あたしも何度かトイレ借りようと夜に行ったら閉まっていて」

「そうですよ。感染症対策の一環です。区の管理ですからね。夜の九時から朝の六時までは鍵が閉められています。だから今野と高橋の発見も、鍵を開けに来た区の管理人が公園を訪れた六時になってからだったんです」

 消化しきれず疑問を口にした直樹の意図は理解できなかった。ただ自分で口にしておきながら、本人もまだ消化できていないようで、その表情を歪めている。だが直樹が痞えさせているものを取り除く事で、何かが見えてくるかもしれない。

「君生、通報があったのは、夜の何時だ?」

「通報が入ったのは、夜の十時三十分頃です」

 今どきの奴はスマホにメモを取るようで、画面をタップし、君生がその時刻を告げる。

「死亡推定時刻はまだ分からないんだよな?」

「そうですね。ただ鑑識の話では死後間もないと」

「だろうな。公園の入口は九時にはいったん閉められているんだから。区の管理人が鍵を閉めたって言うなら、公園の中に誰もいないか確認してから閉めただろう」

 直樹の痞えを少しずつ形に出来そうな気がしてくる。

「通報が十時三十分頃って事は、神田が用を足しに公園を訪れたのは十時十五分前後って事だろう。鍵が閉められたのが九時。と言う事は一時間十五分だ」

「それがどうかしたんですか? 一時間十五分もあれば充分殺す事は可能ですよね?」

「まあな。だが例え南京錠とは言え、鍵を壊す時間も必要だろう」

「ああ、だからあたし何分で殺せるかとか気になったんだ」

 直樹が自身の痞えをあっさりと消化する。

「そうだ、君生。下足痕げそくこんは?」

「下足痕? 河野の下足痕はありましたよ。ただ他は数が多すぎて」

「河野の下足痕があったんだな?」

「はい」君生が言い切る。

「河野自ら新宿公園を訪れたのは間違いないだろう。引き摺られた痕なんてものは残っていなかったんだしな」

「ねえ、そんなに上手くいくかしら?」

 直樹がまた何かを消化しきれず顔を歪める。

「だって。プロじゃない限り、そんな簡単に南京錠を壊せないんじゃない? 九時までは間違いなく鍵は閉まっていたんだし。五分で開けられるか、十分掛かるか、二十分掛かるか分からないのに、都合よく河野を呼び出せるのかなって」

 直樹の疑問は尤もだった。鍵を開けたところで河野を待っていたら、神田のように用を足しに訪れる奴が現れるかもしれない。先週の局地的な豪雨で人出が少なかった週とは訳が違う。それはあの野次馬の数を思い出せば分かる事だ。

「そうだな。天気も良かったから、それなりに人の出はあった。だとしたら考えられる事は一つ。犯人が鍵を開ける間、河野は一緒にいたって事だ」

「そんな事ってありますか?」

 まだ全てを腑に落としていない君生の口から漏れるのは否定だけだ。

「それじゃあ、何て説明するんだ? 一時間十五分だぞ。公園の南京錠を開け、河野を呼び出し殺害。誰にも見つからずにだぞ」

「そうよね。秀三の言う通りだと思う」

 君生より先に直樹が咀嚼そしゃくする。だがそんな直樹の顔が三度みたび歪む。

「ねえ、それじゃあ今野と高橋は? 二人も待っていたの?」

「直樹さん、どう言う意味ですか?」

「だって。時間的に考えても河野は犯人と一緒に公園を訪れ、鍵が開いたところでトイレへ向かい、そこで首を絞められ、刺し殺されたって、納得がいくじゃない? でも今野と高橋は同時に殺されたのよ。一緒に待っていたって事なの? 一緒に鍵が開くのを待って、もし今野が先に殺されたとして、高橋は今野が殺される間も待っていたって言うの?」

「そうだな。そんな可笑おかしな話はないな。今野と高橋から薬物の反応はなかったんだよな? それに抵抗した跡はなかったって」

「薬物ですか? そんな跡はなかったです」

「そうだろ? 今野と高橋も眠らされてから新宿公園を訪れた訳ではない。それに抵抗した跡もない。直樹が言った通り、今野が先に殺されたとして、高橋が待っていたなんて考えられるか? もしも君生、お前が高橋なら今野が殺される間、大人しく待てるのか?」

「えっ? そんなの無理ですよ。逃げるか抵抗するかします」

「そうだろ。だが抵抗した跡もなかった」

「秀三さん。何が言いたいんですか?」

「そうよね。もし君ちゃんが公園に呼び出された時、先に誰かの死体があったら?」

「もちろん急いで逃げ出しますよ」

「そうだろ? そう言う事だ。もし仮に今野が先に殺されたとして、その後、高橋が公園に呼び出されたのだとしたら。確かに局地的な豪雨の日で人通りは少なかったかもしれないが、死体を見つけた高橋は抵抗するか、すぐにでも逃げ出していただろう」

「そうですよ。だから?」

「まだ分からないのか? 今野と高橋は同時に殺されたんだ」

 自分で口にしておきながら、厄介事を増やしてしまった事に肩を落とす。

「でも二人を同時に殺すのなんて無理ですよね。二人同時に首を絞めて、二人同時に刺し殺すなんて」

「いや、簡単な事だ」

 君生に刑事の勘を求めるのはまだ早いらしい。それなのに刑事でも探偵でもない直樹は何かを閃いたようで、その考えに口を塞いでいる。突拍子もない事を思いついたんだろうが、その突拍子もない考えが一番簡単な方法だ。

「おい、君生。直樹はもう気付いたみたいだぞ。それなのにお前は。仮にも刑事だろ!」

 すぐに答えを教えても良かったが後学のためだ。少し冷やかした口調を投げ、直樹が手にするグラスを奪う。

「あ、秀三! それ、あたしの緑茶割り」

「君生、答えが知りたかったら、直樹に新しい緑茶割り作ってやれ。そうすれば直樹が教えてくれるさ。それにお前は直樹のお手伝いさんらしいからな」

「お手伝いさんじゃないですよ!」

 渋々ながら焼酎のボトルを手にする君生はいつものように口を尖らせている。四十近い直樹ほどではないが、二十代でも後半のそんな姿を可愛いとはやはり思えない。

「あっ、君ちゃん、ありがとう。本当、秀三って人使いが荒いわね」

「秀三さんの人使いの荒さは今に始まった事じゃないんで、それよりさっきの話」

 軽くディスられてはいたが、気にも留めず直樹から奪った緑茶割りを口にする。これから直樹が話す事が今野と高橋、二人を同時に殺す一番簡単な方法だ。それ以外の方法があるのならよほど利口な犯人だとめてやる。

「秀三が言ったように高橋を殺してから今野、その逆の今野を殺してから高橋。どちらにしてもそれは無理よ。どちらかを殺した時点で残りの一人に抵抗されてしまうわ。どちらかを殺した後、もう一人を公園に連れて来たとも考えられるけど、そんな時間を掛けている間に誰かに見つかってしまう可能性もあるし、君ちゃんがさっき言ったように誰かの死体を見つけたなら、すぐに逃げ出すか、抵抗するでしょ? だからやっぱり二人を同時に殺すしかないの。薬で眠らされた痕跡とかもなかったんでしょ?」

「ええ、そんな痕跡はなかったです」

「そうよね。だから二人を眠らせて公園に運んだって言うのも無理な話よ。眠った男を二人同時になんて尚更。順番に運んだかもだけど、それこそ運んでいる間に誰かに見つかるかもしれない。そもそも薬で眠らされた痕跡はなかったんだもの」

「だったらどうやって二人は同時に殺されたんですか?」

「もうやだ、君ちゃん。簡単な話じゃないの」

「だから一人で同時に殺すなんて無理な話じゃないですか」

「そうだろ? 簡単な話さ。犯人は二人、ないしは二人以上いた。それだけの話さ」

「二人!」

「もう美味しい所だけ、秀三が持っていっちゃうんだから」

 驚いた君生の声に直樹が被せる。悔しがるほどの事ではない。君生の後学のために勿体ぶりはしたが、勿体ぶる程の話でもなく、単純明瞭な話だ。状況を考えれば、それ以外の真相などない。
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