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Chapter 3 『猫が行方不明』

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 四日前の朝、突然姿を消した黒猫のグリ。

 飼い主はドアもベランダも窓も全ての鍵を閉めていた。姿を消したグリの兄弟がグラ。飼い主に叱られても冷蔵庫から下りて来ないグラ。そんなグラは最近食欲旺盛だと言う。だが人前では決して餌を食べようとしない。冷蔵庫の上で大きく口を開けていたグラ。映画『猫が行方不明』の結末では黒猫はオーブンレンジの裏に隠れていた。

——オーブンレンジ? そう言う事か。

 映画の結末に当てはめグリは冷蔵庫の裏にいると直樹は踏んでいるんだ。急に食欲旺盛になったグラ。冷蔵庫の上で大きく口を開けていたグラ。グラが冷蔵庫の上から餌を落としていた?

「もうグラが餌を食べ終わっているか確かめましょう」

 手柄を取られる前に先に冷蔵庫の裏を確かめないと。リビングへと続くドアを開ける。

「グラ!」

 飼い主でもないのにグラの名前を呼ぶ直樹を気に掛ける事はせず、リビングの隅に置かれたブルーの皿に目を落とす。もうそこにグラの姿はなく、皿に盛られたカリカリもきれいに平らげられていた。

「あっ、やっぱり」

 直樹の声に振り返ると、冷蔵庫の上に戻ったグラの姿があった。

「鳴子さん。冷蔵庫を動かします。その間、グラを見ていて下さい」

 鳴子が冷蔵庫の上に手を伸ばし、グラを抱きかかえる。ミャーと一回鳴きはしたが、大人しく鳴子の腕にグラは収まった。

「直樹、反対側持って」

「はーい」

 間延びしたその返事は手柄を横取りされた事への当てつけだろうか。だがそんな事を気にしている場合ではない。この部屋の中で隠れられそうな場所。唯一残されているのは冷蔵庫の裏くらいだ。もしそこにグリを見つける事が出来なければ、本当にタワーマンションの周辺を探す羽目はめになるだろう。

 冷蔵庫の角に置いた手に力を入れ、三十センチほど冷蔵庫を前にずらした時、ミャーと言う小さな鳴き声が聞こえた。だがその声は鳴子の腕の中から聞こえたものではなかった。

「やっぱりな。一気に前にずらすぞ」

 しっかりとサイズを計って買ったのだろう。冷蔵庫の左右の隙間は三センチもない。そんな隙間に腕が入る訳もなく、滑らせた掌をぴたりと冷蔵庫の側面に付け、言葉の通り一気に前にずらす。その時だ。ミャーと言う鳴き声と共に、グレーの何かが飛び出してきた。いや、何かだと判断したと同時、それが埃にまみれた黒猫だとすぐに分かった。

「ああ、グリ」

 埃にまみれたグリが飼い主の腕めがけて大きくジャンプする。そんなグリの姿に直樹が皮肉混じりの独り言を吐く。

「今なら埃まみれでグレーだから、グリって名前も納得だわ」

 依頼を受け一時間も経たずに解決に至ったのだ。面倒にならずによかったと安心はさせられるが、何より直樹より先に『冷蔵庫』と、口に出来た事に胸を撫で下ろす。

 直樹の推察がなければ何一つ思い浮かべられるものなどなかっただろう。もし直樹が先に冷蔵庫の裏からグリを救い出していたら。考えただけでもゾッとする。ただ冷蔵庫の上から離れないグラを見ても、考えも寄らなかった事。やはり直樹の手柄ではあるが、あえて口にする必要はない。

 普段から高い所が好きなグリは飼い主の目を盗んで冷蔵庫の上に飛び乗った。その日は寝室から閉め出され、飼い主は事の最中。グリにしてみれば叱られる事もなく、好きなだけ冷蔵庫の上に居る事が出来ただろう。だが何かの拍子でグリは冷蔵庫の裏に落ちてしまった。もしかしたら自らジャンプしたのかもしれないが、どちらにしてもグリは冷蔵庫の裏から出られなくなってしまった。冷蔵庫の横には三センチの隙間もない。いくらしなやかな体を持っていても、頭と体をすり抜けさせるには狭すぎる隙間だった。

 そんな冷蔵庫の裏で四日も過ごす事になったグリだが、腹を空かせる心配はなかった。それは兄弟であるグラが冷蔵庫の上からカリカリを落としてくれていたからだ。

——何と美しい兄弟愛!

 そう言いたいが、どうしてグラはグリの行方を飼い主に教えなかったのだろう? 冷蔵庫の上でひたすら泣き続けるなり、飼い主の前で冷蔵庫の裏に自ら飛び込むなりすれば、飼い主にグリの居所を伝え、もっと早く救出できたのではないだろうか。

「……もしかしてグラはグリにいじめられたりしていたんじゃ?」

「えっ? いじめ? 確かにグラは大人しくて、グリはやんちゃな子だけど。生まれた時からずっと一緒なんだし、じゃれ合ってはいるけどいじめではないわ」

 いつの間に腕から下ろされたのかブルーの首輪の黒猫は、ブルーのレースの飾りのあるカゴに収まっていた。そんなグラに代わって鳴子の腕の中にしっかりと収まったグリ。カゴの中のグラの黄色の大きな目が鳴子の腕の中のグリ一点へと向いている。

 猫に嫉妬心があるなんて話聞いた事はないが、グリに嫉妬していたグラはあえてグリの居所を飼い主に教えなかったのかもしれない。

「辻山さん、新井さん。本当に有難うございました。今、持ち合わせがないものですから、後でお店に伺わせて頂きます」

「いいえ、それはいつでも大丈夫です」

「あたしもこの後、店に顔を出さないといけないんで、ついでですから。黒川さんの、黒川第一ビルですよね?」

「ええ、そうです。三階になります」

 鳴子のタワーマンションを後にし、これから店に戻ったとしてもまだ十九時半だ。たかだか一時間で片付いた案件ではあるが、清々しい気分になれた事には変わりない。さっさと店に戻って祝杯をあげ、君生と直樹を手短に追い出し、鳴子の店の可愛い男の子と——。そんな画が浮かびもしたが、そんな体のいい話はどこにも落ちていないようだ。


 スーパーの駐輪場から自転車を出し、「先に行っているわね」と一言。直樹が颯爽と消えていく。

 何が先に行っているだ。確かに店の鍵は開けっ放しだが誰の店だと思っているんだ。そんな台詞をぶつけたかったが、本人が消えてしまった今、心の声を口にしてしまえば、それはただの不審者にすぎない。くそっ。声にしない罵声ばせいを漏らし、とぼとぼと歩き出す。慌てて直樹を追い掛けなくても、六、七分あれば店に戻れるだろう。

 直樹に代わってふと黒川オーナーの顔が浮かんだが、これからわざわざ報告に行かなくても、明日の朝にでも向こうから勝手に押し掛けてくるだろう。そうなれば真直ぐ店に戻るだけだ。他に寄る所もない。

 文化センター通りから、医科大通り、靖国通りと路地を縫って行く。十九時半なら既に君生が来ていてもおかしくない時間だ。先に行くと言った直樹と既に騒ぎ始めているかもしれない。

 そんな予想は外れる事はなく、黒川第一ビル。階段を三階まで昇り、踊り場で店のドアに手を掛けた途端。

「……でね、名前がグリとグラなの。野ネズミじゃなく黒猫なのに」

 良く通る大きな声が響いていた。

「おい、直樹。守秘義務だ。依頼主の情報をべらべら喋るな」

「あ、秀三さん。もう酷いですよ。俺もチームなんだから情報共有して下さいよ」

「何がだ? 今野や高橋、河野の事なら情報も共有するさ。でも今日の案件は全く関係のない猫探しだったんだよ」

「そうそう、リアルで『猫が行方不明』だったわ」

 手にした青いマジックで[猫が行方不明]と直樹が書き殴る。既にホワイトボードには[グリ]と[グラ]の文字もある。入ったばかりのカラオケと言い、すぐに新しい玩具を見つける直樹には何を言っても無駄なんだろう。

「直樹。もう終わった案件だ。グリとグラも、今書いた猫が行方不明も消しておけ」

「ああ、そう言う事ね。ここには調査中の案件だけを書くのね。了解しました」

 やけに潔く気味が悪いが、素直な事はいい事だ。

「えっ? 『猫が行方不明』って何ですか? 俺、その話聞いていないです」

 乗り出した君生の体を押さえつける。さっき聞かされた映画の話を再び聞かされる事は、苦痛以外の何ものでもない。確かに映画の結末と同じように、家の中キッチンの隙間から見つかりはしたが。

「君生、やめておけ。また映画の話だよ。もし詳しく知りたかったら、レンタルでもして映画を観ろ」

「ああ、そうね。とっても可愛い映画だから君ちゃんにも観てもらいたいわ。パリの十一区を舞台にしているの。十一区だから下町なんだけど、それでもパリの町は素敵よ。……って、やだ。ホームシック。パリの町が恋しくなってきたわ」

「何がホームシックだよ。お前のホームはここ! 日本だろ」

「まあ、そうなんだけど」

「くだらない話は終わりだ。それより君生。何か進展はないのか?」

「進展ですか? 全然ないですよ。手掛かりなし。河野の死因が左胸を刺されての大量出血だったって、分かったくらいで」

「まあ、心臓を狙ってんだから、それが直接的な死因になるだろうさ。それで他にはないのか? 一応聞き込みしているんだろ? 何か犯人に繋がりそうな目撃情報とか」

「あっ、目撃情報。そうです、そうです。河野が殺された夜も二丁目で白いスカートの男が目撃されていました」

「お前なあ、本当抜けているよな。大事な事すぐ忘れやがって」

 どれだけ呆れた顔を作って見せようが、君生が気にする様子はない。何もなかったかのように直樹が手にする電モクを覗き込んでいる。

「おい、カラオケは後だ。直樹、ホワイトボードだ。[白いスカートの男][白装束]それと……」

「それとホワイトだっけ? [W,h,i]ダイイング・メッセージね!」

 直樹が手に取った青いマジックで書き足していく。

 今野と高橋殺害の夜だけではなく、河野殺害の夜も現れていた白いスカートの男。それに十七年前の白装束の男達。一本の線の上で並んでいるはずなのに、その線が何なのか全く見当が付かない。
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