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2、重戦士のおつかい

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「あ、お醤油切れてた」

 一花が悲愴な声を上げたのは、夕方。肉じゃがの材料を鍋に入れた後のことだった。
 がっくりと肩を落としながらコンロの火を止めると、エプロンを外す。

「リクトさん、ちょっとお醤油買ってきますね」

 振り返って声を掛ける一花に、正座して洗濯物を畳んでいたリクトが立ち上がる。

「それなら、俺が買ってこよう」

「でも……」

 躊躇う同居人に重戦士は鷹揚に笑う。

「一花殿は料理の最中であろう? ならば俺が出掛けた方が効率がいい」

 分業だと言うリクトに、一花は若干の不安を覚えつつも厚意に甘えることにした。

「では、駅前のスーパーで1リットル178円のお醤油買ってきてください。近所のコンビニじゃダメですよ、100円以上高いから。ちゃんとポイントカードを出して、レシートも貰ってきてくださいね」

 百円玉二枚とポイントカードとエコバッグを渡されて、リクトは「任せておけ」と鎧の胸を叩く。

「俺は死の霧漂う邪霊の沼地を越えてホライア国王に書簡を届け、返事をもらってシュエ自治領まで戻ったこともあるのだぞ。これくらいのおつかいなど朝飯前だ」

「……スーパーまでの道のりは平らなアスファルトですけど、迷わないよう気をつけて」

 異世界の例えはイマイチ日本の女子高生には響かない。

「いってらっしゃい」

 リクトを送り出してから、一花はエプロンを締め直す。

(先にお味噌汁を作っちゃお)

 駅前までは片道徒歩10分、醤油を買う時間を合わせても30分で帰ってくる計算だ。肉じゃがの味が沁みる時間を考慮して、魚を焼くのは最後にして……。と考えながら冷蔵庫に向かっていると、ふと視界の端にちゃぶ台に載った手のひら大の黒い物体を発見した。あれは、異世界人が日本政府から支給されているスマートフォンではないか!

「リクトさん、スマホ忘れてる!」

 慌てて窓を開けて手摺から身を乗り出して呼ぶが、夕暮れの往来にはすでに全身甲冑の姿は見えなかった。

「……もう!」

 何かあった時に連絡がつかないと困るから、スマホはいつも持ち歩けと言っているのに。一花は憤慨するが、忘れてしまったものは仕方がない。

(スーパーまでの往復だもん、何もないよね)

 日本の少女は湧き上がる心配を無理矢理押し殺したが……。
 ――悪い予感ほど、的中しやすいものだ。

◆ ◇ ◆ ◇

 ガション、ガション。
 黄昏の駅前商店街に、重々しい金属音が響き渡る。

「ほら、買い物などどの世界も同じ。簡単なものだ」

 リクトは醤油の入ったエコバッグを掲げ、上機嫌に兜の中で呟く。本国では一流の冒険者だった彼が、この程度の仕事で失敗するわけがない。あとは醤油これを一花に届ければクエスト完遂だ。

「今日の主菜はサワラのサイキョー焼きと言っていたな。サイキョーとは、強いのか?」

 足取り軽く、帰宅の道を辿っていると……、

「キャー! ひったくりよー!!」

 突然、背後から女性の悲鳴が聞こえた。
 振り返ると、道路に膝をついて叫んでいる若い女性と、ブランド物のショルダーバッグを片手で掴み、原付バイクを運転するノーヘルメットにサングラスの男が見えた。
 男の原付バイクは物凄い勢いでこちらに突進してきている。
 帰宅時間の人通りの多い道、慌てて通行人が端に避ける中、リクトはふっと息を詰め、腹に力を籠めた。そして、右の手のひらを突き出し――

 ガッ!!

 ――原付バイクのヘッドライト部分を鷲掴みにし、進行を止めた。

「うわっ!」

 急停止の衝撃に、ハンドルから手を離した運転手の体が宙を舞う。そのまま大きく弧を描き、アスファルトに頭から叩きつけられる……寸前。リクトの伸ばした左手が、男の足首を掴み上げ、地面への激突を回避した。
 時間にしたら、たった数秒の出来事。
 右手には原付バイク、左手には逆さ吊りにされた男――ひったくり犯――を持ったまま悠然と佇む重戦士。夕日が後光のように差す全身甲冑の姿に、周りにいた人々はしんと静まり返り……たっぷり三秒後、どわっと拍手と喝采が沸き起こった。

「すげーぞ、あの鎧!」

「かっこいい!」

「なにかの撮影?」

 皆がスマホを出して写真や動画を撮り出すのを気にも留めず、リクトは失神しているひったくり犯を道端に下ろした。原付バイクは心得のある目撃者がエンジンを切ってスタンドを立ててくれたので、そのまま任せる。
 リクトは右肩を回して可動域を確かめる。
 日本に来てからあまり運動をしていなかったが、生身にも鎧にも大きな負担は掛からなかったようだ。
 リクトはエコバッグ片手に再び歩き出したが、

「待ってください!」

 ハンドバッグを拾い上げて駆け寄ってきた女性に足を止める。

「ありがとうございます! なにかお礼を……」

「いえ、当然のことをしたまでですから」

「では、せめてお名前を」

「名乗るほどの者ではありません」

 ……このやり取り、魔狼に襲撃された村を救った時もやったなぁ、と懐かしく思う。

「それでは、俺は大事な任務の最中なので」

 一刻も早く醤油を一花に届けねば。リクトが軽く片手を挙げ、助けた女性と観衆に別れを告げて踵を返した……その時。

「そこの全身甲冑の君、話を聴きたいから署までご同行願います」

 ……やっぱり駆けつけた警察官に呼び止められたのだった。

 それから二時間後。

 ガション、ガションと遠くから規則正しい金属音が響く。
 その音が耳に届いた瞬間、アパート前のオンボロ階段の下で膝を抱えていた一花は弾かれたように立ち上がり、走り出した。

「どこ行ってたんですか、リクトさん!!」

 近づいてきた重戦士に体当たりの勢いで飛びつき、ポカポカと胸鎧を叩く。

「全然帰ってこないから、心配したじゃないですか! スマホも置いてっちゃって。もう少しで捜索願出すところでしたよ! リクトさんまでいなくなっちゃったら、わたし、わたし……」

 涙目で見上げてくる少女に、リクトはおろおろと手を広げ、

「遅くなってすまない、一花殿」

 幼子をあやすように頭を撫でた。

「ちゃんと醤油は買ってきた、許してくれ」

「リクトさんが帰ってきてくれれば、お醤油はどうでもいいです。でも肉じゃがの続きは作ります」

 申し訳無さそうに身を縮める重戦士に女子高生は目の端を手の甲で拭って微笑んだ。

「でも、どうしてこんなに遅かったんですか? まさか、また職質受けてたとか?」

 階段を上りながら、暗い雰囲気を払拭しようとわざと明るく尋ねる一花に、リクトは神妙な声で、

「いや、今日は屯所でジジョーチョーシュされてた」

 ……。

「警察署で事情聴取って! リクトさん、一体なにしたんですか!?」

 閑静な住宅街に、一花の叫びが轟いた。


 ――そして。
 一花が事の全貌を知ったのは、翌朝のネットニュースでのことだった。
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