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37、運命の夜会(6)
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……つま先が痛くなってきたわ。
重くなる足取りに、フルールは誰にも気づかれない程度に眉根を寄せた。どうして正装の靴はこんなに幅が狭くてヒールが高いのだろう。
パウダールームで化粧直しをするフリして少し休憩してこようかしらと思っていると、進行方向に誰かと談笑している父アルフォンスを見つけた。傍らには兄ヴィンセントの姿も。これは素通りするわけにもいかない。お父様、と声をかけると、ブランジェ公爵は振り返った。
「おお、フルール。いいところに!」
呼び寄せられて、娘は父の左隣に立った。
「ご紹介します、娘のフルールです」
アルフォンスは正面の男性にそう言った。年齢は父より一回りほど上だろうか。濃い茶色の上に口髭を蓄えた初老の彼は初対面なはずだが、フルールは何故か見覚えがある気がした。
「フルール、こちらはシンクレア辺境伯、ジェフリー卿だ」
「初めまして、フルールです」
父の言葉に、娘はスカートの裾をつまんでお辞儀する。
辺境伯はクワント王国の国土防衛の要職を担う者に与えられた称号だ。
地位的には侯爵と同等とされているが。国境付近に広大な領地を有し、地方貴族の支持を得たその権力は絶大で、王家にも匹敵する軍事力と発言力を持つ。
しかし、シンクレア辺境伯は滅多に王都に出向くことがないので、フルールも名前は知っていたものの初対面だ。
「初めまして。フルール嬢。ふむ、噂に違わぬ美しさ! お母上によく似ておられる」
「ありがとうございます」
この場にいない母もまた、娘の年の頃には社交界の華と謳われていた。
「いやはや、ブランジェ家は良い跡取りと姫に恵まれて羨ましい」
辺境伯の見え透いた社交辞令を、ヴィンセントとフルールは笑顔で受け取る。
「久しぶりに会えて嬉しいですぞ、ジェフリー卿。めっきり中央社交界には顔をお見せにならなくなって」
アルフォンスの言葉を、ジェフリーは苦笑で返す。
「長距離移動は老骨には堪えましてな。幸い、やっと放蕩息子が領地に腰を据える気になりまして。吾輩は引退し、息子に家督を譲ることにしましたよ」
「なんと!」
国内屈指の権力者の世代交代宣言に、ブランジェ公爵は目を見張る。その衝撃は、会話が耳に入る距離にいた紳士淑女が一斉に動きを止めてしまう程だ。
「領主会合で正式に発表しますが、今日は顔見せがてらに。……おい」
ジェフリーが顔だけ振り返って声をかけると、数歩離れた場所にいた青年が気づいて歩み寄ってくる。
「こちらも紹介しましょう。息子のネイサンです」
紹介された若者は、公爵と令嬢に恭しくお辞儀をした。細身の身体にテールコートが似合う、濃い茶髪に切れ長の瞳の美形は――
「ネイサン・ミュラー・シンクレアです。公爵閣下、ヴィンセント卿、どうぞお見知りおきを。フルール嬢には、今更紹介の必要もありませんね」
――紛れもなく、詩文学の教師、ネイト・ミュラーだった。
「フルール、シンクレア閣下のご子息と知り合いだったのか?」
驚いて尋ねる兄に、妹は曖昧に頷く。
「ええ……。高等部の担任の先生で……」
ヴィンセントは騎士学校に通っていたので、ネイトとは面識がない。
「なんたる偶然! いやはや、我が家は娘の教育は妻に任せきりで……」
アルフォンスさえ顔を合わせたことがなかった。
……なんだか、狐につままれた気分だ。
父達と辺境伯の会話も耳に入って来なくなる。ネイトはネイサンの愛称で、確か辺境伯の領地は、子供は両親の複合姓を名乗る文化だったとフルールは辛うじて思い出す。
つまり、ネイトは何一つ偽ってはいなかったわけだが……。
現実味がなく見上げると、眼鏡をしていない元担任と視線が合った。彼は意味深に目を細めると、薄い唇を開く。
「フルール嬢。今宵、この場で巡り逢えたのはまさに僥倖」
柔らかく微笑んでから、今度はアルフォンスに顔を向けた。
「ブランジェ閣下、お願いがあります」
「なんだね?」
聞き返した公爵に、ネイトは澄んだ艶のある声で、
「フルール嬢を、我が妻にいただきたい」
アルフォンスはポカンと口を開き、ヴィンセントは色を失くす。
耳を欹てていた紳士淑女も息を呑む。
――それは、次期シンクレア辺境伯ネイトの、鮮やかな宣戦布告だった。
重くなる足取りに、フルールは誰にも気づかれない程度に眉根を寄せた。どうして正装の靴はこんなに幅が狭くてヒールが高いのだろう。
パウダールームで化粧直しをするフリして少し休憩してこようかしらと思っていると、進行方向に誰かと談笑している父アルフォンスを見つけた。傍らには兄ヴィンセントの姿も。これは素通りするわけにもいかない。お父様、と声をかけると、ブランジェ公爵は振り返った。
「おお、フルール。いいところに!」
呼び寄せられて、娘は父の左隣に立った。
「ご紹介します、娘のフルールです」
アルフォンスは正面の男性にそう言った。年齢は父より一回りほど上だろうか。濃い茶色の上に口髭を蓄えた初老の彼は初対面なはずだが、フルールは何故か見覚えがある気がした。
「フルール、こちらはシンクレア辺境伯、ジェフリー卿だ」
「初めまして、フルールです」
父の言葉に、娘はスカートの裾をつまんでお辞儀する。
辺境伯はクワント王国の国土防衛の要職を担う者に与えられた称号だ。
地位的には侯爵と同等とされているが。国境付近に広大な領地を有し、地方貴族の支持を得たその権力は絶大で、王家にも匹敵する軍事力と発言力を持つ。
しかし、シンクレア辺境伯は滅多に王都に出向くことがないので、フルールも名前は知っていたものの初対面だ。
「初めまして。フルール嬢。ふむ、噂に違わぬ美しさ! お母上によく似ておられる」
「ありがとうございます」
この場にいない母もまた、娘の年の頃には社交界の華と謳われていた。
「いやはや、ブランジェ家は良い跡取りと姫に恵まれて羨ましい」
辺境伯の見え透いた社交辞令を、ヴィンセントとフルールは笑顔で受け取る。
「久しぶりに会えて嬉しいですぞ、ジェフリー卿。めっきり中央社交界には顔をお見せにならなくなって」
アルフォンスの言葉を、ジェフリーは苦笑で返す。
「長距離移動は老骨には堪えましてな。幸い、やっと放蕩息子が領地に腰を据える気になりまして。吾輩は引退し、息子に家督を譲ることにしましたよ」
「なんと!」
国内屈指の権力者の世代交代宣言に、ブランジェ公爵は目を見張る。その衝撃は、会話が耳に入る距離にいた紳士淑女が一斉に動きを止めてしまう程だ。
「領主会合で正式に発表しますが、今日は顔見せがてらに。……おい」
ジェフリーが顔だけ振り返って声をかけると、数歩離れた場所にいた青年が気づいて歩み寄ってくる。
「こちらも紹介しましょう。息子のネイサンです」
紹介された若者は、公爵と令嬢に恭しくお辞儀をした。細身の身体にテールコートが似合う、濃い茶髪に切れ長の瞳の美形は――
「ネイサン・ミュラー・シンクレアです。公爵閣下、ヴィンセント卿、どうぞお見知りおきを。フルール嬢には、今更紹介の必要もありませんね」
――紛れもなく、詩文学の教師、ネイト・ミュラーだった。
「フルール、シンクレア閣下のご子息と知り合いだったのか?」
驚いて尋ねる兄に、妹は曖昧に頷く。
「ええ……。高等部の担任の先生で……」
ヴィンセントは騎士学校に通っていたので、ネイトとは面識がない。
「なんたる偶然! いやはや、我が家は娘の教育は妻に任せきりで……」
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つまり、ネイトは何一つ偽ってはいなかったわけだが……。
現実味がなく見上げると、眼鏡をしていない元担任と視線が合った。彼は意味深に目を細めると、薄い唇を開く。
「フルール嬢。今宵、この場で巡り逢えたのはまさに僥倖」
柔らかく微笑んでから、今度はアルフォンスに顔を向けた。
「ブランジェ閣下、お願いがあります」
「なんだね?」
聞き返した公爵に、ネイトは澄んだ艶のある声で、
「フルール嬢を、我が妻にいただきたい」
アルフォンスはポカンと口を開き、ヴィンセントは色を失くす。
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