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第三章 賢者
「ぶち壊して欲しい」 -2-
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ルイスはふっと息を吐き、柔和に笑う。顔はアルコールの影響で赤らんではいるものの、その表情は昼間のものと変わりないものへと戻っている。
「言ったでしょう? この目で見ているように噂を聞いてきた、と」
意味深に笑うルイスに、エヴァンは引っかかるものを感じた。
「それは、どういった意味でしょうか」
「せっかくの機会ですから、エヴァン様にはすべてお伝えしてしまいましょう。これは聖職者以外にはあまり知られていないことなので、あまり口外して欲しくはないのですが、賢者以上力を持つ聖職者は、治癒の力の応用で、他人の記憶を見ることができるのです」
「他人の記憶を見る、とは……いまいち想像ができないのですが」
「言葉どおりの意味ですよ。こう、対象の頭に手をやって、その者が記憶を思い起こすと、自分の記憶のように脳内で再生することができるんです。あ、ちなみに記憶を読み取る対象が、その記憶を思い起こしてくれないといけない以上、対象が同意していないことを見ることはできません」
ルイスはその技術を実演するように、手を誰かの頭に当てるような仕草をする。
「王都の外の生活が知りたくて、私は国中のあらゆる地域に人をやり、各地の様子を見てきました。その中でもっとも興味深かったのが、このユレイトです。安定した荘園や、邸宅の様子を見れば、その治世の才覚が卓越していることはわかります」
「荘園の様子はともかく、邸宅の様子で何か分かるのですか?」
「もちろん。この邸宅は、領主としての品格を損なわない程度の重厚さは備えていますが、広さや使用人の数も含めて、過ぎたるところがひとつもない。あなたは欲を抑え、己よりも民を一番に考えることのできる人間だ」
率直な褒め言葉に、エヴァンは軽く眉を下げて笑った。処世術として、こういった場面では、相手の褒め言葉を軽く否定して謙遜する方が簡単だ。だが、己よりも民を一番に考えることは、エヴァンにとって事実であり、それを否定することは難しい。
「優秀な使用人に仕えてもらい、このような立派な邸宅に住んで、日毎に素晴らしい食事を口にできる。俺は十分すぎる生活を送っていると思っています。それに、別に努力をしてそうしているわけではなく、俺には、そうする方が、心地が良いというだけの話ですから」
エヴァンの返事に、ルイスは微笑む。
「でしたら、あなたは領主としての才に恵まれている。生まれ持った才能を、ごく自然に生かせる立場にいる。類稀なることです」
「そうかもしれません。しかし、俺は実は、ロウやテディ、ルイス様が少し羨ましい」
「羨ましい、ですか? ロウくんにテディくん、それに私と、皆随分境遇が違いますが、それはまたどうして」
エヴァンは頷きながらデスクの上に軽く視線を落とした。そして、ルイスが己の話をし始める前に前置きをしたように「領主の息子として生まれた者の傲慢かもしれません」と言ってから話し始める。
「俺は次男です。立派な兄がおりますから、物心ついたときから、故郷であるルテスーンの領主に自分がならないことは理解しておりました。そして、小さい頃から、自分は騎士になるのだろうと思っていて、実際にルテスーン領では、兵士を経て騎士になっていました。そのことに対して、良いも悪いも感じたことはありません」
領主とは法王が任命するものであるが、実質的には他の職業と同じく世襲となる。領主が亡くなった場合、前の領主の長子が、同じ領の領主に任命される場合がほとんどである。
次男以降の息子は、多くはその領の騎士として働くことになる。
「兄を羨んだことはありませんか?」
ルイスからの問いかけに、エヴァンは首を横に振って答えた。
「まったく。そもそも、領主になりたいと思ったことはありません」
「では、ユレイトの領主に任命された時はどう感じていたのですか?」
「ええ、そこです。俺が皆さんを羨ましく感じるのは」
エヴァンはそう言って、軽く息を漏らしながら笑う。
「特に何も思わなかったのです。もちろん、俺の戦績を認めていただけて、領をいただけるなど、ありがたいことだと思いました。領主になることの責任も感じましたが、嬉しいとか嫌だとか、そういう感情は微塵も湧かなかった。俺は領主になりたくもなかったし、騎士になりたくもなかった。別に、自分が何をやることになろうが、与えられたものをこなすだけで、構わなかったんです」
机の上に置かれたランプの中の火炎岩は、炎の揺らぎを発生させることもなく、安定して炎を生み出し続ける。その薄いオレンジ色の光が、穏やかなエヴァンの表情を照らしていた。
「この感覚は、俺が恵まれているからこその発想なのかもしれません。一度も農民になったことはありませんから、もしそうだったら、という、あくまでも仮定の話です。しかし、もし俺が農民の息子として生まれていたら、特に何の疑問も不満も持たずに、農民として生きていたのではないかと思います。俺には自分の将来を変えたい、現状を変えたいという熱意や意志がない。そういったものを持っている者が、眩しく見える」
「なるほど。しかし、そんなエヴァン様から、すべての者が職業を自由に選べるようにしよう、という発想が出たのが興味深いですね」
「だからこそ、なのかもしれません。ロウもテディも、ルイス様も、何か望むものがあって、そこに熱意を燃やす人を眩しく感じる。だからこそ、応援したいと」
ルイスはようやく納得したように頷き、ゆっくりと椅子から立ち上がった。しかし、立ち上がった拍子に軽くよろめいた。エヴァンは慌ててデスクを回り込みそばへと向かうと、その体を支える。
「さすがに、飲み過ぎではないですか? こうなってくると精神を堕落させるというよりも、お体に障りそうですが」
「これは失礼。いつも部屋でダラダラと一人で飲んでいるものですから。こんなに足にくるとは思わなかった。それに、こんな夜中に、随分長居をしてしまいました。エヴァン様が寝不足にならならなければ良いのですが」
エヴァンは苦笑を浮かべる。
「ルイス様がいらっしゃらなくても、このところ慢性的な寝不足でしたから。お気になさらず」
ルイスが燭台を手に歩きだすのに合わせて、エヴァンは彼の体を支えながら共に扉の方へと向かう。そして、思いついたように付け足した。
「明日、ミレーニュ村の教会にお送りするときに、そうとわからないように酒をお贈りしましょう。酒は、いつも何の種類を飲まれていますか?」
「それはありがたい。酒の種類を選り好みできるような立場ではありませんでしたから、手に入るものであれば節操なく何でも飲みます。しかし、もし、注文してもよければラム酒をお願いできますか」
「承知しました」
エヴァンの返事を聞き、ルイスは本当に嬉しそうに笑った。そして扉を開き、外に出たところで振り向く。
「これからも、私は聖職者として、エヴァン様のなさることに意見することがあるかもしれません。しかし私個人としては、常にエヴァン様のなさることを全面的に肯定しております。そのことをどうぞ、頭の片隅にでも留め置いてください」
「俺は、そのご期待に応えられるでしょうか」
「エヴァン様ならばやってくださいますとも」
ルイスの言葉には、エヴァンに対する全幅の信頼が込められていた。
「部屋までは自分で歩いて帰れますので、どうぞご心配なく。それでは、おやすみなさい」
ルイスは就寝の挨拶を述べると、どこかふわふわとした足取りながらも、一人で歩いて廊下の闇の中へと消えていく。
彼の後ろ姿を見送ってから、エヴァンは扉を閉めて、一人執務室の中へと戻った。
扉に背を預け、エヴァンはその場で目を閉じて、ふうっと息を吐き出す。ロウ、ルイスの二人と話した言葉の一つ一つが、止めようもなく頭の中を駆け巡っていた。
それからエヴァンは自分のベッドに戻って体を横たえたが、結局朝まで再度寝付くことはできなかった。
目を閉じても、さまざまな光景や言葉や考えが、頭の中に浮かんでは消えていく。悶々としたまま、朝日を迎えることになる。
太陽が昇ると、窓の外からの光が厚いカーテンの隙間から漏れるように、部屋の中へと差し込む。
その縦に狭められた光は、窓と反対の壁に置かれている本棚を照らし出していた。まるでスポットライトを当てられているかのようなその光景を見ながら、エヴァンはふっと、息を漏らして一人笑う。
エヴァンの中に、一つのアイディアが降って湧いたのだった。
「言ったでしょう? この目で見ているように噂を聞いてきた、と」
意味深に笑うルイスに、エヴァンは引っかかるものを感じた。
「それは、どういった意味でしょうか」
「せっかくの機会ですから、エヴァン様にはすべてお伝えしてしまいましょう。これは聖職者以外にはあまり知られていないことなので、あまり口外して欲しくはないのですが、賢者以上力を持つ聖職者は、治癒の力の応用で、他人の記憶を見ることができるのです」
「他人の記憶を見る、とは……いまいち想像ができないのですが」
「言葉どおりの意味ですよ。こう、対象の頭に手をやって、その者が記憶を思い起こすと、自分の記憶のように脳内で再生することができるんです。あ、ちなみに記憶を読み取る対象が、その記憶を思い起こしてくれないといけない以上、対象が同意していないことを見ることはできません」
ルイスはその技術を実演するように、手を誰かの頭に当てるような仕草をする。
「王都の外の生活が知りたくて、私は国中のあらゆる地域に人をやり、各地の様子を見てきました。その中でもっとも興味深かったのが、このユレイトです。安定した荘園や、邸宅の様子を見れば、その治世の才覚が卓越していることはわかります」
「荘園の様子はともかく、邸宅の様子で何か分かるのですか?」
「もちろん。この邸宅は、領主としての品格を損なわない程度の重厚さは備えていますが、広さや使用人の数も含めて、過ぎたるところがひとつもない。あなたは欲を抑え、己よりも民を一番に考えることのできる人間だ」
率直な褒め言葉に、エヴァンは軽く眉を下げて笑った。処世術として、こういった場面では、相手の褒め言葉を軽く否定して謙遜する方が簡単だ。だが、己よりも民を一番に考えることは、エヴァンにとって事実であり、それを否定することは難しい。
「優秀な使用人に仕えてもらい、このような立派な邸宅に住んで、日毎に素晴らしい食事を口にできる。俺は十分すぎる生活を送っていると思っています。それに、別に努力をしてそうしているわけではなく、俺には、そうする方が、心地が良いというだけの話ですから」
エヴァンの返事に、ルイスは微笑む。
「でしたら、あなたは領主としての才に恵まれている。生まれ持った才能を、ごく自然に生かせる立場にいる。類稀なることです」
「そうかもしれません。しかし、俺は実は、ロウやテディ、ルイス様が少し羨ましい」
「羨ましい、ですか? ロウくんにテディくん、それに私と、皆随分境遇が違いますが、それはまたどうして」
エヴァンは頷きながらデスクの上に軽く視線を落とした。そして、ルイスが己の話をし始める前に前置きをしたように「領主の息子として生まれた者の傲慢かもしれません」と言ってから話し始める。
「俺は次男です。立派な兄がおりますから、物心ついたときから、故郷であるルテスーンの領主に自分がならないことは理解しておりました。そして、小さい頃から、自分は騎士になるのだろうと思っていて、実際にルテスーン領では、兵士を経て騎士になっていました。そのことに対して、良いも悪いも感じたことはありません」
領主とは法王が任命するものであるが、実質的には他の職業と同じく世襲となる。領主が亡くなった場合、前の領主の長子が、同じ領の領主に任命される場合がほとんどである。
次男以降の息子は、多くはその領の騎士として働くことになる。
「兄を羨んだことはありませんか?」
ルイスからの問いかけに、エヴァンは首を横に振って答えた。
「まったく。そもそも、領主になりたいと思ったことはありません」
「では、ユレイトの領主に任命された時はどう感じていたのですか?」
「ええ、そこです。俺が皆さんを羨ましく感じるのは」
エヴァンはそう言って、軽く息を漏らしながら笑う。
「特に何も思わなかったのです。もちろん、俺の戦績を認めていただけて、領をいただけるなど、ありがたいことだと思いました。領主になることの責任も感じましたが、嬉しいとか嫌だとか、そういう感情は微塵も湧かなかった。俺は領主になりたくもなかったし、騎士になりたくもなかった。別に、自分が何をやることになろうが、与えられたものをこなすだけで、構わなかったんです」
机の上に置かれたランプの中の火炎岩は、炎の揺らぎを発生させることもなく、安定して炎を生み出し続ける。その薄いオレンジ色の光が、穏やかなエヴァンの表情を照らしていた。
「この感覚は、俺が恵まれているからこその発想なのかもしれません。一度も農民になったことはありませんから、もしそうだったら、という、あくまでも仮定の話です。しかし、もし俺が農民の息子として生まれていたら、特に何の疑問も不満も持たずに、農民として生きていたのではないかと思います。俺には自分の将来を変えたい、現状を変えたいという熱意や意志がない。そういったものを持っている者が、眩しく見える」
「なるほど。しかし、そんなエヴァン様から、すべての者が職業を自由に選べるようにしよう、という発想が出たのが興味深いですね」
「だからこそ、なのかもしれません。ロウもテディも、ルイス様も、何か望むものがあって、そこに熱意を燃やす人を眩しく感じる。だからこそ、応援したいと」
ルイスはようやく納得したように頷き、ゆっくりと椅子から立ち上がった。しかし、立ち上がった拍子に軽くよろめいた。エヴァンは慌ててデスクを回り込みそばへと向かうと、その体を支える。
「さすがに、飲み過ぎではないですか? こうなってくると精神を堕落させるというよりも、お体に障りそうですが」
「これは失礼。いつも部屋でダラダラと一人で飲んでいるものですから。こんなに足にくるとは思わなかった。それに、こんな夜中に、随分長居をしてしまいました。エヴァン様が寝不足にならならなければ良いのですが」
エヴァンは苦笑を浮かべる。
「ルイス様がいらっしゃらなくても、このところ慢性的な寝不足でしたから。お気になさらず」
ルイスが燭台を手に歩きだすのに合わせて、エヴァンは彼の体を支えながら共に扉の方へと向かう。そして、思いついたように付け足した。
「明日、ミレーニュ村の教会にお送りするときに、そうとわからないように酒をお贈りしましょう。酒は、いつも何の種類を飲まれていますか?」
「それはありがたい。酒の種類を選り好みできるような立場ではありませんでしたから、手に入るものであれば節操なく何でも飲みます。しかし、もし、注文してもよければラム酒をお願いできますか」
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エヴァンの返事を聞き、ルイスは本当に嬉しそうに笑った。そして扉を開き、外に出たところで振り向く。
「これからも、私は聖職者として、エヴァン様のなさることに意見することがあるかもしれません。しかし私個人としては、常にエヴァン様のなさることを全面的に肯定しております。そのことをどうぞ、頭の片隅にでも留め置いてください」
「俺は、そのご期待に応えられるでしょうか」
「エヴァン様ならばやってくださいますとも」
ルイスの言葉には、エヴァンに対する全幅の信頼が込められていた。
「部屋までは自分で歩いて帰れますので、どうぞご心配なく。それでは、おやすみなさい」
ルイスは就寝の挨拶を述べると、どこかふわふわとした足取りながらも、一人で歩いて廊下の闇の中へと消えていく。
彼の後ろ姿を見送ってから、エヴァンは扉を閉めて、一人執務室の中へと戻った。
扉に背を預け、エヴァンはその場で目を閉じて、ふうっと息を吐き出す。ロウ、ルイスの二人と話した言葉の一つ一つが、止めようもなく頭の中を駆け巡っていた。
それからエヴァンは自分のベッドに戻って体を横たえたが、結局朝まで再度寝付くことはできなかった。
目を閉じても、さまざまな光景や言葉や考えが、頭の中に浮かんでは消えていく。悶々としたまま、朝日を迎えることになる。
太陽が昇ると、窓の外からの光が厚いカーテンの隙間から漏れるように、部屋の中へと差し込む。
その縦に狭められた光は、窓と反対の壁に置かれている本棚を照らし出していた。まるでスポットライトを当てられているかのようなその光景を見ながら、エヴァンはふっと、息を漏らして一人笑う。
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