夢なんか

悠行

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夢なんか-1

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 夢なんか、見るなと言われたような気がした。それほどに、彼女の絵を見た時の衝撃はものすごいものであった。私は彼女と話すよりも先に、彼女の絵を見た。確か美術の授業の一番初めは、好きに何か描けというものであり、私と別のクラスだった彼女の水彩画が乾かしている最中だったのを偶然見たのだった。
 それは12歳にしては上手すぎた。ほとんどが黒一色で描かれており、そこに挿し色のように上手く赤色が効いているのであった。それは後になって彼女の絵を描く定番スタイルであると知ったのだが、こんな絵が上手い人がいるんだなぁと思って驚いて、嫉妬を覚えた。
 小さい頃から、絵を描くことが好きだった。本当に大好きだった。自然と私の夢は画家になること、になり、それは無理でも絶対イラストレーターとかデザイナーとか、まぁ両方難しいものであるが、少なくとも絵を描く職業に絶対に就くのだと、私は決心していた。
 私は絵が上手かった。他の人に無いものを持っているわ、なんてお世辞かもしれないけど褒められたこともあった。褒められたいから描いているのではなかった。それは自信を持って言える。絵が好きで、偶然にもちょっと人より絵が上手かったから、またたくさん絵を描いて、さらに上手くなっていったのだ。小学生の頃からコンクールで何回も金賞をもらっていた。私は同世代の絵では、自分より上手いなどと思ったことはなかった。だから嫉妬なんてしなかった。それが過剰な自己愛からくるものだとしても。
 だから嫉妬を覚えて、そんな自分に驚いた。戸惑った。
 予想通りというかなんというか、その子はやはり私と同じく、美術部に入っていた。初めてのクラブがある日、美術室に足を踏み入れた私が見たのは、赤いパーカーの女生徒が、挿しこんだ光の中で、薄く微笑んでいる姿だった。正直な所、それはとても美しく見えた。きらめいて見えた。彼女は美術室の後ろに並べられた美術部の先輩の絵を見ていたのである。
 それが彼女と私の出会いであり、その他諸々全ての始まりであった。


 夢なんか、可愛い字の入った自分の名前が嫌いだった。夢野、それが私の名前だ。豪華すぎる、可愛過ぎると思っていた。そんな名前は自分には似合わないと思っていたし、結構変わった名前であるにも拘らず、周りも似合わないと思ったのかほとんどが私のことを名字である岡内という名で呼んでいた。
「夢野、」
 だから私のことを下の名で呼んでいたのはただ一人であり、それが彼女、二宮萩生であった。彼女は中一で出会った時すでに皆から「ニノ」と呼ばれていたので、私もそれにならってそう、呼んでいた。
 私たちの学年では私とニノ以外に美術部に入った者はいなかった。私達の同級生は絵の好きな人が漫画研究部に行ってしまったのだ。部活には人数の波がある。一つ上の先輩は一人も美術部にいなかった。しかし二つ上はたくさんいて、私たちは随分と可愛がってもらった。
 ニノはその五月くらいの入部時期の時点で、ちょっと知られた存在になっていた。うちの学校は私服だったので何を着ても自由だったのだが、その中でいつも赤色のパーカを着て闊歩している彼女には独特の雰囲気があったそうだ。私は部活に入るまで知らなかった。その頃、「二宮さん」と呼んでいた頃のことを、今でもたまに思い出す。私は入ったばかりの学校で人とどう接していけばいいのかいまいち分からなかった。今も分からないしずっと分からないのだろうけれど、今よりももっと分からなかった。とりあえず多くと人と同じようにふるまおうと努力していた。だからクラスの仲良くなった友達に、
「岡内の美術部で友達の、二宮さんって、ニノって呼ばれてる人?なんか独特の人だって聞いたけどそうなの?」
と言われて、後半の本題の質問より前半の断片的な情報に目が、いや耳が行った。ちなみにその質問にはどう答えたのか覚えていない。
「二宮さんってニノって呼ばれてんだって?私もそう呼ぼうかな」
「いいよ」
 初めの頃はどうにか上手くやりたくて必死であった。しばらくしてから、
「私は夢野のこと下の名で呼んでるんだからさぁ、夢野も私のことはぎとか下の名前で呼んでよ」
 と言われたが、そう言われてもどうも呼べなかった。それはとても親しい間柄の人間のすることだと思い、そして親しい関係にものすごくなりたかったのにもかかわらず、私はそうは呼べなかった。いつかこの関係が途切れてしまうのではないかと、何の理由もないのにいつも思っていて、私はいつも不安だった。いつか何かの拍子に仲が悪くなって、お互い名字で二宮さん、岡内さんなんて呼びあう日が来るのではないかと思うと、自分から好意を示すように、「はぎ」なんて呼べなかった。その時点で、私たちはすでにものすごく仲が良かったのに。自分の心配症さ、チキンさに自分でもあきれる。いや、初めに抱いた感情が「嫉妬」だったからかもしれない。
 それは今、それから五年経って、高三になった今でも変わらない。中高一貫の私立女子校だから、同じ友達と6年過ごした。そんな中でいろんな関係が広がって変化していったけど、私とニノはずっと、同じように部活の友達で、お互いの一番の親友であり、彼女は私を「夢野」と呼び、私は彼女を「ニノ」と呼ぶ。
 最初に絵に嫉妬したのにも拘らず、私が彼女とこんなにも仲良くなったのが実は少なからず不思議であった。多分、それは彼女の性格の良さのおかげだろう。彼女はとっても優しくて、皆に好かれていた。またものすごく美人、というわけではなかったが、彼女の顔立ちは品があって、おかっぱ頭がそれに妙にマッチしていた。
 中学の時、部活とは別に一緒によく漫画を描いた。内容は大抵ふざけたもので、全て鉛筆書きされているだけである。漫研の子たちが描いているような本格的なものではまるで無く、全てルーズリーフに描かれている。小学生の時に「算数には無地のノートを使え」といわれて買ったものがたくさん残っていたからだ。私は中学からずっとノート派だし、やはり罫線がある方が描きやすい為、要らなくなっていたのである。
 有名漫画のパロディを描いたり、あるあるネタを描いたり、ずっとお喋りしながら描いていた。それはとても楽しくて、私達の仲が深まった大きな要因だろう。私達の本や、音楽の趣味は多少違ったが、それでも一緒に帰りには本屋や、CDショップに行った。そこであった面白いことや、何故か二人の間で繰り返されるようになったフレーズ、例えば「いいえ、うどんです」や「そこにイエスが」等の言葉はふんだんに盛り込まれた。そして笑った。馬鹿笑い。
 あの頃描いた漫画の大半は私が所有している。今見返すと、あの頃の楽しくて仕方ない場の雰囲気に、そして楽しくて仕方なかった私のことがすぐに思い出せる。美術部が楽しくて仕方が無かった。学校生活の大半は私にとってつまらないものであった。私は人に話しかけたりするのが苦手で、いつも教室では居心地の悪い思いをしていた。でも、いつも美術部では先輩とも、もちろん同輩のニノとも、自然と話せた。みんなみんな仲が良かった。先輩達は人数が多いにもかかわらずみんな仲が良かった。だから私は幸せな気分で部活を過ごしていた。
 中一の秋に中三の先輩が引退して高等部の美術部に仮入部した。私たちは二人きりになってしまったが、それでもあまり問題はなかった。じゃんけんで私が部長、ニノが副部長になり、それまでと同様に活動を続けた。

「夢なんか、また」
 高三になってから私はよく同じような夢を見るようになった。夢を見ている時は幸せだ。そして毎回夢だとは気付いておらず、夢の中で言ったことに後悔したりしている。
 夢の内容は毎回ほぼ同じ。ニノが出て来て、私に好意を示す何かをする。好きだと言ってくるとか、抱きついてくるとか、ただ単に喋っているだけの時もあるのだけれど、ごく稀にキスさえすることもある。
 恐ろしい。
 私は何という夢を見ているのだ。
 いつの間にやら、ニノの存在は私の中でものすごく大きなものとなっていた。それはいつごろからだったか、ともかく中学の頃はただ単に仲の良い親友というポジションでしかなかったはずだ。しかし、今の私は常にニノと喋りたいし、独占したいし、気付けば彼女を眼で追っているのであった。
 たまに家で勉強している時に、ノートに「二宮萩生」と彼女の名前を描いている時がある。テレビの芸能人で、「二宮」という名字の人が出るとそれだけでその人がよく見えるし、ドキドキすると言うわけでもないのだけど、何か得体のしれない感情が自分の中に湧き上がってくるのを感じた。
 私は小学生の時、男子に恋したことがある。だから、これは恋ではないはずだ。そう、思ってみるのだけれども、どこかで私は女に恋してしまったのではないかという不安があった。
 女だから好きなのではないのだ。彼女、二宮萩生だから好きなのだ。
 ずっと彼女のことが羨ましかった。優しい彼女が、目立っても赤色のパーカーを着続けられる彼女が、そして何よりも、絵の上手い彼女が。
 中学二年になる頃には、私とニノは、学年の絵の上手い人として認識され始めていて、文化祭の宣伝ポスターとか、学内新聞の挿絵、文芸部の部誌の表紙絵等を頼まれるようになっていた。私のニノの絵のレベルはほぼ互角らしく、同じくらい頼まれた。
 でも、同級生の誰かの会話を、私は覚えている。偶然聞いてしまったのだ。
「あの二人、本当に上手いよね。さすが美術部って感じ。」
「もし美術部入ったら肩身狭かったかもねー」
「でもさ、二宮さんの方が、天才っぽいよね、絵が。岡内さんの絵は丁寧ですごくきれいだけど」
「あー確かにそんな感じはあるな」
 その時の屈辱、密かに思っていたことを言われてしまった衝撃は、今でも忘れられない。
 天才。
 私は凡人なのだろうか?
私は地味だ。彼女より全然目立たない。彼女は成績もいい。私の成績はいつも平均だ。彼女は話すのが上手いが、私は内気で、仲の良い人以外と話すのは苦手だ。
何度思ったことだろう。私は彼女に及ばないと。
私は彼女になりたいとさえ思ったことがある。でも、そうは思う癖に私は自分のことが大好きだった。自分の絵に誇りがあった。どこかで、私の方が絵は上だと思うことでギリギリの自尊心を保っていた。
そんなことを思っている癖に、私は友達として彼女のことが大好きであり、人間の心理の複雑さというものを身をもって感じていた。
不思議なことに、高校になるとその感情を丸ごと受け入れられるようになっていった。自分はそういうものなのだ、とあきらめているわけではないけれど、落ち着いて見られるようになった。今から考えると、子供の頃というのは何と辛い時期を生きているのだろう、と思う。大人になったらもっと楽なのだろうか、と思うと気も楽になると言うものだった。
私が楽々と高校生活を満喫し始めていたと言うのに、いつの間にか表れていた予定外物質が、この、ニノへの感情であった。
 今ももちろんニノのことは羨ましいのだけれど、いや羨ましいからこその感情なのか、・・・説明出来ないので放っておいていた。
 何故私は彼女のことを眼で追ってしまうのだろう。
何故夢で何度も彼女が出てくるのだろう。
考えれば結論はつくが、見ないようにしていた。それに、こういう感情には思春期特有のなんたら、とかがあると本で読んだことがあったので、そういうものだと思い込もうとしていた。
高3の六月、毎年恒例の体育祭が行われた。うちの学校は赤、青、緑の三組に分かれて行われ、中高六年間、色は固定で縦割りであった。私は青、ニノは緑だった。中学1年の時、青いいなー、とニノが言ったことを思い出す。六年目のはちまきをしめつつ、正直、私はかったるかった。しかし高校生活最後の体育祭、少しは青春しようという気も少なからずあったのだ。だが、女子校の体育祭は本気だ。生ぬるい気分では周りの勢いについていけないし、組を応援する気力は出なかった。だから適当に競技を選んで、やはり例年と同じくベンチでこっそり携帯でもいじっておこう。そう、思っていた矢先、写真部から助っ人を頼まれた。
「競技中とかの写真を撮るための人手が足りないの!岡内さん、騎馬戦も出てないし、美術部だからセンスもあるんじゃない?助けて!」
 写真のことはド素人だし体育祭の写真にセンスも何もないだろうと思ったが、暇なので快く引き受けた。なんでも特に騎馬戦に出る写真部員が多く、人手が足りないという。写真部からデジカメを預かり、腕章をつけて一日写真部員となった私は、暇なので騎馬戦にかかわらず一日中写真を撮り続けた。
「なに、岡内写真部員になったの?」
「そう、頼まれて。あ、そこの三人と一緒にとってあげる」
 ピースしているもの、お弁当を食べているもの、応援のためだと変な格好をしてきた奴の決めポーズ。
 カシャカシャ、と鳴りまくったデジカメには相当な量の写真が入っていて、サーバーにアップして写真部の頼んできた子に多過ぎ、と笑われたのだった。
 もちろん、頼まれた騎馬戦の写真はしっかり撮った。それはもう、しっかりと。
 ニノは騎馬戦で、緑組の、六番騎で後ろから上に乗る子の尻を支える役だった。地味な役どころが何ともニノらしい。派手なくせして、クラスでは発言しない、地味に回る。そういうところもうらやましかった。私はいつも目立とうとしてしまう。
 最終戦は青対緑だった。今年の青、つまり私の組は強く、どんどん帽子を奪っていく。私は撮った。青が奪うところ、緑がそれでも挑んでいくところ、そして下で支えるニノの表情を。
 ニノだけではおかしいから、私は積極的に他の騎でも下の子も撮り、いつもはあまり写っていない縁の下の力持ちたちがよく撮れているとなかなかに好評だった。
 サーバーにアップするとき、私はよく撮れたニノの写真のうち、一枚だけはアップしなかった。持っておきたかった。
 一枚だけ自分のものにしたとき、私ははっきりと、ああ、私はニノが好きなんだ、と分かってしまった。私はその写真を、自分のUSBの、他の行事の写真フォルダに、他の写真と一緒に入れた。それで、情報の授業などでフォルダを見るときに、こっそりと覗き見た。家ではなく、学校で見るのがよかった。秘密を持っているのだと思えた。
 人を、ましてや同性を好きになるなんてしんどい。だから私はこれを重過ぎる友情なのだと思った。そう、思うことにした。自分の中の違和感には気づいていたが、それを認めることは恐ろしく、無視することの方が容易だった。
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