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第二章

汚い世界(前編)(雅次視点)

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 ――お前、俺のところに来てくれるんだろう? これからは、ひとつ屋根の下でともに暮らそう。

 兄上にそんな言葉とともに手を握られた時、これから夢のように幸せな日々が始まるのだと思った。
 この十年、どんなに嫌いになろうと思ってもなれなかった……逢いたくてたまらなかった兄上とともに過ごせるのだ。
 幸せになれぬはずがない。

 だが、実際一緒に暮らしてみると、腸が煮えくり返ることしきりだった。

「若様、今日の鍛錬は俺としてくださいませ」
「いや、それがしと!」

 

 伊吹家世継ぎとなったせいで、兄上には大勢のごみが集っていると、話に聞いてはいたが、まさかここまでの集りようだとは思いもしなかった。

 どいつもこいつも、兄上の姿を見かけると何もかも放り出して一目散に駆け寄り、はちきれんばかりに尻尾を振る駄犬のごとくまとわりつき、おべっかをまくし立てる。
 その、全力で媚びを売るさまだけでも不快極まりないのに、俺の姿を見かけてもまとわりついて来るからたまったものではない。

「俺の大事な弟だからくれぐれもよろしく頼む」と、懸命に頼んで回る兄上を見て、俺を手懐けておけば兄上への心証もますます良くなると踏んでのことだろう。実に浅ましい。

 寄るな、ごみ蠅ども!

 吐き捨てたくてしかたなかったが、そんなことをしては兄上に迷惑がかかるし、ここにもいられない。
 ここで上手く立ち居振舞うための情報収集と思えばと己に言い聞かせ、根気強く話を聞いてやった。

 すると、これまたどいつもこいつも、兄上にあんなことをしてもらった。こんなことをしてもらった。と、兄上とのめくるめく思い出をやたらと自慢げに延々と語ってくる。
 挙げ句の果てに、

「雅次様は十年前、六年しか若様とともにおらなんだが、我らは十年前からずっと若様とともにあるゆえ、雅次様が知らぬ若様をよう存じ上げております。若様のことで分からぬことがあったら、遠慮のうお訊きくださいませ」
 そんなことまでほざいてくる輩までいた。

 畳針か何かで口を縫い合わせてやろうかと思った。

 甘い汁を吸いたい一心で兄上に集るごみ蠅ごときが、兄上の何を知っているというのだ。
 どうせ、腹の内は……兄上を平気で売り渡したあの三人と同じなくせに。

 仕事ぶりも、新参の俺でも分かるほど杜撰で穴だらけなだけに、余計虫唾が走る。

 そういえばもう一匹、毛色の違う鬱陶しい蠅がいる。
 樋口作左だ。

 他の連中のように直接関わってくることはないが、警戒しているのか何なのか、俺のことを常に監視し、些細なことでも逐一兄上に報告に言っているようだ。

 そんなことをされては……何食わぬ顔で父と内通している裏切者の始末など、やりたいことが山ほどあるというのに、これでは些末なことしかできやしない。実に目障りだ。

 おまけに、俺のことをあれこれ嗅ぎ回ってもいる。

 もし、家房のことを知られ、兄上に報告されたら。

 何度、殺してやろうと思ったか知れない。

 兄上に名を呼ばれるたび、「我こそが伊吹高雅の一の家臣」と言わんばかりのしたり顔で悠々と兄上の許に向かうさまを見ると、余計に。

 だが、あの男が自負しているとおり、作左は兄上の腹心中の腹心。
 あの三人と違い、下手に手を出せない。

 なんと歯がゆい。

 そして、そんな作左をはじめとするごみ蠅どもを増長させ、見え透いたおべっかに機嫌よくしている兄上にも腸が煮えくり返ってしかたがない。

 散々いたぶられ、一切助けてもらえなかったあの日々を、兄上は忘れたのか?
 あんな目に遭っていながら、安いごますりを馬鹿みたいに信じて、浮かれられる神経が理解できない。

 本当に、馬鹿な兄上。

 極めつけが……。

「初めまして。高雅様の妻の乃絵です」
 この女だ。

「兄上が一目惚れして京までもらい受けに行った女」と、事前に聞かされてはいた……が、実のところ信じてなんていなかった。

 俺の中の兄上と、色恋というものがどうにも結びつかなかった。ということもあるが、二人の結婚の真相から考え、純愛であったとは到底思えない。

 表向きでは、兄上はまず父に姫を嫁にしたい旨を伝え、父はこれを機に兄上を伊吹家世継ぎに据えることを決断。晴れて世継ぎとなってから喜勢家に結婚の了承を取り付け、嫁にしてから子を成した。と、いうことになっている。

 だが、
 早産だったと言い訳しているが、苦しいにも程がある。

 そして、琴が生まれる十カ月前と言えば、二人がちょうど出逢った頃。
 だったら

 嫁入り前の……しかも、由緒正しい名門の姫君が、逢ったばかりの男と体を重ねるなど言語道断。

 それに、生真面目な兄上の性格からして、兄上のほうから手を出したとは考えられないので、誘ったのは女のほう。淫乱にも程がある。

 こんなふしだらな女と結婚したって幸せになれるはずがない。

 兄上だって、最初のうちは初めて知った女の体に舞い上がっていたかもしれないが、今は後悔しているのでは?

 なんて、色々考えていた。

 だが、女に寄り添い、蕩けるような笑みを浮かべる兄上を見て……兄上はこの女と一緒にいることが一番幸せに想っているのだと思い知った。

 それだけ、彼女を見る兄上の眼差しは穏やかで優しかった。俺へのそれとは、比べ物にならないくらい。
 そして、こうも思い知る。

 兄上と二人きりで生きていたあの日々には、二度と戻れない。
 俺のためだけに生きてくれていた兄上はもう、この世のどこにもいない。

 今、兄上が最も大事にしているのは彼女。

 だから、俺が父の許でひどい暮らしをしていることも、俺が兄上のことを待っていたことも知っていながら、義姉を手に入れるため、京へ向かった。

 俺は俺。義姉は義姉と言っていたが、結局……兄上は俺よりも彼女のほうがずっとずっと大事で、彼女のためなら俺のことなんか簡単に放り出してしまえる。

 兄上の、俺が大事だなんて気持ちは、どんなに綺麗な言葉を尽くしたって、所詮はその程度。
 鹿

 その証明である彼女を見るだけで……この身をズタボロにされた挙げ句、無様な姿を晒し者にされ、嘲笑われているような心地になる。

 ひどく惨めで、虚しくて……兄上と離れ離れでいた頃より、ずっと辛い。

 毎夜、ここから逃げ出して、遠くへ行きたい衝動に駆られるほど。
 だが、そういう時に限って、

「月丸……じゃない。雅次。いるか?」

 兄上が訪ねてくる。毎夜、必ず来る。そして、呆れるほどに、あの頃と同じ眼差しで俺を見、微笑いかけて、

「今日もこんなに働いたのか。すごいな。偉いぞ」
 頭を撫でてくる。

 人の気も知らないで。憎たらしくてしかたなかった。
 けれど、それでも――。

「……ま、また、人を子ども扱いして!」
「はは。お前もまた大人ぶって。俺たちは兄弟なんだ。気負わず甘えればいいじゃないか」

 ……兄上、好きっ!

 極上の笑みを向けられると、問答無用で力いっぱいそう想わされてしまう。

 昔と同じように頭を撫でられたり、抱き寄せられても……いつまでも子ども扱いして! と、腹が立つと同時に、ひどく心地よかった。

 家房の件があって以来、人に……特に男に触られるのがとにかく駄目になってしまっていて、少し触れられただけでも鳥肌が立つほど気持ち悪い。

 けれど、兄上だといつまでも触れていてほしい。この温もりに包まれていたいと思うほど気持ちいい。安堵する。
 そんなものだから、この瞬間さえあれば、他はもうどうでもいいとさえ思ってしまって……ああ。

 兄上も大概だが、俺もどうしようもない。

 でも、どんなに辛くても、駄目なものは駄目だから……兄上と二人きりで過ごす、ほんのわずかなひとときのためだけに、俺は呼吸していた。

 それでいいと、思っていた。
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